生き霊うどん(!?)
おそらく30年ほど前の話。
田舎に顔を出すと、母がご近所のことで「あの人は、根はいい人なんだけど」と話しはじめた。それはわたしも知っている人物で、母とはかなり親しかった。
どうやら、出先で少額を貸したらしい。具体的な金額は忘れたものの、千円前後だっただろうか。30年くらい前の田舎の千円といったら、けっこう価値があった。
その人とはその後に何度も顔を合わせているのに、すっかり忘れているようで「返してくれる気がしないが、こちらからは言えない…」と、そんなことを母は何回かくり返した。かなり気にやんでいる様子だった。
それから半月くらいしてからだろうか。
わたしの住む東京に、母から電話があった。
電話に出るなり、母の「ふふふっ」という楽しそうな声が聞こえる。
どうしたのかと尋ねると、そのときのお金が、返ってきたという。
勇気をふるって催促できたのかと思えば、どうやら違うらしい。
「夢に、出たんだってさ…。おかしいねぇ」
聞けばすごい話だった。
そのご近所さん(仮にTさんとしておく)の夢に母が出たとのこと。そのお宅の中に、母がいつの間にかはいってきていたのだという。
Tさん宅の廊下で、うちの母が悲しそうな顔をしながら、ひたすらうどんを打っている夢だったそうだ。
どうしたのかとTさんが尋ねる。すると母は少し離れた別の場所に現れ、ひたすらうどんを打っている。またTさんが尋ねると、さらに別の場所に現れ、そこでうどんを打つ。
親しいはずなのに、わけも言わずにただうどんを打つなんておかしいと、Tさんは夢の中で困りきっていたそうだ。
目が覚めてからずっとそれを考えていて、ふと「お金を返していない」と思い出したという。
その顛末を聞いて、さもありなんと考えた。
わたしに「Tさんは、ほんとはいい人なんだけどねぇ」と、ほんの数回とはいえ語った母の口調には、悔しさがにじみ出ていた。おそらくTさんとの普段のやりとりで、母の仕草や表情にそうした思いが出たのだろうというのが妥当な解釈ではあるが——
だが以前から母やその家族には謎めいた逸話が多いこともたしかだ。一瞬ではあるが、源氏物語の六条御息所(嫉妬のあまりに夕顔をとり殺す)のような、生き霊めいた執念で、Tさんの夢にお邪魔した可能性もあるのでは、との思いが浮かんだ。
わたしがこの話を「生き霊うどん」として覚えていることは、もちろん母には話していない。