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ざわつきまでの、ディスタンス

 ネットで、ある方が親切にしてくださった。直接の知り合いではないが、知っている場所に出入りしている人だった。

 こちらがある情報の基礎であるABCを教えてもらえたらありがたいと思っているところに、付加情報付きでA'B'C'という細部にわたった話まで、熱心にメールで送ってくれた。助け合いというのは、何にも代えがたい。

 だが、それらについてまだきちんとしたお礼もしていないし、じっくり読めていない状態だったにもかかわらず、連絡をもらう頻度はまったく下がらず、わたしは不安になった。さらには、このくらいまでが頭にはいったら、いつか尋ねてみようかと思っていた「先の先の話」まで、話題が進みそうになっていた。

 不安を通り越して、わたしは陰鬱な思いにとらわれはじめた。

 受けとっていることは伝えなければならないが、中途半端にお礼だけでもこまめに返したら、この調子でさらにたくさん資料を送ってきてしまうのでは——。それが不安で、メールの返事を1〜2日に1回まとめて「ありがとう、まだ前回の分を吸収し切れていないのですが、数日中には追いつくかと思います」と告げていた。

 だがついに。

 わたしがそういった返事をしていることに、適当にお礼を言ってあしらっているのではないか、自分が親切にしてあげているのは無駄だったのではと、その人に疑念をいだかせてしまったようだ。不快に思っているらしい雰囲気が、わたしに伝わってきた。

 開始からここまでの間は、やりとりがなかった週末を含めても、たった10日間ほどだ。

 これまでの人生経験から「こう書けば、相手はわたしがまだ読み終えていないことと、最優先のやりとりを望むほど急いでいないと気づくはず」と通じそうなニュアンスで、返事を書いていたつもりだった。だが、それが通じていなかった。

 そういう文体が通じないほど年齢または価値観が違う相手なのだとしたら、もしかして、ほかの面(今後のお付き合い)でも支障が出るほど、気が合わない人である可能性があるのではと、後半のたった数日で、わたしはさらに陰鬱になった。

 ネットでのことなら何とでもなると、お考えの方もいらっしゃるかもしれない。だがまじめな用件でのつながりは、実生活での付き合いと、なんら変わらないはずだ。そんな先まで考えてもいいことはないのだろうが、ネットの人間関係で適度な距離をたもつのに慣れてきた立場としては、この予想外の展開に、ひたすらとまどっていた。

 もしこの人と、今後はトラブルになったらどうしようと、そこまで考えてしまう。わたしもこのご時世で、かなり神経が参っているのだろう。普段よりさらに気分の上下が激しい。

 今後、仲良くできないかも。
 嫌なことになるかも。

 でもそれを、いまくよくよ考えてどうする?

 ここで、もう一度だけ、書いてみることにした。

 自分はのんびりやっているし、タイミングが合わないことがあるけれどメールはきちんと読んでいます、と。
 連絡が行き違いになったり、やりとりがちぐはぐしてしまうことがあるのは、こちらがのんびりなせいですけれども、その分だけ余計に、お手数をおかけしていますね——

 そこでやっと、相手もわたしの言わんとするところを理解してくれたようだ。返事の文体が、心なしかなごやかになり、明るい言葉もはいっていた。

 ほっとした。

 その返事を読んだとき、田舎の別荘で日だまりのサンルームに寝転び、山でも見たらこんな気持ちかと思うような、心地よいため息が出た。もちろんそんな別荘は持っていないが、持っていたらきっとそれくらい素晴らしいという意味だ。

 すんでの所で、正気にとどまった気がした。

 ぶち切れるのは誰しも簡単だろうが、それにはかならず結果がともなう。たとえば花瓶を割ったら元にはもどらない。花瓶さえあれば、いつかは別の花を入れることもできるが、別の花瓶を用意したところで、自分が割ったという記憶は、少なくとも残る。

 最初に自分のほうから、やわらかな言い方をするなんておかしいという人も、いるかもしれない。だが、どちらかが穏当な態度に出て花瓶が割れなくて済むのなら、そのほうがいい。

 こんなちょっとしたことで壊れずに済んでいる花瓶は、もしかすると、意外にたくさんあるのかもしれない。

 


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杜地都
家にいることの多い人間ですが、ちょっとしたことでも手を抜かず、現地を見たり、取材のようなことをしたいと思っています。よろしくお願いします。