モハメド・オリ・ベーグル
「これ、それが回り終わるまでにやって欲しい!」
「終わるまで何分?」
「2分ぐらい!」
「うぉっけーーー!!」
ほとんど毎回、こんなやり取りをしていたパン屋のバイト。
毎度毎度、分刻みで動きまわり、分刻みで喋り、私たちは「生き急いでるなー!」と笑いあった。
店長のおりちゃんと初めて出会ったのは、同じマンションの友人が、私にこう言って来たからだ。
「ねね、ときちゃんがすっごく好きそうな人が、このマンションに引っ越して来たよ!」
私の好きそうな人とはどんな人だい?
自分でもその辺の把握が出来ていないのに、友人はきっぱりと言い切った。
「その娘さんと、うちの娘が習い事一緒だったの。でね、お茶に誘ったから、ときちゃんも来て!」
勢いが凄かった。手練れのお見合いおばばの勢いがある。
「もう絶対好きになるから!」
ええー、今私、結婚には興味が…いや、あの…!
とか言っているうちに、お茶をする日になった。
おりちゃんは、そこにベーグルを焼いて持って来てくれていて、美味しい美味しいとはしゃぐ私たちに
「実は前にもパン屋をしてて。広島でもやろうか迷ってる。だけど、3年でまた引っ越すと思うんだよね」
と、そう言った。
たった3年しか住まない予定の広島で、パン屋をオープンしようか迷っている。
もうその時点で惚れてしまった。
私だったら、最初から悩まない。
3年間、ボーッと生きるに決まっている。
スゴイぞこの人…!めっちゃ前のめりに生きている!!
「ね?好きでしょ、ときちゃん」
友人が、誇らしげにそう言った。
自分でも気づいてなかったのだが、どうやら私は、前のめりに生きている人を見るのが好きらしいのだ。
なぜかそれに、友人は気付いていた。
「出会わせてくれてありがとう!」
かくして、おりちゃんがパン屋さんをオープンするのを、全面的に応援するよ!と、私と友人は無責任に盛り上がった。
応援って、例えば何かは分からなかった。
おりちゃんは、だから、最初から人に頼っていなかった。
あっと言う間に古民家を借り、あっという間に内装を自分でトンテンカンと作りこみ
「オープンするから遊びにきてね!」と言った。
…何者なんだこの人は。
それから彼女は、ラジオに店を売り込み、いくつかの雑誌に取り上げられ、その後地方のテレビ放送にも出演した。(ちなみに私は客としてテレビに映ってめちゃくちゃ興奮した)
私たちが、ほんの数回パンを買って応援した気になっている間に、彼女はお店を、人気のパン屋に育て上げていたのだ。
しばらくして「忙しくなってきたから手伝ってほしい」と、おりちゃんが相談をしにきてくれたとき、ちょうど娘が小学生になるタイミングだった。
これは、運命に呼ばれているな、とバイトを引き受けてびっくりした。
これだけの短期間に、店を人気店にする人だ。
薄々は感じていたが、とにかく1秒たりともジッとしていない。
次から次にパンを捏ねあげ、具材を並べ、指示を出して焼いていく。
ボーッとしていたら、私も丸められてオーブンに入れられる勢いだ。
初めのうちは、「それ終わったら2分そっちの丸めて!寝かせてる方は下に並べて、あ、さっきのやつは水ふって、6、6、6、5で並べてな!」
…なんの呪文ですか?って聞く暇もない。
彼女は汗だくで次のパンを焼いてるし、捏ねてるし、茹でている。
動きが早すぎて、3人に見えるけど、私自身は一人分にもなってない。
「ひぃー!はいー!」
毎回、時間いっぱい、分刻みで無我夢中でついていった。
しばらく経つと、私もだんだん分刻みに慣れて来て、1分でも手が空くと「今ちょっとだけ詰め替えイケルよ」とか言えるようになって来て、1年経ったら、分刻みにパンを作りながら談笑も出来るようになった。
ところで彼女の口癖は
「倒れそうな時ほど引くな、前に倒れろ!」
というもので、何か失敗したり反省点があると、猛烈に後悔したかと思いきや、急に気持ちを切り替えて、「よし!ときちゃん、今からもう一回転いくわ!」と猛然と走り出す。
私は、猛然と走り出したおりちゃんに、何度か轢かれそうになったりもした。
「店長ー!もう丸められませんー!」
「いやときちゃんならいける!前に、前に倒れるんやー!」
「昨日、もうちょっと時間に余裕持つって言ったじゃん!」
「いや、昨日の私を超えられる気がする!」
時々、咆哮するパン屋があったら、それはおりちゃんのパン屋だ。
ちなみに、娘が学校から帰る時間までには必ず帰してくれた。ただただ、時間の密度が濃くなるのだ。
流行り病が出始まった時も、彼女は全く引かなかった。
あっという間にパン用のショーケースを手作りし、販売方法を変更しては反省点を改善して、売上を確保していった。
おりちゃんが何と戦っているかは分からない。
子供はまだ小学生が2人、旦那さんもきっちり働いている。
そしてこの店は期限付きだ。
ちょっとぐらい引いても、きっと誰も咎めない。
だけど、彼女は蝶のように舞い、蜂のように刺す、という、パン屋版モハメド・アリみたな格好良さがあって、私は惚れ惚れしていた。(なんだその例え)
そうして、いよいよ、パン屋の最終日を迎えた。
彼女は宣言通り、きっかり3年で広島を去ることになった。
あともう1年で、多分私も転勤だよ、ギリギリまで働きたかったなぁと私が言うと、
「じゃああと1年、広島にパンを送るから、それを売るバイトしてくれる?」
驚くことに、おりちゃんは、私が知らない間に、間借りできる場所を探して、時々広島にパンを送ってくれる手筈を整えていた。
前のめりに生きている人を見るのが好きだ。
私は、なかなか前のめりに生きられない。
それは、怖さだけじゃなくて、億劫だとか面倒だとかも含めて、「出来ないし、無理に決まってる」そう思っているからだ。
だから、そういう人を見ているだけで十分だった。
頑張っている人を応援して、自分もちょっと力を貸したんだよって言えるぐらいの距離感が心地いい。
でも、彼女の前のめりには、度肝を抜かれることばかりだ。
「私のベーグル任せるから、よろしくね!」
売れ残ったらどうするん?
私が何か手筈を間違えて、ベーグル無駄にしたらどうするん?
そんな不安を、私は彼女に言えなかった。
こんなに前のめりに生きてる人が、私にベーグル預けるって言っている。
ここで前のめりにならなかったら、私はいつ前のめりになるんだ?
それが、2021年の4月。
おりちゃんは、広島を去ったあと、またすぐパン屋をオープンさせた。
その合間に広島にもベーグルを送ってくれる。
相変わらず、前のめりに、ボウボウに燃えている。パンが焦げないのが不思議なぐらいだ。
そして、私は、日常的にパン屋が無くなってしまった時間を埋めようとして、noteにたどり着いた。
ずーっと私の中でプスプスと燻っていた「何か書いてみたい」という思い。
何を書くん?誰に書くん?誰が読むん?
プスプス…
「人生一回やで?あと何分残ってると思う?」
なんだか不意に、おりちゃんが、ボウボウと燃えながら私を追いかけてきた気がして、私はすごく慌てて、名前も決めないまま、noteにアカウントを登録したのだった。