
🎧あなたはやっぱり、マーメイドではなく。
おおおお…!!
おあッ!
あ、ありがとう…ござ…(照)
わーーーーっ!て思います(キリッ)
すまスパメンバーに入れていただいてからというもの、褒められるとこのリアクション、感動してもこのリアクション。
極まった時の語彙力の欠如、どうにかしてください、どうもとき子ですこんにちは。
今回のすまスパはこちら!
いぬいゆうたさんをゲストに、今までのすまスパを振り返りつつ、新パーソナリティーとして参加している私についてもいろいろ聞かせていただきました。
ええと。まず、私、興奮していて声が大きい、イヤホンマイクが近い近い。
おおおおお…!の鼻息が荒いので、音量には十分ご注意ください。
いつもより前フリが短いと見せかけてからの。
今からが長いんですのよ、油断なさらないで下さい(なんの)
朗読といえばいぬいさん。いぬいさんと言えば朗読です。
あの声で読まれると、作品の魅力にさらに明瞭な力強さが加わります。
音が入ることで、より生身になる、温度を感じる、物語が立ち上がる、そんな気がします。
「声に出して読む」のと「朗読」は似て非なるもの。
声に出して読む、というのは誰にでもできることなのだと思うのです。
一方「朗読」というのは、聴いてくれる方ありきのもの。聴いてくれている方の脳内に、どれほど世界観を感じさせることができるのか。
語り手の世界観ではなく、聞き手が勝手に世界を作り出してしまう、そんな朗読が出来たらなら。
そんなことを考えながら、朗読してきました。
マジメか!ええ、大マジメですともさ!
いぬいさんと初めて一緒に朗読させていただいた時、その圧倒的な魅力に感嘆しました。
もちろん、いぬいさんの朗読は聴いたことがあるんです。
だけど、さっきまで「あははー」とリラックスした声を聴いていたすぐ後の「呼吸の仕方が変わる瞬間」をね、耳元で聴いてしまったものだから。
ぬおおおお…!!!(語彙力)
となりました。
ああ、私は呼吸が変化してない!
そんなことを思ったんです。小手先でうまく朗読してる風だな、と。
私はまだ、声に出して読んでいるだけなんだな、と。
だからといって落ち込んだわけではなくて、今は「まだ」だけど、ひとつひとつ積み重ねていくしかないのだぞ!と、ワクワクしてしまった。
そんな折、いぬいさんは「とき子さんと言えばエッセイじゃないですか」
「エッセイを読んでみるというのも魅力になるかもしれない」
そんなことを言っていただいて。
私の魅力。積み重ねていきたいと思っている自分。
誰かのためでなく、自分のことを純粋に考えることってなかなかないことです。
嬉しくて、嬉しすぎて、また語彙力を失いました。
ピリカさんの魅力、こーたさんの魅力、Marmaladeさんの魅力。
それぞれが、自分の立ち位置や魅力を考えて、大マジメに楽しんでいる。
どおりで心地よいわけだと、いぬいさんの解説で納得してしまいました。
さて、そのエッセイで、今回いぬいさんに読んでいただいたのはこちらです。
そして、いぬいさんが、さらにこの朗読のために効果音なども入れて朗読して下さったのがこちら!
私は、今も、家族にnoteの存在を教えていない。
それは両親に対しても同じなのだが、ある日突然「自分で本作った」と言って、『なけなしのたね』を送付した。
その本のひとつに、この作品を収録している。
母は生まれつきの股関節脱臼症で、完治しないまま大人になった。
陸上では早く走れた試しがない。
「ビッコビッコ〜♪」と子供の頃はずっと揶揄われていたという。
しかし、彼女の足にはヒレがついていた。
「水中では誰よりも早く、誰よりも美しく進める」
おそらく、彼女は、水中で自尊心を育んだ。
本人は、マーメイドと思っていたかもしれない。
マーメイドになるには、彼女には、圧倒的に「儚さ」が足りないのだけれど。
もっと泥臭く、もがいて手に入れたはずのヒレなのだから。
だから彼女は、水中に入ると逞して美しかった。
スタイルが悪くても、足の太さが違っても。
ちなみに陸上に上がるとどうなるかというと、それはそれで、水中と変わらぬ堂々とした佇まいである。
いつだったか、母のジーンズを買いに付き合ったことがある。
試着室に入っていると「ズボンの裾の長さを見ましょうか?」と店員さんが来た。
「足の長さが違うから、両方きっちり長さを測ってね」と母が言ったので、私は驚いて母に言った。
「え、お母さん、足の長さ違うの!?」
すると今度は母が驚いたように笑った。
「なんでお母さんがびっこ引いてるかわからなかったの!?」
母の足が悪い、という認識をほとんどしていなかったことに気がついた瞬間だった。
「ああ、びっこ引いてんだったねぇ」と新発見をしたような気持ちだった。
(※この表現は適切でないとされています)
そういや母は、足に関して「具合が良くない」と口にすることはほぼなかったし、それを理由に何かをしたりしなかったりということもない人だった。
本人曰く「自分でも忘れている」ということで、鍛え抜いた太ももの筋肉が、痛みも劣等感も不便さも全て取り除いてしまったらしい。
そんな回答あるか。格好良すぎるだろう。
そんな風に母のことを思っていたのに、小学生の時、一度だけ「格好悪い」と認識してしまったのが、あのエッセイに書いた小学生の子供会のプールだった。
あれは、大人になるまで抱えていた、私の懺悔だったのだ。
母は、それを読んで「こんな風に思ってくれていたのねぇ」と嬉しそうに笑った。
もちろん、他にもいろいろ褒めてくれていたのだが、とりわけ「クジラがね」「平山さん(仮名)にも読ませていい?」と言っていた。
朗読の話に戻ります。
いぬいさんが母の声を演じてくれた時、「そうそう!その底抜けの明るさが母です!」
そう思った。
クジラの姿で泳ぐ母が、頭の中でイキイキと再生されていく。
「お母さん、みんながあなたのことを、こんなにもイキイキと思い描いてくれるのよ」
来週、東京文フリが終了したら、その足で実家に会いにいく予定になっている。
5年前の癌、その後のウィルスの蔓延で、最近、自分がクジラであることを忘れてしまった母へ贈る、特別なプレゼントになりそうです。
ピリカさん、この機会を作ってくれてありがとう。
いぬいさん、私もクジラぐらいの力強さで伝えたい。
ありがとうございましたーーー!!!