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過干渉と共依存と境界線
幼少期から、親から過干渉と依存を受けてきた。
果たして、それのなにがいけなかったのか?
問題は、親が、子どもの人生と親の人生の境界線を曖昧にしてしまっていたこと。
親の顔色を伺って生きてきた。そのことを親は、何も問題に思っていなかっただろうと思う。
親は親の、自分は自分の人生を生きる。
子が、そのことをしっかりと決めなければ
親子の境界線は曖昧なままなのではないだろうか。
正確に言うと、子の心の中に住み着いた親からのジャッジと、本当の自分の本音との境界線がわからないままだと、いくら親から離れても、関係性は変わらないと思う。
子供の生きづらさの発端である親には当然、悪気はない。
おそらく、頑張って子育てしただけという認識である。
いっしょうけんめい育てた自分の子供を、リスクから遠ざけたいと願うことが、感情的に子供に接することが、結果的に親子の関係性と子供の心を拗らせることになるなんて、思ってもいないと思う。不器用で、未熟な親子関係。
小中学校の授業で、心理学を必須にすればいいのにね。
子のほうは、親と自分の考えは違うと心の奥ではわかっているから、その違いをなんとか認めてほしいのだけれど、親は親で、良かれと思ってあれこれ頭ごなしに言ってみたり、思い通りにならないと感情的になってみたり、なかなか難しい。こうなってくると、感情そのものが恐怖である。子は、感情なんてなければいいのに、とさえ思ってしまう。
これ、最終的に、親の考えを変えることが必要なのではなくて、子の方が、『もし、親にわかってもらえなくても、自分は大丈夫』と、腑におちることが子の生きづらさの解消に繋がっていくと思っている。
自分の中に、信念を持つということ。つまり、心の中で、自分が自分の親になって、励ますイメージ。
心の中に、めちゃめちゃ愛が溢れてるかんじ。
生きづらさを手離すことを決心することは、難しく思えるかもしれない。子供の頃から言い聞かされてきたことを手離すことは、怖いことだ。
環境を変えても、人間関係を変えても、こびりついた思考パターンや感情サイクルは、なかなか頑固なものである。
ただ、どうしても、そこのところだけは、自分で気づかないと、前に進むことはできない。つまり、同じことを繰り返してしまう。
わたし自身、人間関係や、自分に厳しくし過ぎて心が折れたり、同じような失敗を何度も何度も嫌になるほど繰り返して、40過ぎて、いや、42歳になってからでやっと、ようやくスタート地点に立てたと思っている。今でも、間違えることは怖いし、不安になることもたくさんあるし、怒ったりイライラすることもある。
『人生をかけて愛する対象を見つけたい』というふうに考えているわけではなくて、自分は、『これからの人生で、自分をちゃんと愛したい』と思っている。それが、スタート地点に立てたということ。そう思えたからこそ、今の、これからのわたしのマインドなら、結婚というものにチャレンジしてみようと思えたのだ。
春に、前のパートナーとお別れしたのも、嫌いになったわけではないけれど、日々の生活にこれ以上、不安を感じて生きたくなかったから。自分の人生を大切にするって、そういうことだと思う。怒るでもなく、責めるでもなく、きちんと話ができたと思う。
わたしは、これから、いろいろなことを感じると思う。
そのことを少しずつ、話していこうと思ってる。
このようなことを綴っていると、最近はnoteでいろんな方の記事に出会えて、共感を受けたり、昔登録した心理カウンセラーの不定期のメルマガ(南ユウタ先生です)をじっくり読んでみたり、あらためて勉強になることが多く、このような時代を過ごせていることがとてもありがたいと思う。
『人を愛するということは、その人を愛することを通して、世界のすべてを愛すること』
わたしは、そんなふうに人を愛したいと思う。