機動戦士ガンダム 全話レビュー第41話 「光る宇宙」
あらすじ
デギン公王は極秘裏に和平交渉に乗り出していた。しかしこの動きは逐一ギレンに報告されていた。ギレンは連邦軍の侵攻を前に、ソーラシステムの掃射準備を進めてゆく。キシリア麾下の艦隊と接触した連邦軍は、艦隊戦に突入。ララァもエルメスで出撃した。ガンダムのアムロはこれをすばやく感知して意識を集中、サイコミュ兵器であるビットを次々に破壊してく。しかしそのときアムロの意識がララァをとらえる。
脚本/松崎健一 演出/貞光紳也 絵コンテ/斧谷稔 作画監督/
コメント
第41話は、本作全体を語る上で非常に重要な回である。しかし、正直なところ、レビューをするのは気が重く、なかなか気持ちが乗らなかった。というのは、アムロとララァとが、ニュータイプとして交感する際の会話の意味が、何度みてもよくわからないからである。そのあとの、ビジュアルで表現される世界観もまた、何を描こうとしているのか、これまでよく掴めていなかったというのもあった。しかし、ここまで来たからにはとにかく虚心坦懐に、あるがままを見てみようと、ようやく先に進めた次第である。
本作もこの回を含めて残りあと3話、それだけに、この回には戦争終結へ向けた、そして、この物語の終わりに向けた、広げた風呂敷を畳んでいくための展開がぎっしりと詰まっている。そうした流れを追いながら、ストーリーについてコメントしていこう。
ギレン総帥は、コロニー本体をレーザー砲のような兵器に改造し、本国強襲を企むレビル艦隊を一気に葬ろうと画策していた。しかし、戦争回避の努力をすべき、と考えるデギン公王は自ら動き、レビル将軍との和平交渉を行おうとする。
果たしてレビル将軍が和平交渉の相手として適しているのかどうか、地球連邦の統治機構や政治的な意思決定がどのように行われているのかが本作にはまったく描かれていないのでよくわからないが、ギレンに内緒で動く父デギン、という構図に、すでにザビ家の方が意思統一を欠いた状態になっていることがわかる。キシリアにも、ソーラレイシステムによる攻撃はギリギリ30分前に知らせていることからも、これがほぼギレンの独断で行われていることが推察される。
一方、キシリアと面談したシャアは、そこでついに自分の正体が知られたことを知る。
キシリア:で、その前に一つ聞いておきたいことがある。おまえの打倒ザビ家の行動が変わったのは、なぜだ?
シャア:私の?
キシリア:私は4歳ごろのキャスバル坊やと遊んであげたことがあるんだよ。お忘れか?
シャア:キシリア様に呼ばれたときから、いつかこのような時が来るとは思っていましたが、いざとなると怖いものです。手の震えが止まりません。
キシリア:あたしだってそうだ。おまえの素性を知ったときにはな。
シャア:それを、また。なぜ?
キシリア:ララァだ。おまえがフラナガン機関にララァを送り込んでいたな。そのおまえの先読みする能力を知って、徹底的に調べさせたわけだ。おまえもララァによってニュータイプの存在を信じ、打倒ザビ家以上のことを考え出した。
シャア:どうも。
キシリア:ギレンはア・バオア・クーで指揮をとる。
シャア:はい。
キシリア:その後のことはすべて連邦に勝ってからのこと。よろしいか。
シャア:は。確かに。
39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」でシャアは、ギレンが送り込んできたニュータイプ戦士、シャリア・ブルを、ガンダムと対戦させることで葬った。このことで、キシリアとの間に同志のような意識ができたと考えることはできないだろうか。少なくともキシリアは、シャアがジオン・ダイクンの遺児キャスバルであることを知った上でシャリア・ブルを送り込み、彼女の期待どおりの対処をシャアはした、と見たのだろう。
キシリアの「ララァによってニュータイプの存在を信じ、打倒ザビ家以上のことを考え出した」「その後のことはすべて連邦に勝ってからのこと。よろしいか」という言葉には、言外に、敵はギレンだ、連邦に勝ったあとに彼を倒す、と仄めかしており、先読みをするシャアなら当然理解できるだろうと考えていることが伺える。
同じ頃、ホワイトベースでもブリッジでアムロを囲んでニュータイプについての議論が行われていた。超能力者ではない、だが超能力的な敵としか思えない、と言うブライトに対して、セイラは「今はそう考えていいのではなくて?」と現実的な捉え方を示し、アムロは自身もニュータイプではないかということに対して「そうとでも考えないと説明のつかないことが多すぎるんです、僕の中に」と、何とか自分の変化を受容しようとする真理を伺うことができる。
その上で、アムロはこう言う。
でも、ニュータイプっていっても僕は特別な人間じゃありませんよ。これだけ戦い抜いてこられたホワイトベースのみんながニュータイプです。でなければ、勝ち抜けなかったはずです。
ここに、ララァを特別な存在として扱い、それによって自身のステイタスを上げて打倒ザビ家以上のことを成そうと企むシャアと、あくまでも決して自分は特別な存在ではない、みんながそうなんだ、と言い切るアムロとの間にスタンスの違いがある。この違いが、このあとの彼らの運命を決定づけていく、といってもいいのではないだろうか。
そしてキシリア艦隊はホワイトベースら連邦軍の艦隊と接触。艦隊戦に続いてモビルスーツ戦が繰り広げられていくことになるが、出撃前、シャアはララァに「私もゲルググで出るが、今度は私がララァの命令に従う‥‥今はララァの方が優れている」と言い、彼女は驚かす。それに対して早速「大佐、今日からノーマルスーツを着けて出撃なさってください」と言ったララァだったが、シャアはもちろんんノーマルスーツは今回の出撃時も着用していなかった。しかも、彼女を援護さえしておらず、言葉とは裏腹に、彼女を前座扱い、自分の「盾」にしようという魂胆がミエミエである。
連邦軍の戦艦からはジム、ボールが多数発進し、ホワイトベースでもアムロらが発進するが、すぐに激しい艦隊戦となる。背後の砲火を見てカイが、
わー、大丈夫だろうな、俺たちの帰るところがなくなるんじゃないだろうな?
と叫ぶ場面で、その激戦ぶりが印象づけられるが、同時に彼らがホワイトベースを「帰るところ」と認識していることが感じられるのも、興味深いところである。
ここでアムロは早々に、ララァの操縦するエルメスから遠隔操作されているビットの攻撃を受けるが、意識を集中することで、その動きを先読みして次々にビットを落としていく。そしてついに、彼女との直接対決に入っていく。それは、互いがはじめてアムロ、ララァと気付いた瞬間に始まった。
ララァなら、なぜ戦う?
シャアを傷つけるから。シャアを傷つける、いけない人
そ、そんな、馬鹿な
そのあなたの力が示している。あなたを倒さねばシャアが死ぬ!
シャア。それが
あなたの来るのが遅すぎたのよ
遅すぎた?
なぜ、なぜ今になって現れたの?なぜ? なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには、守るべき人も、守るべきものもないというのに。
守るべきものがない?
私には見える。あなたの中には、家族もふるさともないというのに。
だから、どうだって言うんだ
なぜ戦うのか、というアムロの問いに対するララァの答えは明快である。「あなたを倒さねばシャアが死ぬ!」。彼女はシャアを守り、シャアのために戦っているのである。そして、逆に問いかける。「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには、守るべき人も、守るべきものもないというのに」と。
この、アムロとララァが交感を始めた前半の対話を、みなさんはどう読み解くだろうか。私は、最初にアムロが「ララァなら、なぜ戦う?」と問いかけていることに注目したい。というのは、相手がララァなら、僕には戦う理由がない、とアムロが言っているように思えるからである。戦う理由をララァは、アムロがシャアを倒してしまわないために、と答えている。次に続く「あなたの来るのが遅すぎた」というのは、もしシャアより先にアムロと出会っていたならば、私は戦うことはなかった、とでも言いたげである。私には、この対話はララァの一方的な自己弁護と、アムロへの人格攻撃のように思えてならない。とても「分かり合えている」ようには思えないのだ。
しかし後半、ちょうどシャアがゲルググで発進したとき、それまで互いのコクピットで対峙していたアムロとララァは、そこから飛び出したように、光の煌めく空間で、顔と顔を合わせて向き合いはじめた。もちろんそれは現実に起こっていることではなく、二人はいまだ互いの機体のコクピットにいるのだが、精神がその戦いの道具から離れている、というイメージを表現しているのかなと感じる。
守るべきものがなくて、戦ってはいけないのか
それは、不自然なのよ
では、ララァはなんだ。
私は、救ってくれた人のために戦っているわ
たった、それだけのために?
それは、人の生きるための真理よ
では、この僕たちの出会いは何なんだ
これは、これも運命なのよ、アムロ
ああ、そうだ。そうだと思う。これも運命だ。
なぜ、なぜなの。これが運命だなんて、酷すぎるわ。
しかし、認めなくちゃいけないんだ。ララァ、目を開いて、
そうなの、そうなのかしら、アムロの言う通りなら
結末を知っている今なら落ち着いてみていられるが、この作品を初見した中学生の頃、この回を見ながら本当にドキドキしたことを覚えている。アムロがこのまま、ララァの方へ引き寄せられてジオンに寝返ってしまうのではないかと思ったからだ。それはララァのいう通り、アムロには守るべき人もものもなく、戦う理由がないことがわかっていたからだ。ララァに連れられ、シャアの仲間になってしまうのではないかと。
しかし、それは一瞬の妄想に終わった。
ここで、同じ空域へ入ってきたシャアとセイラがそれぞれに、ララァとアムロの異変に気付き、ホワイトベースではミライも何かを感じて「いけないわ」と叫んでいる。
でも、なんで今、今になって
それが、人の背負った宿命なんだろうな
二人の対話は、ここでシャアの介入によって断ち切られ、我に帰った二人は、再び戦場の現実へと引き戻されていく。ここで、シャアを見つけたセイラが加わるが、ゲルググのビームなぎなたによってセイラのGファイターが損傷する様子をみると、シャアはセイラの存在にも呼びかけにも、まったく気づいていないことがわかる。
「兄さん、私よ。わからないの?」とセイラは叫ぶが、ガンダムを倒したい一心のシャアは
ララァ、私はガンダムを撃ちたい。私を導いてくれ、ララァ!
お手伝いします、お手伝いします、大佐。
すまん、ララァ
と、ララァの能力を借りる気満々である。ララァは一瞬沈黙するが、結局シャアと共にガンダムを倒すことに同意してしまう。アムロとの邂逅により、人の背負った宿命を感じ合った二人だったが、それはララァにとって、結局はシャアを選んでアムロを倒すということだったのだろうか。そう言わざるをえないララァの絶望は、いかばかりだっただろう。
戦いはシャア対アムロにエルメスのララァ、Gファイターのセイラが援護に入って混戦状態となる。その中でシャアのゲルググがセイラのGファイターに斬りかかろうとしたところで、それは起こった。
大佐、いけない!
そのララァの呼びかけに、はじめてシャアは妹アルテイシアの存在に気づく。アルテイシアか‥‥、その一瞬の隙にアムロが迫り、ついにシャアを討ち取ろうとしたその瞬間、彼のゲルググの前にララァのエルメスが飛び出し、ガンダムのビームサーベルは、そのコクピットを刺し貫いたのだった。
このあと、ギレンが発射を命じたソーラレイシステムの放つ業火が宇宙を切り裂いてゆく。二つの悲劇のつかの間の休息、アムロがセイラ、カイ、ハヤトとちびっ子たちに囲まれて「大丈夫?」と心配されているシーンが心に染みる。ララァはアムロの心に、守るべき人のいない孤独を見たかもしれないが、同時に、自身には気遣ってくれる仲間がいないことに、気づいていたかもしれない。
この一言! ラ、ララァ、取り返しのつかないことを、取り返しのつかないことをしてしまった
アムロとララァとの魂の交感は、実は戦いの最中よりもむしろ、アムロがララァを刺し通したその瞬間にこそ、起こったのかもしれない。今回改めて「光る宇宙」を視聴して、アムロがエルメスを撃った瞬間からはじまる対話と映像について、私なりに読み解いていきたいと思う。
人は、変わってゆくのね。あたしたちと同じように。
そ、そうだよ。ララァの言う通りだ
アムロは、本当に信じて?
信じるさ、君ともこうして分かり合えたんだから、人はいつか時間さえ、支配することができるさ
ああ、アムロ。時が見える
これが、アムロがエルメスを撃ってから、爆発して消滅していくまでの死の間際に交わされた言葉である。私には、正直なところ、ララァがいう「人は、変わってゆくのね。あたしたちと同じように」の意味が、よくわからない。なぜなら、それまでの二人の対話が、ただ自分たちの運命を悟りあっただけのようにしか読めず、しかも対話のあとも、ララァはアムロを撃ちたいシャアに加担しつづけ、アムロはシャアとの対決をやめようとしなかったからだ。だから、戦わざるを得ない互いの事情をわかり合っただけ、と思ってしまうのである。しかし、その後に流れる不思議な映像を見て、目から鱗が落ちた気がした。
それはワープするときに描かれるような光のあとに現れる、どこと知れない宇宙と、そこに浮かぶ陸地のイメージである。山に囲まれたその野原で、全裸の二人が駆けている。そのあと、卵子に精子が出会って受精する場面が唐突に現れる。
これは一体何を表現しているのだろう、とずっと謎だったが、その陸地にいる二人をよく見ると、一人は褐色の肌、一人は白っぽい肌で、ああ、これはララァとアムロか、と思った。そのとき、この陸地が何を表現しているのか、自分の中にピンとくるものがあったのだ。そうか、これは「エデンの園」ではないか?と。
エデンの園とは聖書のはじめ、創世記に出てくる神が作った最初の人、アダムとエバが住むために設けられた園で、そこには死がなく、苦痛も罪も恥もなく、神の祝福に満たされた楽園であった。なので「人とその妻(アダムとエバのこと)は、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった(創世記2:25)のである。
そして、ララァの死の間際に二人が見たこのイメージこそ、アムロとララァとが、ニュータイプ、新しい人類として命を得、結び合って子孫を増やし、人々が争うことなくわかり合って生きる新しい世界を創造してゆくのだ、という世界観を、映像によって表現しようとしたものではないか、と。アムロとララァとは、その一瞬にこの新しい世界のイメージを、分かち合ったのだろう。
だが、遅かった。アムロはララァのエルメスを刺し貫き、彼女の命は霧散して消えてしまったのである。
ラ、ララァ、
取り返しのつかないことを、
取り返しのつかないことをしてしまった
では、取り返しのつかないこと、とは一体なんだろうか。一義的には、ララァを殺してしまったことだろう。だが、それだけではない気がする。アムロは、ララァとの対話のあとでも、シャアと戦うことを止めることができなかった。ララァもまた、然りである。二人は分かり合えてもなお、二人の世界に飛び込んでいくには重すぎるものを抱えていた。ララァにとって、それはアムロを倒さねばシャアが死ぬ、という縛りであり、アムロにとって、ララァと手を取り合うためには、シャアを倒さねばならないという命題であった。
アダムとエバが、神が食べてはいけないと禁じた「善悪を知る木」から実を取って食べたためにエデンの園から追い出されたように、変わっていくために捨てなければならなかった殺意を捨て切ることのできなかった彼らは、ともに見た楽園にたどり着くことはできなかったのである。
最後に、もう一度、この戦いのあとのアムロとセイラ、カイらの様子を振り返っておこう。大丈夫? 戦えるの?と気遣われているということは、このララァとの死闘がアムロにとってどれほどストレスフルなものであったか、彼がコクピットで涙を流すほどであったその感情を、彼らもまた理解している、ということだろう。そこに、アムロが言っていた「これだけ戦い抜いてこられたホワイトベースのみんながニュータイプです」という一面が描かれている。絶望の中の希望として、短いワンシーンが輝いている。
劇場版第三部「めぐりあい宇宙」はまったく異なる
補足として、劇場版の同場面との違いに言及しておこう。本作の劇場版三部作は、テレビ版を再編集したダイジェスト版というべき内容だが、このアムロとララァの邂逅、そして死に至る場面の描写は、映像もすべて新しく書き起こされ、セリフ等も大きく変更されている。テレビ版と劇場版とで、もっとも印象が変えられた場面といえるだろう。
テレビ版では、シャアがアムロとララァとの交感の最中に「奴との戯言はやめろ」と介入してきたあと、ララァに「ララァ、私はガンダムを撃ちたい。私を導いてくれ」と言い、ララァは「お手伝いします」と答えているが、劇場版ではこの会話はカットされたため、アムロとの交感のあともララァがシャアの助太刀をし続けたこともなかったことにされた。
ララァの死の間際、二人が見た新世界のイメージも描きかえられ、宇宙の時の流れの中を飛翔していくララァという映像に変えられた。
そして、エルメスが爆発したあと、テレビ版のシャアは雄叫びをあげ悔しがって拳を振り下ろすという、激しい怒りを表現していたが、劇場版ではもの静かに涙を流し、ここで「今の私にはガンダムは倒せん、ララァ、私を導いてくれ」と、テレビ版ではララァが生きているときに言っていた言葉を、死んだのちに追うのである。
この説明では、その変更がどう印象を変えているのか十分に伝わらないと思うが、テレビ版に比べて、劇場版は、アムロとララァとのめぐりあいの美しさとその悲しい結末のはかなさを美しく見せようとしているのに対して、テレビ版には、アムロ、ララァ、シャアそれぞれの剥き出しの感情が交錯し、そこに垣間見えたニュータイプのあるべき世界に、どうしても辿り着けなかった人の罪深さ、といったものが黒々と描かれているような気がする。そしてここに、名作の持つ重みがあると思う。