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アニメレビュー:機動戦士ガンダムUC RE:0096(2016) 宇宙世紀ガンダムを我が手で書き換えたいという自己顕示欲の塊を見せられた


ストーリー

 バナージ・リンクスは工業スペースコロニー<インダストリアル7>のアナハイム高専に通う学生。ある日、何者かに追われて逃げる謎の少女、オードリー・バーンがコロニーの空から落ちたところを助ける。彼女が「行きたい所がある」というので一緒に連れていくが、目的のビスト財団の屋敷の中で、彼は一角獣(ユニコーン)を描いた中世のタペストリーを見て、既視感を感じる。オードリーは、ビスト財団と「袖付き」と名乗るネオ・ジオン残党軍との間で行われようとしていた取引をやめさせるため行動していた。取引に使われる「ラプラスの箱」には、地球連邦の根幹を揺るがす秘密が隠されている、というのだ。そのため、地球連邦軍もまた、この取引を妨害しようと動き出す。「袖付き」と連邦軍とがぶつかり合う中、ビスト財団の当主、カーディアス・ビストに導かれ、バナージはユニコーンガンダムに乗るのだった‥‥

レビュー

 まずはじめに言っておく。映像のクオリティはなかなかのものである。ちょっとした人の仕草など、キャラクターが単に動く絵ではなく演技しているし、カット割りの工夫、奥ゆきのある画面づくりで、映像には引き込まれるものがあるのは確かだ。
 しかし、その映像のクオリティをもってしても隠しきれない百難がある。単につまらないだけでなく、人の道に反した方向へ導く害毒のような思想もある。そうしたところを、このレビューでは指摘したいと思う。

(1)話のつまらなさはどこから?

 まずはじめに言及したいのは、映像のクオリティにごまかされて引き込まれようとしても、引き込まれきれないほどの話のつまらなさである。キャラクターが何か行動を起こしたり、会話をしたりする時間よりも、圧倒的に長いのが独白、演説、会議、密談、説教である。過去にこんなことがあった、私はこんな辛い目に遭った、だから今こうなのだ。そういうことを、全部セリフで説明してしまう。それがあまりにも冗長で、聞いているうちに、白目になって、全然頭に入ってこなくなる。右から左へ受け流す、ムーディ勝山状態になる。

 これは脚本もさることながら、原作に問題がある。原作者が、設定をストーリーとして表現する能力が欠けているか、それを怠っているのである。小説なら、それであっても文字で読み進められるが、それを映像化するならば、キャラのしゃべりではなく、エピソードとして物語を作らねばならないであろう。
 本作は、現在進行の「ラプラスの箱」の取り合い、というストーリーに、それぞれの過去が絡みながら進行していく。その、それぞれの過去の見せ方に工夫がなく、ただキャラクターに語らせるだけ、というところが、物語をとても浅くしていると思う。

(2)なぜ、そんなに陰惨で露悪的な過去にしたがる?

 だが、そこで次の問題に気付かされることになる。その過去をキャラの語りではなく、ストーリーとして描いたとしても、話は膨らみもせず面白くもならない、ということがある。むしろ、映像にしてくれなくて、まだましだったという感さえある。

 例えば、主人公バナージと戦うことになる「袖付き」のパイロット、マリーダ・クルスというキャラクター。彼女は、プルと名付けられた強化人間の12番目の少女だったが、どうも実験に失敗し捨てられ、人身売買されて風俗街で働かされていたようである。その彼女を買い取ったのかどうかはわからないが、「袖付き」の一員でガランシェール隊の隊長、ジンネマンに引き取れられ、彼を新たな「マスター」として再調整を受けパイロットになった、という経緯があるようだ。
 このマリーダの過去は、キャラの語りではなくバナージとの精神的な交感?の中で映像としてぼんやりとした幻影のような形で表現されているが、身体的、精神的、性的虐待と人身売買という深刻な人権侵害を受けていた過去をエンタメ化してストーリー仕立てで見せられても苦痛なだけなので、正直、この程度の描かれ方でよかったと思うしかない。

 そして、彼女を自分に従属する強化人間のパイロットとして再調整したジンネマンだが、彼の過去については、バナージと地球に降りて砂漠を歩いて横断することになった際、夜に焚き火を囲みながら、その悲惨な過去をバナージに語る。それは一年戦争終結後のこと、<サイド3>の彼の故郷のコロニーを占領していた連邦軍が、ジオン公国の行ったコロニー落としの仕返しとして街を焼き払い、女子供を陵辱したのだという。
 この、取ってつけたような悲惨なジンネマンの過去語りも、やはり映像にしてくれなくてまだましだった、と言わざるを得ない代物である。この妻子を連邦軍に嬲り殺されたことに対する復讐が、現在の彼が連邦軍と戦う動機になっているわけだが、これも薄っぺらな話である。ジンネマンは「俺たちの戦争はまだ終わっちゃいないんだ!」と言うが、戦争が終わったのに復讐のために武器を取るなど、古今東西すべての戦争帰還兵の方々に対する侮辱ではなかろうか。帰還兵は復讐という手段を捨てているからこそ、抱え込んだ罪意識やトラウマと戦い続けなければならないのだ。

 本作でマリーダやジンネマンが抱える過去の描写には、人に嫌悪感を抱かせる露悪的なものがあり、それがもう一つの問題と私が考えるが、それはあとにおき、主人公バナージとユニコーンガンダムがつきつける「つまらなさ」について、次に指摘したいと思う。

(3)主人公がチートすぎる

 そもそもガンダムシリーズが提示した新しさ、面白さの一つは、巨大ロボットを「兵器」として描いたことであった。その兵器らしさというのはつまり、訓練を受けた者なら誰でも扱える、という点にある。そんな兵器たるモビルスーツに、訓練を受けないメカ好きの少年アムロが乗って敵を倒してしまう、というところに、同じくまだ何者にもなっていない発展途上の少年少女たちは惹きつけられたのである。
 ところが、本作は違う。ユニコーンガンダムは生体認証によって作動し、そのパイロットになれるのはバナージだけである。しかも、全身にサイコフレームが施され、バナージのニュータイプ能力を増幅して1本の角が2本に開くと、その機体の能力は段違いとなり、無敵の存在となるのだ。一言でいうと<チート>なのである。
 いや、アムロだって強かったじゃないか、というかもしれないが、ファーストガンダムを見てみると、最初の強さは「機体の性能」で、彼はその性能を生かして優位に戦うために、いろいろと工夫をしながら成長していった。バナージの場合は彼しか乗れないガンダムに乗り、自分の意識をガンダムに乗っ取られて戦っており、それはもはや兵器云々ではなく魔術のごときものである。サッカー漫画で、このヘッドギアをつければ君はメッシになれるよ、と言われた主人公がそのギアのおかげでメッシのごとき活躍をしたとして、それが面白いだろうか?

(4)実家の太さだけが取り柄のキャラたち

 もう一人の主人公であるミネバ・ラオ・ザビもまた、バナージに負けず劣らずチートな存在である。彼女はジオンの姫君、殿下として下にも置かない丁重な扱いを受けるわけだが、そもそも祖父のデギン・ザビがでっちあげて自称しただけの「ザビ王朝」の、国家も領土も失われ何の後ろ盾もない3代目、例えていえば伊藤忠に買収されたビッグモーターの創業者の孫、ぐらいのもので、その存在には何の重みもないはずだ。強いて言えば、ジオン再興を目論む人に担ぎ上げられている神輿にすぎない。ただ、神輿であってもネオ・ジオン残党軍の領袖であるからには、テロの首謀者として拘束されてしかるべきであろう。
 なのに、彼女は捕虜にされたり人質にされたりしながらも、結局両軍や財団の大人たちには姫様、殿下とちやほやされつつ正論を武器に彼らを翻弄する。そして「戦争をやめさせる」と言いつつ、戦いに火をつけているのである。

 彼女に出会い翻弄されてしまう一人が、ネェル・アーガマの乗員でパイロットのリディ・マーセナス少尉である。彼は連邦議会議長の父を持つ特権階級を利用して、惚れた彼女を地球に下ろし自宅の大邸宅に匿うが、結局振られて闇落ちしてしまうというしょーもない男である。

 このバナージ、ミネバ、リディという主要キャラ三人に共通しているもの、それは「実家が太い」ということに尽きる。バナージはビスト財団当主カーディアスの隠し子、ミネバはザビ家の遺児、そしてリディは地球連邦政府初代首相リカルド・マーセナスの後裔で父も議員という名家の出である。彼らがストーリーを動かす存在となり得ているのは、一人ひとりのキャラクターのユニークさではなく、結局のところ、その「血」のせいなのだ。

 こうした「血族」が地球連邦設立の秘密に関わるという陰謀論的な話が背後に流れを作って物語を牽引していくため、箱の正体という興味に引っ張られて最後まで見てしまったが、結局のところ、振り出しに戻って明かされたその中身にしょうもなさに絶望した。

(5)シリーズ作品としての問題点

 最後に、ガンダムシリーズの一作品、「逆襲のシャア」の後の時代という位置付けとしての本作の問題点を3つ、指摘しておきたい。

 一つ目は、続編という位置付けにありながら、宇宙世紀の開闢以来の謎というテーマを織り込み、結果的に、宇宙世紀シリーズ全体に本作が影響を及ぼそうとしている、という点である。ファーストガンダムは一年戦争における少年たちの船の局地的な戦いを描いた作品で、舞台背景である地球連邦やスペースコロニーの政治経済や人々の日常生活についてはほとんど描かれていなかったので、続編でそうした一面が明らかにされていくのは、シリーズ作品ならではの面白さにつながる。
 だが、宇宙世紀のはじめに起こったテロ事件で秘匿された謎が実は時代を動かしてきた、という設定の話を続編として後から付け足すと、結局はその続編にすぎない作品が、オリジナルの設定を上書きするということになってしまう。それをやっていいのは原作者だけだと私は思うし、あえてそうした設定を付け加えた福井晴敏という人に、このシリーズを自分のものとして乗っ取ろうという意思さえ感じられてしまうのが、残念である。

 二つ目は、オリジナルの作風からの逸脱という点である。(2)なぜ、そんなに陰惨で露悪的な過去にしたがる? のところで指摘したとおり、本作でマリーダやジンネマンが抱える過去の描写には、人に嫌悪感を抱かせる露悪的なものがあるが、こうしたエピソードを入れる素地はどこからきているのかというと、富野由悠季の手による「小説版機動戦士ガンダム」を私は思い出してしまう。この中にはクスコ・アルという女性が登場するが、地球連邦軍に住んでいる街が攻撃され、家族がなぶり殺され自身も兵士に陵辱されたという過去を持ち、それをアムロが交戦時にニュータイプの交感の中で知ってしまうという場面がある。マリーダやジンネマンに背負わされた過去話は、これを元ネタにしているのだろう。
 しかし、ファーストガンダムの地球連邦軍は、確かに裏切り者の将官がいたりアムロの家で飲んだくれている兵士らがいるなど、問題のある者もいるにはいたが、こうした戦争犯罪に当たるような行為は描かれなかった。むしろ、両軍とも一人ひとりの兵士はそれぞれに善良な人間味のある存在として描かれていたと思う。そして富野由悠季は、そうした露悪的な場面を私的な作品である小説では描いたが、本編では描かなかった(とはいえ、30バンチ事件やフォウ、ロザミアなど強化人間への仕打ちなど悲惨なエピソードは多いが)。
 ウィキペディアによれば、本作の原作者である福井晴敏は、ガンダムシリーズというよりも富野由悠季のファンで、ファーストガンダムはテレビ版でも劇場版でもなく、富野由悠季の小説を読んで魅了されたということである。さもありなん、という感じである。その小説の、もっとも露悪的な部分を彼は自作にしのびこませたのだ。

 三つ目は、ニュータイプの扱いである。本作では、それが謎であり鍵になっており、ネタバレになるが、「ラプラスの箱」の中には、宇宙世紀憲章の削除された下記の条文が入っていた。

 将来、宇宙に適応した新人類の発生が認められた場合、その者たちを優先的に政府運営に参画させる

 宇宙に適応した新人類、というのがガンダムシリーズでいうところの「ニュータイプ」である。シリーズを通して、宇宙に適応して進化した者と理解され、そのように表現されているのであるが、実際には「進化」という言葉は用いられず、ファーストガンダムでは、例えばセイラは「ニュータイプは人類全体が変わるべき理想のタイプ」と表現している。しかし、劇場版では「この戦争で、いえそれ以前から人の革新は始まっていると思えるわ」という言葉に書き換えられ、それに対してシャアが「それがわかる人とわからぬ人がいる。だからオールドタイプは殲滅するのだ」と、テレビ版にはなかった自身の目標を語っている。おそらくこの書き換えの時点で、ニュータイプとは「進化した人類」という思想が入ってきたのではないだろうか。
 なぜそれが問題かというと、シャアが「オールドタイプは殲滅するのだ」と言っていることからわかる通り、進化した人間であるニュータイプの方が優れており、進化しなかったオールドタイプは排除しなければならないという思想がそこから窺えるからである。これは人間の「悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存する」という、いわゆる優生思想につながる発想である。
 シャアは悪役なので、深刻な差別や人権侵害の温床となる優生思想を「悪」と捉えて表現する作者の思い感じることはできる。だが、本作ではどうだろうか。「宇宙に適応した新人類の発生が認められた場合、その者たちを優先的に政府運営に参画させる」という文言は、一見進歩的に見えるが、優良な人種を優先させるという発想は、まさに優生思想的である。それを、主人公のバナージとミネバが、未来への遺産として肯定的に捉えるところに、問題がある。

 私自身は、シリーズを通して表現されている通り、ニュータイプは宇宙という環境、あるいは戦争という状況に(過剰に)適応した人、と理解している。「適応」と「進化」とは混同されがちだが、全く別物である。適応とは、その環境に応じた能力を身につけること、進化とは遺伝子レベルで環境の変化に対応した変化が起こること。人間の持つ適応能力は非常にすばらしく広範囲であるので、逆にいうと進化せずともさまざまな環境で生きていけるのだと私は思う。
 そのことについて、進化生物学者のジャレド・ダイヤモンドは鳥類研究のフィールドにしていたニューギニアで現地の友人にこう問いかけられたことをきっかけに、世界的なベストセラーとなった「銃・病原菌・鉄」という本を描いた。その問いとはこうだ。

「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分のものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」

 この問いに答えようという試みから、彼は文明の発生が地理的・環境的要因に大きく影響されている一方、人種による生物学的差異が要因なのではない、ということを明らかにしていった。人類は、それぞれが置かれた環境に適応し、そこで手に入る資源に依存して生きており、あらかじめ与えられたモノ、使えるモノの違いが文化、文明の差異を生んでいるにすぎないのだ。

 だから、誰もが適応して変わっていけるのかもしれない、ということに、希望があるのである。

(6)ミネバこそ福井晴敏の自己投影

 本作は、「ラプラスの箱」の中身を託されたミネバの大演説で幕を閉じる。これもまた、もやもやするラストである。彼女は失われたジオン公国で独裁体制を敷いていたザビ家の生まれであって、今はそうしたバックボーンを除けばただの人である。そんな彼女に、なぜ全人類が説教されなければならないのか。しかも、彼女は自分を周囲から「姫」「殿下」と扱わせているわけである。彼女はネオ・ジオン残党軍の領袖でありながら地球連邦軍とも行動をともにし、どちらからも崇められ、バナージとリディの両方から好かれ、決して傷つくことなく、物語が始まった時点と自身は何らの変化もなく終幕を迎えた。本当は存在していようがいまいがどうでもいい人間に思えるが、そんな彼女の大演説を右から左に受け流しながら、最終的にこうして全地球圏を電波ジャックした彼女こそ、宇宙世紀を乗っ取った福井晴敏の自己投影だろうと思うのだった。

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