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#9 一粒で2度おいしいはずのスタンプラリーだったが、観音寺城のある山はいまだ中世のままのごとくほろ苦かった
前回は「日本100名城スタンプラリー」をはじめるおよそ3ヶ月前に登城した安土城について振り返ったが、今回は先に訪れた小谷城攻めの翌週、安土城と観音寺城のスタンプ押印と観音寺城登城の行程について、書き記していきたい。
【2016年12月3日(土)】
自宅(滋賀県大津市) →安土城郭資料館(近江八幡市)
→観音寺城(近江八幡市) →帰路
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この日はまず、JR安土駅前にある「安土城郭資料館」を訪れた。ここで、安土城と観音寺城、2カ所のスタンプが押印できるのである。一粒で2度おいしい、とはこのことである。朝9時の開館と同時の入館であった。館内には喫茶コーナーがあり、コーヒー券とセットになった入館券を購入。席に座ってコーヒーを飲みながら、安土城の紹介ビデオを視聴した。館内には20分の1の縮尺で復元した安土城天主のひな型が展示されており、ビデオを見終わると、職員が天主をパカッと割るように開いて、天主の内部構造を見せてくれた。五層七階となっている内部が、襖絵など装飾なども含めて精密に復元されていて、全体像がよくわかるようになっている。
そのほか、近接している安土城と観音寺城との位置関係がわかるジオラマや、安土屏風絵風の壁画など、こじんまりした資料館ながら、見応え十分である。
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ここで、安土城と観音寺城、二つの100名城のスタンプを押印。駅前の観光案内所で「安土ガイドマップ」を入手し、一路観音寺城へと向かった。ちなみに観光案内所で聞いたところによれば、繖山にある観音寺城は、麓から登れば1200段の石段があるという。山の中腹にある観音正寺までは有料道路で登れるということだったので、ここは車で行くことにした。しかし、この、ちょっとでも楽をしようとする気持ちによって、私たちは結果的に足元を掬われることになる。
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山麓から観音正寺へ登る道路は、有料といってもドライブウェイ的な眺めのよい快走路とはほど遠く、遮断機のような棒が降りてくる料金所もまるで関所のような古めかしさであった。離合も難しそうな山道を、そろそろと登ってゆくと、やがてさほど広くない駐車場出る。車を停めても、そこからさらに700段の石段を登らなければならず、これで600円という通行料金は、ちょっともったいなく感じてしまった。それだけではない。正面の参道から石段を登っていれば見られたかもしれない城の遺構も、結果的には見そびれてしまうことになったのだ。
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700段の石段を登り切ったところにあるのが、観音正寺である。その歴史は、同じ山内にある観音寺城よりはるかに古く、およそ1400年前、聖徳太子によって開かれたと伝わっている。実はこの寺にも、若い頃地元情報誌の編集をしていたとき取材に来たことがあり、忘れられない思い出が残っている。というのは、かつてこの寺には「人魚のミイラ」なるものがあったのだ。そして取材の際、住職がその実物を見せてくれたのである。おぼろげに残る記憶では、その奇妙な生き物の亡骸は、脱脂綿を敷き詰めた箱の中に納められていた。丸く小さな頭とほっそりとした短い腕、そして胴から下はかすかに鱗のようなものが見える、魚のような形状をしていた。ミイラというだけあり、全体的に黒ずんで干からびており、とても、「人魚」と聞いていっぱんに想像するような、人魚姫のような姿とはかけ離れたものだった。なんでも、寺には聖徳太子が琵琶湖のほとりで人魚に出会い、成仏させてくださいと懇願された、という話が伝わっているという。この寺は、その人魚の願いを聞き入れて、聖徳太子が創建した、という寺だったのだ。
ところが、である。この取材をしてから2年ほどたった1993年、なんと、観音正寺は火災により本堂が焼失し、この「人魚のミイラ」も失われてしまったのである。現在は、2004年に再建された新しい本堂が建っているが、あの怪しげな人魚ももう見られないのかと思うと、あの取材の体験もまた、一期一会の一つだったのだと感慨深かった。
観音寺城の本丸へ行くには、この寺で拝観料を払った上、境内を奥へと進んで、山道へ分け行っていかなけばならない。一応、散策路は整備されてはいるが、道案内の看板もわかりにくい山道で、この先に何があるのかと不安になるようなところがあった。しかし、細い山道の傍らには、人の手で積まれたとわかる石垣が残り、確かにここは城跡らしいということが感じられた。そうこうするうちに、少し開けた場所に出た。本丸跡である。
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観音寺城は、標高432.9メートルの繖山の山上に築かれた中世山城で、ちょうど現在の東海道新幹線、国道8号線を見下ろす南側の斜面に、まるで団地のように曲輪を整備し、家臣団の屋敷が築かれていたという。近江源氏佐々木氏、近江守護・六角氏の居城で、その歴史は古く南北朝時代にまで遡る。観応の擾乱、そして応仁の乱の際にも3度にわたって戦いの舞台となり、その後もたびたび戦いが繰り広げられた、まさに戦国真っ只中の城であった。
城内のそこかしこに、今も石垣が残っているが、これは、1550年に、鉄砲の出現に備えて大々的に城を改修、安土城に先駆けて堅固な石垣を築いた城と言われている。また、麓のまち石寺では、日本で最初の楽市が開かれたとされている。そういう意味では、織田信長に非常に大きな影響を与えた城、ということができるのかもしれない。
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しかし、六角氏はやがて、湖北で頭角を表した戦国大名、浅井長政との戦いに敗れて弱体化。1586年に織田信長が都を追われて各地を転々としていた将軍・足利義昭をともなって上洛するため大軍を率いてこの地に入ると、六角氏はこの城から逃げ出し(湖南市にある三雲城に逃れたという記録が残っているという)、戦うことなく開城されたといわれている。
確かに、城の本丸は、観音正寺の参道、境内をまっすぐに進めばすぐに行き着く場所にあり、とても防御が固いとはいえない。考えてみれば、寺があり、その奥に本丸があるという構造も、安土城に似たものがある。のちの信長の城づくりに影響を与えた、というのは、穿ち過ぎであろうか。
この観音寺城だが、本丸は標高395メートルの山腹にある。二の丸、三の丸といった番号のついた曲輪はなく、平井丸、池田丸、淡路丸など、人の名前とおぼしき名称がつけられているのも特徴的である。本丸から、次はそうした曲輪を見て回るつもりだったのだが、あらかじめプリントしておいた散策路の地図と、山中の案内板が一致せず、どこを歩いているのかわからなくなってしまっていた。そして山を下る道へ入り込んでしまい、気がつくと、寺の境内に出てきてしまっていた。お坊さんが出てきて、観音寺城の方から来たというと、途中に境界線があり、そこを超えると寺の境内なので、別に入山料が必要だと言われ、またまたお金を払う羽目になった。一つの山のあちこちで通行税を取られる‥‥、ここはまだ、中世か!と心の中でツッコミを入れた次第であった。
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山中をさまよって入り込んでしまったのは、同じ繖山の安土城側の山腹にある寺で、その名を「桑實寺」という。天智天皇の勅願によって建立された古い寺院で、定恵和尚(藤原鎌足の長男)が中国より桑の木を持ち帰ってこの地で日本で最初の養蚕技術を広めたことから、この名がつけられた。繖(きぬがさ)という山の名前も、蚕が口から糸を出して繭をかけることにちなんでいるということだった。
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せっかくなので、本堂の内部なども見せてもらったあと、境内を通り抜けて正面の参道の方から、山を下っていった。参道は見上げるような石垣の残る石段で、その壮麗な造りに驚かされた。室町幕府の第12代将軍、足利義晴が、六角氏の庇護のもと、ここで1532年からおよそ2年間滞在し、仮幕府を開いたという歴史が残っている。他に訪れる人影もない静かな寺に、びっくりするような一幕があったのだった。
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パネル展示されていて、その歴史を絵物語で知ることができる
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さあ、捕まえますから、ここから虎を追い出してください!
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しかし、寺から下っていったその道は、観音正寺とは山の反対側だったため、駐車場に戻るため、山麓をぐるりと歩いて戻らねばならず、相方の昭人さんに、下調べが足りないと文句を言われてしまった。城跡としても、散策路の案内板や曲輪の説明などの整備がいま一つ足りないのではないかと思った。あとでネットで調べてみると、同様に山中で迷った人も少なからずいるようである。
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結果的に、このときは広大な城跡の一部しか回ることができずに終わった。もう一度、今度は本丸以外の曲輪も見て回りたいと思っているが、それはいつの日になるだろうか。
滋賀県教育委員会・埋蔵文化財活用ブックレット「観音寺城跡」
https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042776.pdf
【13城目】51番 安土城(滋賀県近江八幡市)
登城日:2016年6月19日(日)
(スタンプ押印:2016年12月3日(土))
【14城目】52番 観音寺城(滋賀県近江八幡市)
登城日:2016年12月3日(土)
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