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【考察】ガンダムは「勧善懲悪ではなかった」は本当か、あるいは、アムロは何のために戦ったか
「機動戦士ガンダム」は当時、何がそんなに衝撃的で新しかったのか、を語る時、よく目にするのが、次のような言葉です。
「主人公=正義」「敵=悪」という単なる勧善懲悪のお話ではない
これは確かにそう言えるのですが、そもそも、今のZ世代(笑)に勧善懲悪ではないと言ったところで、ピンとこないと思います。今ではそういうストーリーはごく普通にある、ということもあります。
では勧善懲悪とは何か。悪を懲らしめ善を勧めるという意味で、ガンダム放映当時には、テレビ番組のあるジャンルを担っていました。それが「時代劇」と「刑事ドラマ」です。
例えば「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「銭形平次」、刑事ドラマでいえば「太陽にほえろ!」などでしょうか。市井の人々の間で日常を送りつつ、その中にはびこる「悪」を見つけて「懲らしめる」、それが、こうしたドラマの基本的な骨格です。
ここに挙げたドラマで主人公側の立場を見てみると、彼らは自分が「善」の側であることを示すアイテムを持っています。「水戸黄門」であれば葵の紋入りの印籠、「暴れん坊将軍」であれば、自分が将軍であることを示す葵の紋入りの刀、「銭形平次」であれば十手、「太陽にほえろ!」であれば警察手帳です。
つまり、勧善懲悪というのは、権力を持つものが正義というお話なのです。余談ですが、これに対して現在放映中の朝ドラ「虎に翼」は、権力を持たざるものが主人公です。パラダイムシフトかもしれません。
では、なぜ「機動戦士ガンダム」は単なる勧善懲悪のお話ではない、といわれたのか。その理由について、多くの人は、敵であるジオン軍の側にもそれぞれのドラマがあり、主人公たちと同じ人間なのだ、と共感できるから、というふうに表現していたと思います。私自身も、2000年に書いたレビューの中で、
何よりもこの作品に引きつけられのは、この物語が単純に悪い敵をやっつけるというものでなく、「なぜ戦うのか」「なぜ戦わなければならないのか」ということを、近未来戦争をリアルに描くなかで突き詰めたものだったからです。
と表現しています。
しかし、「なぜ戦うのか」「なぜ戦わなければならないのか」ということを、本作の中で突き詰めようとしても、正直、よくわからないということがありました。というのは、本作で描かれているのは「戦争」であり、両陣営にそれぞれの「立場」があったからです。そしてそれは、どちらかが正義でどちらかが悪だ、と明確に切り分けられるものではありませんでした。
地球連邦=絶対民主主義体制
しかし地球居住者は宇宙移民者から「エリート」とみなされている
ジオン公国=ザビ家独裁体制
スペースコロニー国家として独立したいと要求している
こうしたそれぞれの「立場」を見てみると、双方に、肯定的な主義主張と、受け入れがたい主義主張とが共存していることがわかります。主人公側は地球連邦に属して戦っているわけですが、アムロの乗る船・ホワイトベースにも、地球出身者と宇宙移民者がおり、ときに対立することがあります。その点、ジオン公国側にはそうした対立はないわけですが(全員が宇宙移民者であるため)、独裁体制を敷くザビ家内部の権力争いの中で、だれにつくかでの争いがあることが、描かれていました。
本作の中で、なぜ地球連邦がジオン公国の独立を認めず、結果的に戦争という手段に訴えるに至るまで放置したのかは語られていませんが、おそらくそこにも、何かの事情、よからぬ思惑などがあったのだろうと推察することはできます。
では、なぜもっとわかりやすく、独立を求める宇宙移民者 VS それを認めない地球連邦、という単純構図のストーリーにしなかったのでしょうか。
それはおそらく「冷戦」という当時の世界情勢の中で、どちらかが正義でどちらかが悪である、という形の戦争を迷わず描くことはできなかったからだろうと思われます。
もう一つは、対立する両陣営のどちらかが善でどちらかが悪、という見せ方ではなく、戦争であるかどうかに関わらず、私たちが真に戦うべきものにこそ、フォーカスを当てたかったのではないか、ということがあるのでは、と思っています。
では、主人公のアムロは一体何と戦っていたのでしょうか。
最終回で、彼はようやく「本当の敵」を悟ります。
今の僕になら、本当の敵を倒せるかもしれないはずだ
ザビ家の頭領が、わかるんだ
ザビ家の頭領が敵、というのは、ある意味本作がスタートしてからずっと、視聴者にはわかっていたことです。今更何を、という気持ちにならなくもないですが、このセリフを口にしたとき、アムロは連邦軍の正義の象徴であったモビルスーツ・ガンダムを降りて、生身の姿であることに注目したいです。彼は軍隊としての敵ではなく、人の道を歩む上での敵という意味で、ザビ家の頭領を「本当の敵」と言っているのだと思います。
それは、アムロがララァとの邂逅によって感じたこと、つまり本来戦うべきではない二人が戦っているのは、自分たちの能力が「道具」として使われているからだ、ということに気づいたことの現れではないでしょうか。
つまり、彼のいう「本当の敵」とは、人を自己実現の道具としかみなさない人、という意味だと私は受け取りました。それは、どちらの陣営に属するかに関係なく、人類の敵といってもいいのではないでしょうか。
そして、人を道具としてしかみなさなくなることの究極の行為が、戦争だ、ということができるでしょう。その意味で、戦争状態にある地球連邦とジオン公国の双方に、人を道具にしている「敵」がいる、ということがいえるかもしれません。
アムロは、最後に生身でシャアと差し違えたとき、「貴様だってニュータイプだろうに!」と詰ります。シャアはニュータイプ能力が戦争においては強力な武器になると言ったからです。アムロが言いたかったのは、貴様だって、ニュータイプとしてその能力を道具に使われているにすぎないじゃないか、ということだったかもしれません(私の解釈です)。
シャアはその後セイラと二人きりになったとき、「ザビ家は人間はやはり許せぬとわかった」と言いますが、「やはり〜わかった」の「やはり」には、深い意味がこめられている気がします。シャアは自分がニュータイプを道具に使っている立場でしたが、自分も使われる道具(ニュータイプとして、戦力として、そして復讐の道具として)に気づいたのかもしれません。私はこのとき、シャアはアムロの言うことを理解し同調したのかなと感じました。
「人の人格を否定し、ただ自分に便利な道具として使う人こそ、本当の敵だ」という、このアムロがたどり着いた戦う理由を、否定できる人がいるでしょうか?
軍隊という、人を道具として使う組織の中に置かれながら、彼は自分の自由な魂を失わなかった。その自由な魂を持つものこそ、私はニュータイプと呼びたい。そして互いに人どうしが支配されないで生きられる、それこそが、来るべきニュータイプの時代、なのではないでしょうか。
私たちは今も、それを待ち望んでいるのです。
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