自己肯定感0→100時々90になれた私の心の旅3.全てが繋がっている・・・ だから
3.全てが繋がっている・・・
だから
ご覧いただきまして有難うございます。
今回は、不思議な体験の中でも特に印象深く、どんな時でも振り返ることで私を安定させてくれたる人生の基盤になるような信念を築いてくれた体験の話です。
それは30年ほど前の話です。導かれるようにして入り込んだ精神の勉強を初めて3年ほどたった頃でした。
子供の頃からの自律神経失調症の悪化で不調続きだった体調が回復し、途切れ途切れ続けてきた広告制作の仕事で個人オフィスを持てるようになってすぐの頃、私は勉強を始めるきっかけになった人文科学の本を読み漁り、その頃出会った人たちに様々な話を聞き、目に耳に何度も飛び込んでくる「それぞれの人がそれぞれの現実の創造主である」「あなたはソースである」「源である」などの同じことを伝える言葉の意味を暇さえあれば考えていました。
オフィスは大阪市の中心あたりで、すぐ近くに難波宮という古代宮殿の広い跡地があったのですけど、狭いワンルームに息が詰まりそうになるとそこに出向いていた私は、その日も遠くの方まで誰もいない草の上に座ってそれについて考えていました。
「私はソースなのか?」
「源なのか?創造主なのか?」
「私が創造主だとしたら?」
「私は創造主だと思ってみようか?」
「だったら私は創造主」
遠くで遊ぶ子供や走り回る犬、高速道路とその向こうの大阪城、建築中の新しいNHKや、その前の道路を走る車を漠然と視界に捉えながら、どれ程経ったかもわからない時、気がついたら視界がぼやけ初め、すべてが、人も犬も、建物も高速道路も、車も、目の前のすべてがふるいにかけられたようにゆらゆら揺れだし、バラバラに分解されて、サラサラした真っ白な光の粒子に変化するのを見たのです。
見たと書きましたけど、それは目でというより全身が捉えていたようでした。というのは、真っ白の中の私は意識でしかなかったからです。
明瞭な意識の状態の私は、しばらくの間、真っ白い光の中で得も言われない穏やかな心地よさに浸っていました。
でも、一瞬の不安に気を取られた瞬間、その光はまた揺れながら元の状態に戻り、さっきより少し周囲の音が大きくなった芝生の上に呆然とした私は座り込んでいました。
当時はまだそういうことに慣れていなかったので、それも仕方なかったと思いますが、もう一度経験してみたいと試しても、残念なことにそれ以降同じ経験をすることはできません。
この経験を、私はしばらくの間心に収めていました。
と言うのは、ただの不思議な話として受け取られたくなくて、自分なりにでもその意味を理解できるまで置いておきたかったのです。
その経験が頭から離れないまま数ヶ月経った頃、私は一冊の本から気づきとなるヒントをもらいます。
そこにはすべての物質は素粒子の集まりで固有の振動数を持って揺れていると書かれていました。学生の頃にも物理の授業で聞いた話ですが、それを読んだ時に初めて頭の中であの時のビジョンと結びついたのです。
あの時私は、物質が素粒子に分解された様子を見たんじゃないか?
でも、自分自身が創造の源であることと、物質が素粒子の集まりであることにどう関係があるのか?
なんとなくヒントはもらえたものの、そこにすっきりしないまま過ごしていたある日、友人の勧めで出向いたワークショップで、私は自分なりの答えを得ることができました。
その人は老子の説くタオ(道)についての話をしてくれました。タオについての話は多岐にわたりますが、その全体像についてその人の解釈を話してくれたのだと思います。
その人は「すべてのものは一つ(ワンネス)、ワンであってそれ自身が自分を知るためのゲームがタオなんだ」と言いました。
そして手のひらを広げて、「これがワン(創造の源)だと考えてみて。ワンは自分を知りたいと思ったけど、そのままでは知ることができないから、そのためにこの指のように様々に自分を伸ばして、それぞれが動くまま、どんなことをするのか?どんなふうに関わるのか?その経験から何を感じるのかを知ることにしたんだ」と言いました。
太い指先をそれぞれの指先と合わせたり絡めたりしながら「それぞれの指先があなたや誰かだと思ってみて、こうして触れ合うことで、自分は何を思うか何を感じるかをワンは知りたいんだよ」と言うその人の話を聞きながら、私は内側で何かがわかったという感覚が膨むのを感じていました。
難波宮で見たのは、一見分離して物質化する前の状態、ワンの状態を垣間見たのではないか。
ワンが創造主であるなら、私が創造主であると思い続けたその瞬間、それに同化したのではないか。
私たちは一つであると言葉ではよく聞きますが、本当にあんな風に素粒子の状態にもどると、すべてに境界はないのです。
もちろん宇宙は、ワンは、とても深遠でそんな単純に理解できるものではないのかもしれません。それに素粒子が一番分解された状態であるかも本当のところはわかりません。
でも、何かが少し理解できたように思えたのです。
そして、それからまたしばらくした頃、別のワークショップで、私がなぜそれを経験したのか気付くことができました。
そこでの話題の一つはワンネスで、その人はバケツに入った白い絵の具を溶いた水をワンネスに例えて言いました。
「ここに黒い絵の具を一滴落としたら、ほんの少し全体がグレーになるよね」って。
逆も然りです。
その話に私は以前聞いたタオの話を思い出しました。
小指の先が全体とつながっていることを知らなくても、小指の先が傷つけば手のひら全体に痛みが走り、他の指も使いにくくなるということです。
難波宮での経験は、子供の時から緊張と警戒だらけの生活の中で人の嫌なところをいっぱい見て、人生はロクでもないと信じていた私が、平和についてまっすぐ目を向け内側に平和をもたらしたいと思い始めた時期に送られた大切なメッセージだったのです。
ワンネス、全てが一つだから多くの人は他国での争いにでも心が痛むし、知らない人の無事を聞いてホッとしたりするのではないか。
バタフライ効果も私たちが一つでつながっているからなら、私たちが全体のことを知らなくても、私たちの思いや行いがすべての存在に影響を与えているなら、人を傷つけることは自分を傷つけているということで、人を思いやることは自分を思いやることで、自分を思いやることは人を思いやることで、それが真実なら、すべての人がそれを信じれば地球はどうなるんだろう。
いろんな思いが頭の中で溢れました。
誰かが黒い絵の具を落としても関係ない。だったら私は白い絵の具を落とせば良いだけだ。
人生には絶望以外にできることがある。
これ以降、思考に注意を払うようになった私の人生はより健康なものになっていきました。
この話は15年前から始めたマインドセラピーの仕事の役にも立っています。
クライアントさんの中には、怒りや憎しみが手放せず悩んでいる人がいます。
そういう人達は本当に手放したいと思いながらも、無意識に怒りを手放したくないという理由や止めてはいけないという理由を持っていたりします。
そこには様々な理由があるので善悪で語ることはできませんけど、最終的にすべての心が手放す同意をしないと、どんな気持ちも根底から変化させることはできませんから、そのストレスが体や日常にネガティブな影響を持つことや引き寄せの話と同時に、この話を通して自分に返ってくる影響を考えてもらって、怒りや憎しみを手放すモチベーションの一つにしてもらったりするのです。
今回は経験を通して学んだワンネスについて書かせていただきました。
ここまで稚拙な文章にお付き合いいただきまして本当に有難うございました。
また投稿した際にご覧いただけましたら幸いです。
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