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人と違うこと

日々自宅で仕事をしていると、関わる人間が限定されるため、もともと乏しい社会性がますます欠落していくような感覚におそわれることがある。  

しかし、その欠落は本来私自身が持っていたものだし、会社という組織を離れて働くことの方が私にはとても向いていた。

選択肢がないと、無理やりそこに自分を当てはめて生きていくしかない。そのフツウに順応できないとなんとなく自分はダメなヤツとか思ってしまうこともある。だけど、自分の中のフツウを一つの枠にに当てはめようとすること自体、そもそも無理な話だし、会社の中で長く続けられるような良い環境にあたるかどうかも、ただの運に過ぎない。

今、読んでいる本の中でJT生命誌研究館名誉館長の中村桂子さんが、興味深いことを言っていた。

私たちは誰もが自分のゲノムを持っていて、ヒトとしてはほぼ共通だけど、ちょっとずつ、誰もが違うのだそう。つまりはまったく同じ人などいないということ。そして、DNAで見ると誰もが欠陥を持っていることでもあるのだそう。

みなさんはそれこそ機械の世界に毒されているから、工場から出てくる規格品がふつうで、欠陥のあるものは普通じゃないとお思いになりますが、そうではありません。欠陥があることが生きもののふつうです。
(中略)
目の見えない方、足の不自由な方がいない社会を考えるのが機械の発想です。もちろん病気や障害をなおす医療は必要ですけれど、本来それはあってならないという考え方は生きものの世界では許されません。つまり、社会をつくることは面倒なんです。だけど面倒なことに意味があるんだし、それをやることが生きることと言ってよい。

中村 桂子 (著), 島薗 進 (著), 辻 信一 (著), 中村 寛 (著), 奥村 隆 (著), 吉澤 夏子 (著) その他
『「問う」を学ぶ 答えなき時代の学問』( ‎ アルタープレス/トイビト)

欠陥があることが生きもののふつう。

そう思えたら、すごくラクな気持ちになれる。

人と違うということは、なにも劣っていることではないし、欠陥があることも劣っていることにならない。なぜなら機械と人間とでは違うから。

人はもっと人に許されて生きていくべきだし、人を許して生きていくべきだとも思う。

それには自分との和解みたいなものが必要なのかもしれないし、一方でその人がそこにいるだけで許されるみたいな余裕がもうこの世の中にはないのかもしれない。

でも、誰かがそこにいてくれるだけで救われることはたくさんあるし、一見無駄と思われるようなものによって守られて育ってきたことを私は忘れたくないなと思う。

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