12夜 教育改革の提案(その1)
5月10日(令和5年)、教員の人材確保に向けて、処遇改善策を議論する自民党の特命委員会(委員長・萩生田光一政調会長)は、公立学校の教員の給与に、残業代の代わりに上乗せする「教職調整額」を、現行の給与月額の4%から10%以上に増額することを柱とした提言をまとめた。6月に政府がとりまとめる経済財政運営の指針「骨太の方針」へ反映させ、2024年度中の法改正を目指す。(https://news.yahoo.co.jp/articles/4257793171a0ea8a283fc11626de937e978ab4b4)
上記の記事は,yahooニュースに掲載されたものだが,ネット民の多くは,これでは教員の人材確保には程遠いし,教職のブラック化改善にはつながらないとコメントしている.誰が考えても当然だろう.一体,施策を考える輩はどこを見ているのだろうか.
そもそも,公立義務教育学校における教職員の数というものは,戦後しばらくして公布された義務教育定数法(いわゆる標準法)とよばれる児童生徒数に対する教職員の定数を一律に決めた法律があり,それによって,すべての公立義務教育学校の教職員の数配置が決まっている.70年代に入り,児童生徒数の増加や校内暴力などの多様な教育問題に対処するために,定数加配なる法律ができて,例えば生徒指導が大変な学校には生徒指導担当教員の加配や,外国人児童が増えた学校には外国人児童担当教員の加配など,付け焼刃的な加配措置をとることで,業務の多忙化や多様化に対応してきたのが実情である.この施策は現在も続いており,根本的な教職員定数の変更には手は付けてこなかった(正確には45人学級を40人学級にする改正はあったが,根本的な改善には至らなかった).財源の問題を考えれば当然なのだろうが,結局のところ「ヒト」よりも「カネ」を優先してきたのである.
「ヒト」を増やすことは,多様化した業務に対応するためには必須であろう.要するに1クラス=40名(または35名)の現行基準から15名~20名を基準として学校の教職員定数を決めればいいわけで,劇的に教員ひとりあたりの負担は減ることになるだろう.単に人手不足の居酒屋で求められるバイト増加要求と同じことだ.
しかし,問題はただ人を増やせば解決という問題ではないということだ
.もはやブラック職場の代名詞となりつつある学校では,採用試験受験倍率の低下問題がある.教員採用試験の倍率が2.7倍を切ると,採用者の教員としての能力に疑問符が付くようになるという問題なのだが,そもそも受験希望者が減ってきているという問題にどう対処すべきかということなのである.この問題は人を増やしたからといって簡単には解決しない.なぜなら,その原因には,あまりにも多岐にわたる業務とコールセンター以上の苦情処理の煩雑さにあるのだから.
では,どうすればいいかといえば,方法は2つあると筆者はみる.
1つめの方法は,教員の業務の限定化だろう.先生=授業をする人として,クラス運営者=先生ではない人,授業以外の指導監督をする人=先生ではない人,にしてしまえばいい.この方法は,際限なく財源が必要となる可能性はないわけではないが,異次元の少子化対策などどいうくらいだから,財源の工夫はいくらでもあるだろう.場合によっては,複数校を担当する先生が出ることを考えることや学校長ひとりに複数の学校を担当させること(校長のエリアマネージャ化)も考えるなど,発想そのものを従来の考え方から変えていく必要があるだろう.要するに,陳腐化した教育関連法を大胆に見直すことが必要なのだ.
2つめの方法は,学習指導要領の根本的な改訂だろう.学校教育の場面では,教科教育以外にも,栄養教育,法教育,ICT教育,多文化教育などなど,○○教育なるものがどんどんと入り込み,指導要領の中に埋め込まれたり,教科教育以外の場面での教育を求められたりと,社会教育があまりにも学校教育に依存しすぎてしまったことが,教員の多岐のわたる業務の原因となっている.教科教育の内容にしても,実際に教えたことのない専門家が「あれも必要、これも必要」と指導要領に詰め込みすぎたために,教員自身が授業を考える余裕がなくなってしまった.要するに教員を信用していないのである.その結果,1年間で教える内容がノルマ化してしまったのだ.だから,現行の学習指導要領を目標準拠ではなく展望準拠(後日詳細はのべるとする.)にして,ビジョンをどのように具現化するかは教員にまかせればいい.これなら「やりがいの搾取」は生まれないはずだろう.よく,上手な授業(そもそも上手な授業って何なのか?なのだが)をコンテンツ化してそれを配信視聴することで教員の負担が減るというネットの意見があるが,残念ながら塾のようなわけにはいかない(学習者のレベル幅が学校では大きすぎることが原因)ことは,一斉指導の経験がある人なら同意するだろう.つまり,コンテンツをカリキュラムにどのように当てはめることがよいかを授業者自身が考えて,授業者によるカリキュラムを設計する枠組みを学習指導要領に作り込むことで,コンテンツのダダ流しではなく,教材としてのコンテンツの価値が発揮されるのだ.
この程度のことは,多くの現職教員や一定程度の経験年数を積んだ退職教員なら容易に考えられることであり,彼らの多くは賛同すると筆者は考えている.これ以外にも方法はいくらでもあるだろうが,要するに「法律を見直すこと」と「教員を信用すること」から改善をはじめることでしか,新しい時代に即した教育を目指す改革はスタートしないのだ.
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