2023年 親と子の間で考えたこと その1
ポップスやヒップホップを聞いている子供への悪影響を心配する親なんてほんとに余計な存在。そんなのほっといてください。子供への悪影響を心配しすぎる親は、自分自身の悪を見る目が曇っていないか疑ったほうがいいです。
「むしろ、クソみたいな、吐き気をもよおすような、残酷な世界の中にも、優しさや喜びはあるのだという矛盾そのものを子どもに見せるのが、大人の務めではないでしょうか」[親子の手帖](1/6)
子供の調子が悪い時にはどんな場所に行っても本人との特性が合わないように感じて、いろんなところを転々とすることになることが多い。もちろん転々とする中で見つかればいいけど「特性が合わない」という見立て自体を構築し直した方がいいことも多い。「合わない」のではなく、こういうものだと。親がこういうものだとわかったときに、調子が悪かったのは自分の方だったと気づくことも多々ある。(1/10)
妹がいま2分の1成人式の準備をしているという子がいて、やっぱりまだやってるとこあるんだと呆れた。定番の親への「感謝の手紙」を書き、しかも「その家族に生まれてよかったと感じた経験(エピソード)を入れること」という指示付き、さらにこれからの夢と目標を語るスピーチをするという内容。
子供は親に感謝しないから尊い。感謝はその人が自らの歴史を抱いて生きていること。いまの比重が高い子どもがやたら感謝するのはむしろ不自然。そしていまの充溢なしに子供の歴史は積みあがらない。いまを知らないまま育った大人が過去に実績を求めたり身分の高さを生きがいにしたりするんだろう。(1/11)
大人は(特に左派は)社会に対する見立てがデフォルトでネガティブすぎて、それが子供たちに負の感情を呼び起こしているという一面があることを知ってほしい。子供に「これからの世の中はたいへんなんだよ」と言う大人はたいてい自分がネガティブな見立てをすることで癒されたいんだから、そういう自分の欲望をまずは見たほうがいい。環境のせいにするのは確かに大事だけどあくまで観察に留めるべきで、マイナスの見立てによって救われようとするのは苦しい。(1/11)
いじめは本当に恐ろしい。でも親が先回りして子供を過剰に守ろうとすると子供まで些細な摩擦に過敏になって自分を守るための適切なバランスがわからなくなる。そして人間不信ばかりが募る。いじめられていないのに、常にいじめられているような心的状態に追い込まれることもある。(1/20)
受験の弊害って子供に過度な負担を与えてがんじがらめにするところばかり強調されがちだが、それ以前に受験制度がいかに高校と中学、教師、そして教育を管理しているかを考えないと。(1/28)
いまの子供たちは自分がスマホやSNSに「最適化されている」ことに自覚的でその点の話が通じやすい。「スマホ人間ですから」と言っていた。(1/28)
親が現状のままでいいと納得するだけで「解決」する子供の問題はたくさんある。(2/6)
大受、高受で合格発表日に自分の子供の合否をつぶやく人は少ないしかなり慎重な取り扱いをしているのが見て取れるけど、中受の合格発表の日には桜が咲いたり咲かなかったりする親のつぶやきがたくさん。もちろん一概に悪いわけじゃない。でも中受の危ない側面を目撃している気がする。(2/7)
私の本を読んで子どもの味方ばかりと感じるのはしかたなくてなぜなら100%の味方を必要とする瞬間の子どものことを考えて書いたから。あれを読んで親が「私は子どもに悪いことばかりしてる」と真に受けすぎる必要はなくて(でも真に受けてほしい)、子どもも親もお互いさまくらいがちょうどいいです。(2/7)
子どもに変化してほしい。でも変化するのはそれほど簡単じゃない。そんなときに子どもの前では本気で応援して支援するけど裏側では簡単じゃないのを知っているから少し醒めて諦めている。でも完全に諦めてはいない。やっぱり子どもはなかなか変化しない。でも応援し続ければ変化が少しずつ見え始める。
少し醒めて諦めているのは大人の欺瞞ではない。むしろ少し醒めて諦めているくらいがちょうどいい塩梅だと知るのが大人だと思う。結果的に子供が自分で変化する余地が残る。その変化は親の想定から少しずれるくらいでいい。(2/7)
22年間嫌いな子供に出会ったことがないので、大人の嫌い成分は思春期以降に世間で育まれるものと思っている。(2/11)
子供に対して教育熱心な親は自分が本質的に子供に何も与えてないことに対する強い不安を抱えていることが多々ある。子供にはからずも(良い)影響力を与えている(ほんのりとした)自信がある親は教育熱心になりにくい。(2/14)
小学校のころは周囲と合わせない挙動が見逃されてきた子が、中学に入っていよいよ合わせられないとおかしいよ、ふつうじゃないよ、大人になれないよという圧力を受けて一見わかりにくいけど強いストレスに晒されていることは多々ある。子供の苦しみが見え始めたころには子供のケアラーである親のほうはとっくに苦しみの限界に達していることもあり難しい。
でも、その子はただ自分独特の旅をしているだけで、整った学校や教室のほうが狂ってるのかもしれない。だから周りと比較せずに、その子独特の旅を後押しすることに傾注したほうがいい。これを周囲の大人がどれだけ勇気をもってできるか。(2/15)
子供の想像力とか理解力とかを舐めてる(下に見てる)児童書はたくさんあって、それはダメだと思う。子供相手にこそガチンコで書いてほしい。(2/16)
いまの子供たちを見ていると、大人が子供をそんなに幸せにしてしまっていいの?と感じることがある。(2/17)
「わからないところがあったら先生とかにちゃんと質問しなさい」とたびたび大人に言われる子供のほとんどは、質問できる地平に立っておらず、そのはるか遠くにいる。(2/18)
現にいま世界に存在している気持ち悪さと絶対的に死ぬのだという事実が直観的に了解される虚無の穴を覗くような瞬間が、子供のころは発作のように何度も自分を襲っていたことを思い出す。(2/23)
親は子供より自分のほうがわかっていることをデフォルトの認識にしているしそれを頼みの綱にしているが、子供の方がはるかにわかっている場合だってある。当たり前である。大学生や高校生に過干渉する親に対して特に思うこと。子供の話を建前上聞いてあげないとと考えて話を聞く親は多いが、目の前のこの子が私が知らないことを知っているかもしれないと新しい現実に驚愕しながら子供の話を聞く人は少ない。「子供に瞠目せよ」である。(2/27)
子供を否定しない子育ての隆盛と、空気を読むことを重視して必要なときにNOと言えない大人の感性は直接繋がっている。(3/9)
推しを心配する心理は、親が子供のことが心配といいながら子供に自分の不安をなすりつけるのと相似形。それはあなたの不安ですよ。(3/14)
親の期待に応えながら素直に育った子でさえ、人生の途中で自身の欲望が親の生き方や価値観と合致しなくなるということは当然あり得ます。だって一人ひとり個別の人生なんですから。そのような状況で、子どもが新たに自分なりの文脈を得て、親と違う生き方を見つけるのは、とても切実な問題です。(以下のインタビュー記事より・3/17)
子供がなにかをやらかしたとき、親が過度に私の失点と思わないでほしいと切に思う。そんなわけにいかなくてもそう思う。(3/19)
本の感想を書くのはいいけど、自分に引き寄せすぎて「鳥羽さんは自身が親に苦しめられた経験がある」とか私がどこにも書いていないことを知ったつもりで書くのは迷惑だからやめてほしい。的外れすぎる。なんで自分の経験からしか書けないと思うのか。22年間で1000組以上の親子と出会ってきたのに。今まで書いた文章で、自分の親に寄せて書いた文章、実はひとつもないんですよね。自分の親との経験を投影しながら子供と接するような大人は子供にとっては迷惑なんですよ。そこらへんを自覚的に徹底しているわけです。(3/25)
受験でたしかに子供は成長することが多々あるが、しかしそこに大人が成長物語を描くのはほとんど虚偽的である。(3/25)
子供が極端に振れるとバランスを取ることを求める大人が多いが、そんなことだから子供の「好き」が育たない。極端に振れてみないと何も身につかない。(3/26)
受験が終わった後に、「あなたは〇〇だったから合格できなかった」と親が子供に言うのは9割方NGなので注意してください。(4/5)
自分の言葉を持たない大人は、何も親だけではありません。人は何者かになったとたんに、固有の言葉を捨てて、何者かになりきって話そうとするものです。例えば、医者として、教師としてといった具合です。幼い子どもが「ごっこ遊び」をするのと同じ要領ですね。大人社会も基本はごっこ遊びの延長ですから、人は何者かを実装した瞬間から、誰もが芝居がかった平板な存在になるのです。
こうした言葉を失うことには、実は大人にとって隠されたメリットがあります。それは、自分の実存を深いところで肯定できない大人たちが、自分の問題について考えなくてよくなるということです。例えば、これからは自分の物語を生きるのではなく、子どものサポーターとして生きればよい、○○としての責務を全うすればよい。そのように思うことで、自分を生きるターンから降りることができるのです。(『君は君の人生の主役になれ』より・4/7)
子供の進学先を恥じるような親はダメだ。(4/11)
佐藤ママに関しては、持ち上げてきた人たちが悪い。そもそも勉強ができる子を育て上げた親の教育法は正しいというストーリー自体がグロテスクだ。(4/17)
推しが自律した主体的な大人であるという想像力を努めて持たないようにするファンたちの心理は、いくつになっても自分の子を子供扱いする親の心理に似ている。(4/19)
シュガは「好きなこと」「楽しいこと」を手放しに称えるようなことはしません。「好きなこと」や「楽しいこと」をパターナルに推奨することが、簡単に人間をコード化して扱いやすくしてしまうことを見抜いているからです。『推しの文化論』p72
日々、子供と関わる人たちには一度は考えてほしい観点。(4/21)
どっちがいいとは言えないが、若いときに自分を壊すように変容した人とそうでない人の人生は違う。たいていの親は子供に成長してほしいと願ってはいても、根っこが変容してほしいとは思っていないし、それを促すことが親の役目でもない気がする。でもそのチャンスを邪魔しないでほしい。(4/26)
髭男爵の山田ルイ53世さんから私が「子供の習い事について」相談を受ける記事がYahooニュースにて公開され、大きな反響がありました。(4/29)
(その2に続く)