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精霊たちが出迎える

*以下は「週刊朝日」のコーナー「最後の読書」に寄稿した文章。人生最後 に本なんて手にするだろうか、と考えながら書き始めた文章で、ディケンズの『クリスマスキャロル』を扱いました。

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人生が終わろうとするときに本なんて手にしないだろう。私にとって本は自分を慰めるためのものではなく、自分を変化させながらなんとかこの世でやりくりするためにあるものだから、死ぬ前に読む動機なんて見当たらないだろう。

しかし、日常の中で過去の読書を反芻することを私は繰り返している。日々十代の子どもと接する仕事をしているからだろうか。彼らと同じ年代の頃に読んだ本のことを思い出しやすいようだ。私の「最後の読書」は、私の樹脂となった過去の本の追想にならざるをえない。

私が子ども時代を振り返ったときに最初に浮かぶのは、ある特定の出来事というよりは、クリスマスのころの甘くてどこか物憂げな雰囲気だ。

カトリックの家庭に育った私にとってクリスマスは胸躍る特別な日で、でもそれは華々しいものではなく、宗教的な厳粛さが極まるときだった。ちらつく雪の中で空を見上げる私は、いつか目の前に精霊が現れて、遠くの世界に連れ去られてしまうかもしれない。そんな空想を描いていた。

クリスマスの追憶は、社会の複雑さを読み込むことを知らずに、感受性の中だけで生きていた私の幼年時代に直接アクセスする。愛読した絵本『クリスマスキャロル』の中では、がめつい守銭奴のスクルージがクリスマスの夜に出会った3人の精霊の導きによって改心し、明るい人生を取り戻す大団円が描かれていた。その物語はクリスマスの神聖さと相まって、正しさを希求する幼少期の私の胸に大切にしまわれていた。

しかし、高校時代に父親の本棚で見つけた文庫版『クリスマスキャロル』を読むと、全く違う世界が目に入ってきた。悪党であるスクルージに対して、彼には何ひとつ良いところがないのにもかかわらず、ほとんど無条件とも言える慈愛が注がれていたのだ。

私はその矛盾、正しい人間に対してだけでなく、正しくない人間に対しても愛が注がれる矛盾を理解したときに、世界の真理を見つけたような気がした。そして、そのことが腑に落ちる自分はいつの間にか汚れてしまったんだと思った。大人になったと思った。

クリスマスの祝祭的な雰囲気の中で、出迎える精霊たちを歓迎しながら一生を終えたい。そう思いながらまた『クリスマスキャロル』を反芻した。

(週刊朝日2023年3月3日号)


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