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薄曇りのオルセー美術館

12年ぶりにパリに来た。まだ行ったことのなかったオルセー美術館へ。

オルセー美術館 入口付近から

オルセー美術館はかつての駅舎を利用したもの。いまのパリには中心街から離れたところにしか鉄道の駅はないので、いっときでもこんな中心地に駅があったことに驚きである。外観の時計からそれっぽかったが、エントランスを抜けるとそこは確かに駅の名残りそのもの。細長いホームと列車が見えるよう。

オルセー美術館は印象派を中心としたせまい年代に特化されているので、構成が非常にわかりやすいし興味深い展示が続く。19世紀からこうやって現代につながっていくのだなという導線というか波動というかそういうものが伝わってきて刺激的である。

ミレー「落穂拾い」

ミレーの「落穂拾い」は僕が人生で初めて向き合った西洋絵画といってよいと思う。中2のとき、美術の時間にこの絵の模写をやったのだ。徹底的に緻密にやったので、美術の先生に目をつけられるきっかけとなり、1学期の通知表2が2学期は5に跳ね上がり、卒業までそのままだった。

僕はこの絵画にとても惹かれていた。落穂を拾うという農民の過酷な人生がそこに刻まれていることというよりは、もっとシンプルにその老婆たちの腰の曲げ方のリアルと、それが極めて美しく描かれていることに惹かれたのだと思う。

いまではほとんど見なくなったが、僕が小さい頃にはまだ文字通り腰が曲がったじいさんばあさんというのがそこらじゅうにいて、「ほら、そんな悪い姿勢で座ってたら、××ばあちゃんみたいに腰が曲がるよ!」という母親の言葉を真に受けて姿勢を伸ばしてみるくらいには、腰が曲がるということが現実的だった。写実主義というのは意識の高いロマン主義みたいなところがあって、現実を過酷にありのまま描くとはいっても、その先に至高の美への希求がある。「落穂拾い」に描かれるのは、人生の姿勢ともいうべき腰が曲がった現実の老婆たちの姿であり、そこに哀しみと美しさを感じていたのだと思う。

それにしてもである。実際の絵を見ると、僕が模写したときには全く拾いきれなかった線と色が見える。無数に見えるといっていい。そのことに愕然としてしまう。となると、僕は何を見ていたのだということになるが、でも、見えないなりによく見るというのも、とても現実的で切実な話だと思う。


エドゥアール・マネ 「オランピア」

訪れた日は胃腸の調子がとても悪く、美術館のすべての絵画についてしっかり見たわけではないが、数少ないよく見た絵画の中でいちばん惹きつけられたのは、やはりと言うべきか、マネの絵画だった。

クールベは胃腸によくない感じがしたが、マネは悪くなかった。彼の絵はなんだかんだいって明るいし、それでいて単なる新しさに流れずによき古さはそのままにエッジを利かせて変態してみせるようなところがある。マネの絵からは光明が差してるなと思う。彼の絵ひとつ見るだけで、真に受けつつ真に受けないことの意味みたいなのがわかる気がする。

そんなことを考える自分は、中学のころにミレーに魅せられていたときと変わったなと思う。正確に言えば、変わっていないけど、もっと別の手札を手に入れてやりくりできるようになったなと思う。

こうやって絵を見るだけで、普段自分が考えていることとか、千葉さん(千葉雅也さん)があのとき言っていたこととか、そういうことが腑に落ちるのが不思議だけど面白い。ちなみに、ドガがマネの葬式のときにほのめかしたように、マネがやったことは極めてわかりにくいことだと思うが、千葉さんがいまやっていることも、相当にわかりにくいことだと僕は思っていて、僕はそのわかりにくさのフォロワーなのだと信じているところがある。


エドゥアール・マネ 「笛を吹く少年」


子供たちに熱心に絵画を解説して回るアジア系の女性がいた。子供たちを連れて美術館に行くなんてどうしても退屈になるじゃんと思っていたが、自分なりの絵の見方、楽しみ方を知っている人が、目の前の大好きな子供たちに真正面からパッションを伝えるということをやれば、子供はこんなに絵に食らいつくのだなという例をたまたま見せてもらって感激した。平倉圭さんのことを思い出した。僕は以前、平倉さんの極めて動的な美術講義を動画で見て非常に感動したことがあるのだが、彼の本を読んで、そして実際にお会いして、平倉さんのパッションに感動して、そしてずっと感動し続けている。

大人になると、変に斜に構えてしまうところがある。それが皮肉やユーモアであるかぎりにおいては問題ないのだが、いつの間にかそれが擬勢になるとダサい大人になる。真っ直ぐに見ることしか知らない子供の前で、変に照れてウジウジしてしまう自意識を駆逐するというのは、子供に関わる多くの大人にとって人生の課題になるはずである。

今日はこれが限界だと思って、3時間くらいで美術館を後にした。

薄曇りのこの日、夕方になると(といっても21時頃だが)薄い紙を透かすように空に淡い桃色が差し込んできてきれいだった。


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こちらのnote記事、後日、晶文社の連載で全く違う形に生まれ変わりました。よかったらご覧ください。


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