苦手意識について考える
大人のほとんどが、子供の頃できなかったことを、今もできないできないと胸に抱えながら生きている。(2024.7.3)
大人になって何度も「私は○○ができないな」「私は××が下手だ」と考えることがあるが、これらは多くが子供時代の苦手意識の反復で、人生はこういう反復に貫かれている。(2024.1.9)
人は日々変化していくし物事には様々な象面があるから、一度苦手だと思っても本当は何度でも出会い直せる。しかし、相対的に形成された苦手意識がその人の身体を固まらせて出会い直すことを妨げていつまでも「苦手」は燻り続け、大人になっても「苦手」が身体を縛り続ける。
子供に「苦手だね」「できないね」と言わないでほしい。新年度のこの時期、そのせいで出会い直しができない子供がたくさんいる。(2024.4.16)
「運動神経が悪い」と言われている人の多くが、運動できないというより、その手前に神経症的な躓きがあるということをちゃんとわかるように教えてくれる大人がいると救われる子供がいる。(2024.2.21)
以前「出会い方」(『おやときどきこども』所収) という文章を書いたが、「苦手」とか「好きじゃない」とかの自分の思い込みや、逆に「バカにされてる」とか「嫌われている」と感じる原因となる相手からのレッテル貼りは、出会い方の問題だったんだと思えば少し楽になる。(2023.1.14)
私は●●の勉強が苦手だったから、かえって○○さんの苦手なところがわかって指導できると言う指導者がいるが、わかるとすれば苦手な気持ちであって、苦手の成り立ちは人それぞれなので、苦手だった人の方がわかるということはない。(2024.1.21)
「勉強が苦手」という見立ては雑すぎる。どの子にも、この科目のこの部分はできるとか、こういう別のアプローチでやればできるとか、物事の捉え方自体に独創があるとか、ちゃんと苦手じゃない部分がある。苦手を全体化しないこと。苦手じゃないところを伝える大人がひとりでも近くにいること。(2023.7.26)
例えば体育が苦手だと感じている子は「私は体育が苦手だ」と苦手の全体化をしやすい。これは自己防衛的な反応として正当なものだが、でも実際には体育全体が苦手な子は少ない。こういう「苦手の全体化」に対する手当ては学生時代に留まらず、成人した後でもやったほうがいい。(2024.2.8)
英語圏にだってテンションが低い人もいるのに、小中学校の英語教師はいつもハイテンションが求められている。ハイテンションを英語の文化だと勘違いして英語が嫌いになる子どももいる。内向的な人間に無理をさせない英語教育になりますように。(2020.5.29)
中学受験の競争の中で苦手意識を持った子が、その後も苦手を抱えたまま学生時代を過ごすのもったいなすぎる。小学校時代の苦手なんて当てにならず、その後どうにでもなるのに、苦手「意識」がその子の可能性を奪ってしまったわけだ。そしてその意識は大人になってもくすぶり続ける。まさに受験後遺症。(2024.4.10)
勉強を教える仕事を長年やっていると、勉強が苦手な子どもたちに対するごめんねという気持ちはずっとある。勉強が苦手なことに引け目を感じることなんて全くないのに、どうしても「できる」ことが推奨される場所だからどうやっても引け目を感じさせてしまう。だから、勉強が苦手な子を巻き込んで授業自体を楽しくする方向で、一人ひとりが参加して楽しい授業になりますようにと努めている。勉強が苦手なことは人間の価値には何の関係もないという話も半年に1度は子どもたちの前で話すようにしている。でも、それでも勉強ができない子どもたちは苦しいと思う。(2019.12.17)
塾という場所は、子供たちに「私は勉強が苦手…」とネガティブな感情を抱かせがちなので、勉強が苦手でも生きる力が強いと感じる子には躊躇なく「生きる力が強いから大丈夫」と伝えている。(2024.2.14)
勉強が苦手だと言う小6男子。テスト中に手が止まった彼と目が合ったから「がんばれ」と口の動きで伝えると、彼は口元をぎゅっと結んでもう一度答案に取り組み始めた。その一瞬の彼のまっすぐさがいとおしくて、相対的な苦手意識よりも彼の中にある絶対的な好きこそを発掘して一緒に味わいたいと思った。(2019.7.8)