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吉田松陰先生に学ぶ。
僕は、幕末維新では新選組や榎本武揚が好きで、どちらかというと江戸幕府側が好きな傾向ですが、これが戦国時代とかになると江戸幕府をつくった徳川家康はあまり好きではなくて、織田信長や真田幸村とかが好きなので、どうも負けちゃうんだけど色々頑張った歴史が好きなんだと思います。坂本龍馬や高杉晋作も好きなので、志半ばで斃れた人も似たような意味で好きなのかもしれません。
それぞれ勝者だって成功者だって頑張っているはずなのに、そこは源義経に対する”判官びいき”と同じような心情なのかもしれません。
判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた[1]同情や哀惜の心情のことであり[2]、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象[3]を指す。
そんな感じで映画も上映されている河井継之助が絶賛気になり中なので、映画を見るか先に歴史を調べるか迷っていますが、相当な傑物のようで早くこの人の人生に触れてみたいとわくわくしています。
・・・が、その前にずっと気になっていた幕末の偉人をちゃんと調べておかないとダメだ、となりました。
ずっと気になってたんですが、”お~い竜馬”でちょっと知ってるくらいでしたので、今度ちゃんと本を読もうと思いつつ、今日は簡単に調べてみました、吉田松陰先生です。
吉田 松陰[注 1](よしだ しょういん、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。
松下村塾は、明治維新を成功させる傑物を多く輩出していると聞きますし、多くの若者に影響を与えた人物ですね。武士だとは思っていましたが、思想家や教育者というのは知りませんでしたが、塾の先生をしていたので当然といえば当然ですよね。
松下村塾があった萩には一度は行ってみたいです。
そして一番驚いたのは、29歳で亡くなっています。
29歳ですよ!・・・勝手なイメージですけど、50代くらいのおじさんを想像していたので、ちょっと本当にびっくりです。
僕の29歳といったら、介護現場で管理者になって3年目くらいの頃で、相当ブレブレで悩んでいた頃だと思うので、なんというか本当に恥ずかしいです。
天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
松下村塾って吉田松陰が勝手に始めていた寺子屋だと思ってましたが、ちゃんとした塾で松陰自身もここで指導を受けたんですね。
松陰と松下村塾で同じ松が入ってたので勝手に勘違いしていました。
松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 2]「神国由来」[注 3]、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]。
子供の頃から仕事も勉強も熱心だったようで、兄弟に本を読ませるなど教える事も好きだったようですね。
葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた[4]。松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた[4]。
ついで、松蔭は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ[4]
今のままでは西洋には勝てないと早い時期に理解できた事が、その後の行動などの大きな原因だと思います。
何を信じるかでだいぶ違いますし、日本の攘夷論者の多くが日本刀で西洋に勝てると本当に思っていたようですので、このあたりの理解の速さと切り替えのうまさは才能なのかもしれません。
嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。
東北旅行と書いてありますが、そらく見聞を広めるためのもので学ぶための旅行だと思いますけど、脱藩しますか・・・こうして後世から見ていると面白いですけど、本人たちは命がけですもんね。若気の至りというのでしょうか・・・、松陰22歳の頃で、あと7年で亡くなってしまうという時期です。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた[7]。
西洋文明に心を打たれているのに日本刀で斬る気満々の松陰先生が僕はとても好きです。
・・・西洋文明を学んでいた松陰をもってしても日本刀でどうにかなると思っていたという事でしょうか・・・、恐ろしい・・・。
嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。
漁船を盗んでペリーの黒船に乗船したとか正気の沙汰じゃないですね。
日本刀の切れ味を味合わせてないか不安です・・・。
どうやら渡航を拒否されたと記載があるので、アメリカに行きたかったのでしょうが、それは実現せずに捕らえられています。
死罪にされそうになりましたが、老中の阿部正弘が反対して助命されたようです。
老中阿部正弘は相当出来る人だったはずなので、松陰のような人物は嫌いじゃなかったのかもしれませんね。
長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。ここで富永有隣、高須久子と知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになる[8]。
牢屋の中で囚人相手に塾を開いたという事でしょうか。
なんだかすごいですね、教える事について異常な熱意を感じます。
講孟余話とは
幕末の尊王思想家吉田松陰(しょういん)の著作中、質量とも第一の主著。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 7]。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。
27歳で松下村塾を始めたとの事です、もっと早い時期から長い時間をかけて塾生を指導していたのだと思っていましたが、没年が29歳なので1~2年の間の話だったんですね。
それはそれですごい驚きです。
また、教え方も非常によいと思います。一緒に学ぶというのはすごくいいし、実際に指導している側が学ぶ事って本当に多いので、こういう一緒に意見を交わしたりする関係での師弟関係というのは得難いものだと思います。
生きた学問だったと言われているのも納得ですね。
安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる[10]。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
面白い内容だったので全部載せちゃいましたが、幕府の対応にブチ切れてますね。幕府高官を誘拐して言う事を聞かなきゃぶっ殺す!みたいな感じです・・・。ちょっと僕の吉田松陰のイメージと違うんですけど、門下生もちょっと引いてて諫めている感じがしますが、それに対して失望してしまう松陰先生・・・。こうして読んでいるだけだと面白いですけど、周りの人は大変だったろうと思います。
長州藩もこの時点で倒幕を訴えている松陰を危険視して投獄していますので、この時期では倒幕も相当にぶっ飛んだ発想だったんだろうと思いますが、その後、松陰の教え子たちが長州藩を倒幕の方向に変えていくのも歴史のいたずらというか面白さというか・・・。
安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう[11]。この結果、松陰に死罪が宣告され、安政6年10月27日(グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて執行された。享年30(満29歳没)。
とうとう29歳という若さで亡くなってしまいます。
亡くなってしまうんですけど、安政の大獄で死罪になったと単純に思っていたのですが、そうではなかったようです。
ぜんぜん別の話を聞かれた際に、老中暗殺計画を告白して死罪になってしまうという・・・。なんという事でしょう・・・。
自ら進んで告白してしまうって、俺は老中を暗殺するぞ!みたいな事を聞かれもしないのに言っちゃったってことでしょうか。
凄いというかなんというか・・・、面白いけど、こんなんで死んじゃったの?と不思議で理解しがたいのですが、なんで言っちゃったんでしょうか。
飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。
情報の重要性をしっかりと理解して、それをきちんと行動と結果として組織化して弟子にも重要性を教えているのは非常に大きな功績だと思います。
草莽崛起
詳細は「草莽」を参照
「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。
安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。
介護業界にも利用者さんのQOL向上を目指して草莽崛起は必要かもしれませんね。
吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。
王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。
文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった[12]。
陽明学も気になりますが、死に方の原因が文天祥そのもの、という事で気になったので調べてみました。
「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」
忠誠を尽くすという意味では、天皇と日本に対して忠誠を尽くすので、その害悪になっている幕府老中の暗殺は正しい事だ、という事で率先して告白してしまったという事でしょうか。ちょっと空気読んでたらよかったのに・・・と思わずにはいられないです。
Wikipediaで吉田松陰についてざっと調べてみましたが、29歳で亡くなるまで本当に波乱万丈ですよね。
個人的には、実際にアメリカなど見に行かせてあげたい気持ちになりました。
優しい先生像もある中でブチ切れたり暗殺を企てたりと、とんでもない人物ですが日本の行く末を本当に案じての事だったと思います。
情熱というかそういう熱意が伝わってくるような内容でしたし、より深く吉田松陰について知りたいと思いました。
それにしても20代でこのバイタリティは素晴らしいですね。
見習いたいです。