16. 〈もつ〉者と〈もたざる〉者と
こんな匂いを、エレナは知っていた。
十年前、深夜にベッドの上で目覚めたとき,大好きなマホガニーの芳香は消え失せて、その代わりに肉が焦げた匂いが邸宅に立ち込めていた。
当時、いまよりも背の低かった彼女は、異変を感じてベッドの上を半ば転がるように滑り降りると、隣で眠っていたはずの女中を探して寝室のドアを開けた。
目の前の光景に、エレナは言葉を失った。
そしてすぐ、身体に容赦無い熱気を浴びることになった。
天の雷が寄ってたかって、ローゼンハイム家に落ちてきたのではないか。
そう錯覚してしまうほど、邸宅が広範囲にわたって赤々と燃えている。三人いる女中のうちの一人が、狂ったように古ユーリア語の聖句を唱えながら水桶をもって走り回っていた。だが、エレナは幼な心にもそれが何の意味もなさないことを悟っていた。
「エレナ様!」
隣で眠っていたはずの女中が飛んできて、エレナの小さな手を固く握った。
「ここは危のうございます。私めとお逃げください」
「お母様とお父様は?」
「すでに逃げ延びていらっしゃいます」
エレナは、女中が嘘を吐いていることに気づいてしまった。ほんのわずかに、女中の握る手のひらに熱がこもり、変な汗が滲んだからだった。
それでも言われるがまま、邸宅の外に飛び出したエレナは、小高い丘の上から光の隊列がこちらに向かってずらっと伸びているのを見て戦慄した。
「あれは? あれは何?」
「エレナ様。あれは良くないものでございますよ。誇り高きローゼンハイム家の後継ぎであるエレナ様は、知らないほうがよいものです」
エレナは、目の前の女中に対して言いようのない怒りがむらむらと沸き上がってきた。この女中は大変に有能だけれど、エレナが知らなくていい事がらを勝手に決めつけて、徹底的に隠しとおす算段なのだ。悲しい現実を知らせないことが美徳だと、知らないことが清浄だと、自分に植え付けようとしているのだ。しかし、そんな不届きなことが、この世の中にあるだろうか。得体のしれない真っ黒な怒りの渦が、エレナの心を混ぜ返す。
しかし、女中はなおも続けた。
「いまは、どうか生きるのです。私たちユーリア人は、戦争で生き残るために、ガリシアという悪魔に魂を売りました。そのことで、これから先の未来に、エレナ様が傷つき、反対にだれかを傷つけることもあるでしょう……。それでも、生きて、生きて、生きてください。ばあやからの最後のお願いです」
女中は森の奥に寂しくたたずむ掘っ立て小屋に着くと、エレナに丸い金貨を手渡した。親指の太さくらいの小さな金貨がずっしりと重たく、エレナはエメラルドの瞳を丸くした。
「エレナ様。この金貨には、我らにとって大切な神様が宿っているのですよ。どうか、忘れないで。必ず、神様があなたを守ってくれます。ああ、どうか、この子に星のお導きがあらんことを!」
金貨に刻まれた紋章が《ヘデラ・ヘリックス》という名前であることを知ったのは、だいぶ時が経過してからだった。あのとき自分を逃がしてくれた女中は、小屋にやってきたハマル神父にエレナを託したあと、行方が分からなくなっていた。風の噂では、エレナの両親を守れなかった責任を取って主に殉じたとも、迫りくるザクセン朝の軍隊に殺されたとも聞いた。
あのときの感触と感情が、いまも脳裏に焼き付いている。だからこそ、燃え広がる喫茶店《ウラヌス》で肩を撃ち抜かれて失神していた彼女は、炎に焼かれる前に奇跡的に意識を取り戻した。
「エル!」
ひどく眩暈がするなか、必死に彼女はエルの姿を探した。周りには防衛部隊と強盗たち双方の死体がちらばり、地獄の様相を呈している。あの精悍なピーコックさえ、意識を失って倒れていた。
流血の止まらない足をひきずって、エレナは喫茶店の出口を目指した。しかし、いきなり猛烈な力で肩を強打され、そのまま顔に猟銃を突き付けられた。アルファルドが彼女の上半身を羽交い絞めして、関節を固める。
「エレナちゃん。あの爆発と連射攻撃にも即死しなかったのは、まさに奇跡としかいいようがない。きっと君は〈もって〉いるんだ。私も、死んだザクセンの同胞たちも、そして敵の王家でさえ、えてして〈もって〉いなかった、強力な武器を」
痛みで声が出ないエレナをひきずりながら、ひび割れた窓のほうへ連れていく。したたる血潮が床に赤い線路を描いていく。窓の外では、見事な満月が夜空にぽっかり黄色い穴をあけている。
「何だか分かるかい? そう、〈幸運〉だ、他の何者にも代えがたい〈幸運〉だ!」
エレナの胸に手をつっこむと、きんちゃく袋に入れた金貨を取り出した。エレナは屈辱からアルファルドの手を噛もうとしたが、利口な彼はそれを許さなかった。目じりを下げ、恍惚に《ヘデラ・ヘリックス》の刻まれた金貨をなめるように観察する。
「《ヘデラ・ヘリックス》。これこそ、ユーリア人が我らザクセン朝を裏切ったあとに一度も戦争に負けなかった最大の理由さ」
星は光と共に在り、光は闇と共に在る
闇は星と共に在りて、彼らは見えざる物語の揺り籠とならん
「光と闇、この世のすべての時間と空間を司る神のごとき存在を、おのれの意思で意のままに〈導く〉ことのできる唯一の力……星の権化たる紋章だ」
ちがう。星は、《ヘデラ・ヘリックス》は、お前のような奴のために使うものじゃない。全身の痛みに耐え、エレナは瞳でそれを訴えようとしたが、彼はまったく意に介さなかった。
「さて、そろそろ子犬が一匹」
アルファルドが言い終わらないうちに、一人の男が姿を現した。アルファルドが勝ち誇って叫んだ。
「エルクルド・エーフォイ!」
相変わらず、なんて間の悪い男なのだ。よりにもよって、自分が人質に取られ、仲間のほとんどが戦闘不能となり、最後の切り札である《ヘデラ・ヘリックス》さえ奪われてしまった。今さらヒーローぶってやってきても、犬死にするのがオチだ。
「やめて! 私のことはいい、だから……」
しかし、エレナは言葉をひっこめた。ひっこめざるを得なかった。エルは静かに微笑んでいた。ゆっくり頷くと、一歩、また一歩と近づいてくる。
「ほほう。よく平然としていられるな。お前を助けてくれる奴は残っていないぞ」
「それは、お前だって同じだ。こんな狭い場所で火薬と油樽を一緒に爆発させるなんざ、正気の沙汰じゃない。おかげで、敵味方の見境なくやっちまってるじゃないか」
アルファルドは躊躇いなくエレナの頬に猟銃を押し当てる。しかし、エルは動じることなく、落ちていた短刀を掴み、身体の前で構えた。
「いい加減、馬鹿な戦争は止めにしようぜ」
エルの華奢な身体が、宙を舞った。
(つづく)
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