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言葉くづし ―終
夕暮れ色に染まる坂道を、私と夏炉は並んで歩いていた。お互いに積もる話はたくさんあるはずなのに、伝えるべき言葉は喉の奥に支えたように出てこなかった。長く延びたふたつの影法師の上をカラスがすうと飛び去っていく。
「文化祭、晴れてよかったね」
「うん、けっこう盛り上がった。お母さんが書いてくれたメロディに歌詞をつけたり、楽しかったわ」
「あの歌、ほんとすごかったよ! ……いろいろあったけど、終わったんだね」
いったい私は何を言いたいのだろう。いろいろあった、なんてはぐらかして、いろいろどころじゃなかっただろう、とごまかした自分に腹が立ってくる。どうやら、その気持ちは夏炉も感じているようで、不自然な間が空いてしまう。夏炉はわざとらしく、あっちこっちの看板の名前とか、夕焼け空に白線を引いていく飛行機雲とか、リュックにぶら下げた推しキャラのキーホルダーとかを盛んに話したがった。
ふつうの会話が、いまではふつうに感じない。
なぜなら、私たちはもう「ふつう」ではいられない経験をしてきたのだから。
「ふつう」ではいられなくなる痛みと、哀しみと、笑いと、あたたかさを感じてきたのだから。
そして私は、私のなかにある「神さま」の正体を知ってしまったから。
吐き出すべきものは、吐き出すべきときに、言葉にして伝えなければいけない。それがきっと「大人になる」ことなんだと、私は信じてみたくなった。
「あのさ、夏炉」
私は夏炉の前に二、三歩躍り出て、止まった。
「文化祭に来る前、聡子さんに会ったよ」
夏炉の瞳に一筋の光が宿った。彼女の足もぴたと止まる。
「うん……。お母さんのメッセージが来てたから、知ってる」
「お家にお邪魔したことも?」
「うん」
草を薙ぐ西風が吹いて、昼の間にたまった暑気をさらっていく。夏炉の艶やかな黒髪がふわりと膨らみ、彼女の小さな顔を半分ほど覆い隠した。
私は、呼吸する暇さえ、惜しく感じられた。
「聡子さんに無理を言って、あの晩私が倒れた部屋に通してもらったの。そして、ちゃんと会ってきたんだよ。仏壇に飾られた遺影……夏炉の、お姉さんに」
それを聞いたときの彼女の顔を、私は生涯忘れないだろう。
ふうう、と長く息を吐いた彼女は、急にひと回りもふた回りも萎んで見えた。まるでこの十七年もの間、彼女が胸のなかに貯めこみ続けた煙を一気に吐き出したみたいに。
夏炉は口をひらいた。
「お姉ちゃんと私は、あなたと同じ、双子だった」
「うん」
「お姉ちゃんと私は、ほんとは一緒にこの世界を生きていくはずだった。でも、どういうわけか天の神さまが意地悪したせいで、お姉ちゃんだけが途中でお母さんのお腹から消えてしまった。だから、私は一人っ子として生まれてきたの。
お姉ちゃんとお腹のなかにいた記憶はないけれど、私は生まれながらに大切な人を失っている。そんな感覚が、ときどき私の身体を締めつけて、言葉にできない叫びになって全身を貫くの。……わかる?」
「うん」
「ほら、自己紹介するときってさ、兄弟姉妹がいますかって聞かれるとき、あるじゃない。私はいつも一人っ子ですって答えてきた。戸籍上は間違ってないのよ、もちろん。ちゃんと市役所の届にはそう書いてあるんだから。でもそのたびに私の胸は痛かった。ほんとはお姉ちゃんがいますよって言いたかった。一人ぼっちで生まれてきたんじゃないよって言いたかった。お姉ちゃんを差し置いて私だけが生きてるなんてこと……。この私が一番、嫌なことだから」
話しながら、夏炉の瞳からこぼれ落ちる幾筋もの光を、私は指の背でそっと受け止めた。とってもとっても哀しくて、そしてあったかい光だった。生まれて初めて見せてくれた、彼女だけが放つ光だった。
「あのね。夏炉に見せたいものがあるの」
私は鞄のふたを開けると、一冊の手帳を取り出した。お義母さんが家を不在にしている間に探しあてた、我が家にとって秘密の手帳だった。
「これは……母子手帳?」
「そうよ。私を生んでくれたひと……。私のお生母さんが、妊娠中に綴っていたものよ」
夏炉がはっと顔を上げる。
「踏み込んだこと訊くようだけど……。夏炉のお姉さんがお腹からいなくなってしまったのは、いつのこと?」
「11月10日」
「そうなんだね。じゃあ、ここを見て」
私は、母子手帳のあるページを指さした。そこは青のボールペンで、お生母さんが日々の出来事を事細かに記録してあった。そのなかのひとつに、次のような文があった。
11月17日
妊娠8週目。まさか私が双子を妊娠してるなんて知らなかった。あの人にはなんて伝えればいいのかしら。初めて妊娠がわかったときは、赤ちゃん一人のはずだったのに。病院の検査で見つからなかったなんてこと、あるのかしら……? それでも、私は双子の赤ちゃんを授かった。初めての出産でいきなり双子なのは不安だけれど、やっぱり嬉しい。早くこの子たちの顔を見てみたくて、待ち遠しいわ。
「お姉ちゃんの命日からちょうど1週間後、あなたたちは双子になったってこと……?」
身体を近づけた夏炉の心臓が早鐘を打っているのを私は傍で感じていた。私の心臓も同じくらいに早く大きく波打っている。
私の身体がふわりと宙に浮いて、私のものではないような感覚に陥る。
ああ、これで最期なのか。
秘密を明かしたりして、私のなかの神さまは、怒っていないだろうか。
世界の秘密を守り通すために、私はこのまま空の彼方へ消えてしまうのではないか。
そんなあてもない恐怖を押し留めてくれたのは、他でもない夏炉だった。
「そうか、やっと……」
夏炉は顔を擦りつけながら、激しく私を抱きしめた。
「やっと、やっと……会えたんだね」
理性なんかどこかへすっ飛んでしまって、溢れ出す熱い血潮の感覚に身を委ねながら、ただただ夏炉の言葉を受け止めた。
「信じてやるもんか。私は、私は信じないぞ。そんな非科学的で、ファンタジーみたいで、なんの根拠もないことなんて」
「うん、うん、そうだね」
「信じない。絶対に、信じないからね……」
蝉が遠くに響きわたる薄暮の闇に包まれて、夏炉はいつまでも私の腕のなかで震えていた。
あの夏が終わり、秋を迎えて。
そして、新しい春が来た。
使われなくなった狭い倉庫部屋のドアに、でかでかと「文芸部」と朱書きした看板を立てかける。なりだけは立派なんだけど、夏炉が水分たっぷりの赤い絵具で描いたもんだから、遠目からは血文字に見える。ふつうに怖い。
「この血文字で新入部員が来るんだろうか……」
私のボヤキを聞きつけるや夏炉がすっとんできた。
「なーに不景気なこと言ってんのよ! あなたはもう三年なんだから、今日の部活動紹介でメンバーを確保できなかったら文芸部は終わりなの。背水の陣の覚悟でやりなさい!」
そう言ってぶんぶん髪を振り乱す。すると彼女の右耳に、クジラの尻尾のイヤリングがきらり光っているのを見つけて私は驚いた。
「ちょっとタンマ! イヤリング、校則違反じゃない。顧問にばれたら一大事よ!」
「そういう冬扇だって、慣れない髪型してんなあと思ったら、左耳につけてるじゃない」
「うっ! それは、そのお……」
夏炉がパンパンと軽快に手をたたく。
「さあ、細かいことは気にしない! その髪型、崩さないでよ、可愛いんだから!」
夏炉は私の手をとって、新入生が待つ講堂へ駆け出した。彼女は手首に虹色のミサンガも巻いていた。これもれっきとした校則違反だ。
「このミサンガ、たしか……。なるほど、冬兄とのデート、うまくいったんだね」
夏炉は質問には答えずに、私の腕を痛くなるほど強く握りかえした。頬のあたりが赤く、馬鹿みたいに弛んでいる。こいつ、調子乗っておるなあ、しょうがない子だなあと内心おかしくなりながらも、ふたりで講堂を目指した。
部活動紹介のプレゼンで披露するものは決まっていた。それは他の部活動みたいに、みんなを惹きつけるような派手なパフォーマンスとか、立派な優勝トロフィーとかではないけれど。
私たちふたりで作った初めての詩集。
その名も『冬虫夏草』。
「お生母さん、聡子さん。私たち、頑張るよ」
刷り上がったばかりのインクの香り漂う詩集の表紙に、春の日差しが柔らかく降り注いでいた。
(完)