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言葉くづし 2―天神橋

当時、私には「おかあさん」が二人いた。

そして、お父さんはひとりきり。こう言っておけば、私の家族構成がどんな様子だったのか、お察し頂けるのではないかと思う。

小学六年生の秋、見知らぬ若い女性が我が家の敷居を跨いだときから、私は彼女のことを「おかあさん」と呼ぶようになった。お父さんからは、それが大人社会の、ごくごく当然なルールであるかのように申し渡された。逆らうことは許されなかった。

私はルールに従って、家に棲み着いた彼女を「お義母かあさん」と呼んだ。
「お義母かあさん」は、いつも優しく、丁寧なひとだった。学校の宿題も手伝ってくれたし、そつなく家事全般をこなせる良妻・良母だった。

優しく、丁寧な。
優しく、丁寧な。

優しく、てい、ねい、な、おかあ、さん。
やさし、く、てい、ね、いな。
おか、あ、さん。
てい、ね、い、な、おか、あ。

……はずなのに。

不可解だった。
彼女のことを「お義母かあさん」呼ぶたびに、その輪郭が幽霊のようにぼやけていく。
私のなかで、彼女を指し示す言葉がばらばらにくづれて、喉の奥に泥土を押しこまれたような苦しさを感じる。

どうして。
どうして、おかあ、さん。

お、かあ、さん。
おかあ、さん。

私が、その名を呼びたいひとは。
私が、会いたいと願っているひとは。

「お生母かあさんっっ!」

忘れもしない、高校二年の夏。
大雨の降る夜中、私は家を飛び出した。

たしか午後十一時を回っていたと思う。
眠っている「お義母かあさん」の目を盗んで、私は「お生母かあさん」を探しにいった。

夕刻から降り出した雨は激しさを増して、弱々しいビニール傘の膜面を気味わるく嘗め回していた。

昨晩も聞いてしまった、両親が寝室で交わるけだものそのものの嬌声が、耳元に蘇る。

うう、吐きそうだ。

強風でアルミニウムの傘骨が大きくゆがみ、私のからだ全体に風圧がのしかかる。腕のちからだけでは支えきれず、傘がお猪口のように反り返ってしまった。

――こうなってしまえば、傘なんて無意味だ。

いくら科学が進歩していても、いまだ人類は傘を手放すことが出来ていない。雨が降れば、当然のように傘を差す。

みんなそれを当たり前のことだと思ってる。

雨が降れば傘を差すことも、真夜中にひとり出歩いてはいけないことも、家に帰ればお母さんとお父さんがいることも、私という人間が「私」として生きていることも。

みんなそれを当たり前のことだと思ってる。 

当たり前なんて、くそくらえだ。
ぜんぶぜんぶ、この雨で洗い流してしまいたい。

雑木林にビニール傘を捨てると、あっという間に全身ずぶ濡れになった。ちょっとワルいことをしている気がして心地よかった。自然と渇いた笑いがこみ上げてきた。無防備に雨に打たれる自分が愉快で、狂おしい。私は、こんな馬鹿な遊びによろこびを覚えるのだと、自らの性癖をくすぐったく思った。

横殴りの雨に背中を押されるように、その足で天神橋へ向かった。

晴れた昼間なら美しい卯辰山の景観も、真夜中の、しかも豪雨に見舞われたいまは暗黒の絶壁に見えている。

水分をふくんだTシャツとスカートはぴったり肌に纏わりついた。ときおりやってくる強風が、私の体温を急速に奪っていく。すべての思考を停め、なんにも感じず、何にも煩わされず、ひたすら歩みを進めることに意識を集中させる。

願わくば、このまま悟りの境地に至れますように。

すべての煩悩から、解放されますように。

もし叶うのなら、このまま現実の世界から永遠に離れられますように。

そう念じて、ふっと瞳を開いたとき。

天神橋のまんなかに、ひとりの少女が立っていた。

まっくら闇のなか、こちらの視線とあちらの視線が、はっきりぶつかったのがわかった。

そして。

――彼女も、傘を差していない。

悠然と欄干にもたれた少女と、呆然と突っ立っている私。

――私たちは、雨に濡れたがっている。

初夏の、金澤の、ひとりぼっちの真夜中に見つけた、たったひとつの「奇跡であい」。

どうしようもなく、胸が騒いだ。

少女が怪訝そうに、こちらを凝視する。

なにか言わなければ。気まずい空気を払拭しなければ。それとも、いっそ無言でスルーして、見なかったことにしてしまおうか。

しかし、先に口をひらいたのは彼女だった。

「こんばんは」

この声は、なんだ。
無味乾燥な空気を、一瞬で虹色に染めあげてしまうような。
そんな、おそろしく透きとおった声。

私の心拍数は百を超えていたと思う。

「こんばんは、えっと、あの、私……。徳田冬花、といいます。……あ、その、別に、あの」

緊張のあまり、バカ丁寧に自己紹介している自分が恥ずかしくなった。ふつうの通行人になら、安易に名前を教えたりしないのに。

彼女は色白な顔をこちらに向けて、うっすら笑みを浮かべた。

「はじめまして。私は、たき白糸しらいとです」

そう言って、少女は両手で水芸の扇をひるがえしているポーズを取ってみせた。

その様子に、まったくの羞恥も躊躇も感じない。

瀧の白糸?
まさかこいつ、狂ってるのか……?

このときの私は、本気でそう思っていた。

(つづく)

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