言葉くづし 8―浅川橋
冬花は、どうしてここにいる。
思い出せない。どうしてここに来たのか、だれに連れてこられたのか。ぼやけた視界に、かたちにならなかった言葉がふわふわと漂っている。
熱気の籠もった体育館。頭にタオルを巻いて往来する大人たち。濡れた赤いランドセル。分針の重たそうな大時計。白い雷。黄色い帽子。そして、床一面に広がったブルーシート。
私は、小さな膝頭を抱きかかえて硬い床に座りこんでいる。午前十時。いつもなら先生の授業を受ける時間に、私は身を固くして俯いている。入口の鉄の扉がひらいて、大人たちが入ってきた。彼らの子どもたちも数珠つなぎにやってくる。
暑い。とにかく暑さばかりが気を重くする。
生徒みんなが押し黙って大人たちの指示を待つ。依然として激しい雨と雷が続いている。昨日ケンカした美咲が泣いている姿を見てしまって、思わず目を逸らした。
どうして、ここにいるの。
私のまわりを浮遊する言葉たちは何も教えてはくれない。答えを見つけようとして、それらに手を伸ばすと、たちまち砂粒のように崩れていく。
ゆめ、ゆめ、ゆめ。
停電だろうか、体育館のライトが一斉に落ちる。
暗闇のなか、私は手を伸ばす。
ゆめ、ゆめ、ゆめ。
私は苦しい? それとも悲しい?
ちがう。そんな単純な言葉を私は求めてなどいない。無垢に信じてきたものが、突然牙を剥いて私たちを裏切ったのだ。あたりまえの生活が、安定が、楽しさが、たった一晩で崩されたのだ。到底、許せるもんじゃない。
ゆめ、ゆめ、ゆめ!
感情がぐちゃぐちゃに熔けて、混ざりあって、吐き出せそうなのに吐き出せなくて。
こんな醜いものを、なんと表せばいいの?
だれか。だれか助けて。
この感情の名前を、だれか教えて。
「つらくなったら」
遠くの世界から聞こえた言葉に、私は耳をそばだてる。
「つらくなったら」
暗闇の奥から聞こえてくる、不思議な声。
その続きは。
「言葉をくづして」
そうだ。
あなたが、私に教えてくれた。
たったひとつの魔法の呪文。
「新しい世界は」
突如現れた手のひらは、まっすぐで、逞しくて。
つかんだときの温もりは、生涯忘れない。
「くづされた言葉の瓦礫のなかから生まれるの」
お生母さんっ!
強くあなたを抱きしめる。
ずっとずっと、こうしたかった。
あなたと離れてから、常に何かが欠けている気がしてならなかった。
綺麗な言葉が欲しかったんじゃない。私は、あなたと言葉を交わせる時間が好きだった。あなたに私の言葉を聞いて欲しかった。ただ、それだけ。
体育館の壁が消える。
恐怖や怒りが流されていく。
怖かった雨や雷は、夕焼けの空に吸い込まれて。
私のすべてを抱擁する大きな身体は、気づけば一回り小さなものに変わっていた。
見ればお下げ髪の少女が、泣き腫らしながらこちらを覗いている。
「私を正しく傷つけてくれて、ありがとう」
彼女が激しく頬をぶつ。
焼けたような痛みが走る。
痛いのに、なぜだか、あったかいかんじがした。
彼女にも、そうであってほしいと願ってしまう。
初めて出逢った夜。
大雨の降る初夏の天神橋。
瀧の白糸と名乗った、彼女の名前は。
……ろ。
……かろ。
かろ、かろ、かろ。
……っ!
「夏炉っ!」
私は自分自身の叫び声で目が覚めた。
心臓は物凄い速さで脈打っている。大量の寝汗をかいたせいで、背中がひんやりしている。
怖いような懐かしいような、不思議な夢。
いまは夢に見た小学生の頃の私じゃない。身長も髪の毛もずいぶんと伸びた十七歳の私だ。
緩やかに回転する天井のファン。ナイトテーブルにはイヤホンが刺さったままのスマートフォンと目覚まし時計。起床まで二時間あまり余裕がある。
「霧島……。霧島小夏、だったっけ」
二度寝する気にはどうしてもなれなかった。ボサボサの頭を手櫛でときながら身を起こし、本棚に収納した一冊の文庫本を手に取る。
ちくま文庫の『泉鏡花集成』第一巻。学校の帰り道に書店で見つけて衝動買いしたものだ。ハリのある本の帯と、真新しい紙の香り。ふせんを貼った箇所まで、すいすい泳ぐようにページを繰る。
「本名でも偽名でも、どっちでもいいや。私にとっては、夏炉のままだし」
堂々と書き込みができるのは購入した本ならではの特権だ。先の尖ったHB鉛筆を高く持ち、お気に入りのところに線を引いたり、丸を描いたり。
その作業をするうちに、夢で味わった恐怖がだんだんと和らいできた。
太線で強調した箇所に視線を落とす。
「夏炉冬扇のきらいあり、か……」
私と夏炉は性格こそ違えど、どこか似た者同士の感がある。友達や先生に対しては元気そうに振る舞っていても、漠然とした空虚がそこには常に停滞している。どこまでいっても私は周囲とずれていて、たまらなく不安になったり、気持ちが荒んだりしてしまう。
「お義母さんに話しても、気のせいだって言われるだけだし」
ペンケースに鉛筆を戻して、文庫本を本棚にしまう。トイレに行きたくなって、静かに私は部屋を出た。
トイレから出ると冬兄が前に立っていて、とても驚いた。
「ゆ、ユーレイ!?」
「冗談はよせ。それよりお前、眠れないのか?」
私は返答に困った。
「眠れないってわけじゃないけど……。もしかして私、思い詰めた顔してる?」
「してる。しかもその顔は、自分のことじゃなく誰かのことを心配するときのやつだ」
まったく、冬兄には敵わない。言葉になっていない感情を言葉にするのが、徳田冬仁という男の得技なのだ。
私は彼を部屋に連れていき、足を丸めて布団に座った。
「一年下で、霧島小夏という女の子なんだけど」
すると、冬兄の表情がさっと険しくなった。
「お前、霧島と面識あったのか?」
驚いたのはこちらのほう。
「うそ。冬兄も知ってたんだ」
「まあ、ちょっとだけ縁があってね」
意味深に微笑む彼を見て、私は運命的なものを感じた。きっと双子の私たちが共通のなにかを持っていて、不思議な力が私たち三人を結びつけている。
私は意を決して口をひらいた。
「あのさ、冬兄。ちょっと私の相談に乗ってくれないかしら?」
(つづく)
出典
・泉鏡花『義血侠血』
(泉鏡花著・種村季弘編『泉鏡花集成1』所収、筑摩書房、1996年)
・青空文庫 泉鏡花『義血侠血』
(https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/363_20915.html)
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