
十三.単純なこと
トントントン。
ホテルのドアのノックの音が聞こえて扉を開けると、アリーが朝食のサンドウィッチを持って来てくれていた。
「お腹が空いたでしょ?食べなさいよ」
「ありがとう!待ちくたびれてたよ。もうお腹ペコペコだよ」
寝ぐせも直さず部屋着のままで、ぼくはサンドウィッチを受け取った。
「待ちくたびれたって、何時に起きたのよ」とアリーは呆れたように尋ねてきた。
「1時間前くらいじゃないかな」
「だったら呼びに来て起してくれたらよかったのに!」
「それは悪いじゃん」
肩をすくめて奥の椅子に座ると、ぼくはサンドイッチを頬張った。アリーは小さいテーブルを挟んだ手前の椅子に座り、リックはさっきまでぼくが寝ていたシングルサイズのベッドに腰かける。
用事があってずいぶん先にフェアバンクスに来ていたリックとアリーが、昨日の夕方に到着したぼくを出迎えてくれたのだった。その晩、一緒に予約してくれていた同じホテルでチェックインを済ませると、アラスカでの最後の夕食に、フェアバンクスで一番おいしいというそのホテルのチーズバーガーをご馳走してくれた。もちろんフライドポテトのセットで、乾杯はコカ・コーラだった。
アリーとリックも一緒に朝食を済ませると、まず病院へ、次にアラスカ大学へ向かった。アリーは体調が優れず、定期的に病院に行く必要があった。ちなみに村には小さな診療所がひとつあるだけで、有事の際には救急車ならぬ救急ジェット機が村に降り立ち、フェアバンクスの大きな病院へと患者を乗せて運ぶんだ。アラスカ大学では、リックがゲストとして講義で話をする予定だった。そしてぼくは今晩、日本への帰国便に乗る。
リックにも予定というものがあったのか、などと考えながら車に乗り込む。大学に向かう道中、車窓を流れる風景は、慣れ親しんだ村のものとはかけ離れていた。大きな建物の数々、複数車線の大通り、フェンスで囲まれた公園で声をあげて笑いながら遊ぶ子どもたち。
大学では、ムースジャーキーとスモークサーモンを振る舞いながらの講義だった。
「ナイフ持ってるかい?」ビニール袋から細長いそれらを紙皿に載せながら、リックが聞いてきた。一口サイズに切り分けるのに必要だったのだ。
「もちろん!持ってるよ!」
ぼくは思わず笑顔で答えた。
ナイフ、ライター、そして皮グローブ。
この3点は、いつどこで何があるかわからない村の生活では必需品である。ヌラト村で過ごした2カ月間、どれかが無くて何度困ったことか。急に火を熾すことになるかもしれないし、何かを切ったりするかもしれないし、薪を割ったり丸太を運んだりするかもしれない。
講義でリックは、村での今の生活のこと、以前の暮らしのこと、それがどのように変わってきたのか、アルコールがどれだけの影響を及ぼしてきたのか、村のチーフとしてどんなことをしているのか、およそ一時間半にわたって話していた。
リックは最後に言っていた。
「私たちは読んで学んだんじゃない。聞いて、実際にやって学んできたんだ。言葉にしてしまえばそれはほんの数行かもしれないが、経験したことは言葉にはならない、何ものにも代え難いんだ。本当のことは、教室にも、大学にも、書物にもない。自ら経験して学ぶんだ」
まるでぼくに向けた餞別の言葉のようだった。
講義が終わると、大学近くの学生向けの飲食街でピザを食べたあと、古着屋に行き、今度は中古車販売のジープを見に行き、それからアーミーショップに行った。リックとアリーのショッピングだ。お邪魔なのはわかっているけど、それはこの2カ月間ずっと同じことだから今更しょうがない、と開き直って一緒に回った。もちろんどの店の商品も村にはないものばかりで面白かったけれど、結局何も買わずにホテルに戻って残りの時間を過ごした。
ほとんど歩く人も、走る車もない。すっかり暗くなった大通りを、白っぽい街頭が等間隔に照らし出している。信号が青に変わり、エンジンが唸る。リックがアクセルを踏んでスピードをあげる。日本へと出発する国際便に乗るために、真夜中にフェアバンクス空港まで送ってもらっている道中だった。もうあと数分で着くだろう。ぼくは何をどう伝えたらいいのかわからなかった。
黙っていても仕方がないので、ずっと気になっていたことを、最後にアリーに聞いてみた。そういえば、あのときなんでぼくを拾ってくれたのか、と。
アリーは助手席から後ろを振り向いて笑いながら大声で言った。「だって、あんな大きな荷物を背負って、空港から宿まで歩いてる人に、悪い人はいないでしょ!」
ぼくは思わず吹き出してしまった。
そんな単純なことだったのだ。
思い返せば、あのとき声を掛けられて車に乗り込んだぼくだって、負けないくらい単純だった。男性がひとりで運転する車は危ない、けれどもカップルの車だったら乗せてもらっても大丈夫だろう、と咄嗟に判断したのだった。
空港に着く。カウンターでチェックインを済ませると、ぼくらは握手をしてハグをして、それから記念写真を撮った。
「またね!元気でね!」
リックとアリーは後ろを向いては手を振りながら、自動ドアを通り抜けて車へと戻っていく。ぼくは来たときよりも大きくなったザックを背負って、出発ゲートへと向かった。
ぼくはすぐに気付いた。ああ、来てくれたんだ。嬉しさと申し訳なさと安堵が一気に押し寄せてくる。向こうはまだ気付いていない。果たして気付いてくれるだろうか。
いたずら心が芽生えてしまった。
ザックを肩から外して床に下すと、ぼくは君のほうを横目で見ながらスマートフォンの機内モードを解除した。ラインを開くと、君からのメッセージが一件来ている。
「着いたよ!どこにいるの!?」
思わず口元を緩ませながら、ぼくは返事を打つ。
「もう着いたよ!どこにいるでしょうか!?」
君はスマートフォンから目を離して周りを見渡すと、ぼくとは目が合わないまま反対方向へときょろきょろしながら歩いて行ってしまった。到着ゲートのあたりは、帰国した人や入国した人、その人たちを待つ人でごった返していた。気付かないかもしれない。後を追おうか。まあでも向こうに行ってもいないとわかったらまた戻ってくるだろう。そう思ってぼくはザックから文庫本を取り出してひらく。
10分ほど経っただろうか。横目でちらちらと周りを気にしながら本を読んでいると、戻ってきた君が目の端に飛び込んできた。こちらのほうを見ながらずかずかと歩いてくる。
「もう!わかるわけないじゃないの!こんなボロ服着て!」
真横まで来た、懐かしい君の声がする、と思った瞬間、被っていたキャップのつばを思いっ切り引きずり下ろされて、文字を追っていた僕の目の前は真っ暗になった。その勢いが懐かしくて、「ボロ服かあ」と苦笑いしながらぼくはキャップを被りなおした。
たしかに言われてみればボロ服だった。二か月前、出発するときに来ていたその淡いグレーのシャツは、ボタンがひとつ取れかけ、襟は擦り切れた上からぼくが適当に縫い合わせた白い糸がほつれている。その下に着ていた、まだ東京では季節外れの黒いタートルネックの首元はこれ以上ないというほど伸び切ってよれている。言われて初めて周囲を歩く人たちと自分を見比べて、ぼくは今すぐ新品のシャツを買って着替えたい気分になった。しかもその日は予想以上にむし暑くて、到着してすぐにシャツのボタンをすべて外していた。よれたタートルネックに擦り切れたシャツを羽織っているという格好が「余計にボロい」と言われてしまった。
だけどアラスカではこの格好でまったく浮いていなかったんだよ。それどころかやっと服まで村の人たちに馴染み始めていたところだった。
ジョージも言っていた。
「水に濡れたときは、乾いたのに替えなさい。みすぼらしくなるんじゃない」
そう、みすぼらしいということは、よれてるとか擦り切れてるとかボタンがひとつ取れてるとか、そういうことじゃないんだ。服が水に濡れているってことなんだ。体が冷えるってことなんだ。命が脅かされるってことなんだ。喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「でもさあ、こんなでっかい青いザック持ってる人なんてほかにいないんだからさ、さすがにわかるでしょ」とぼくが笑いながら言うと、「だからもしかしたらそうかな?って最初に一瞬思ったんだけど、肌黒いし、髭ぼうぼうだし、ちょっと太ってるし、全然私の知ってる人じゃない!って思ったの!」と少ししかめた顔で怒鳴られた。
「そうかあ」
ぼくはキャップの上からぽりぽりと頭を掻くと、ザックを背負った。そして言った。
「とりあえず、行こうか」
「うん」
ぼくがそっと差し出した手を、君は握ってくれた。
再会のやり取りが落ち着いてしまうと、あの電話のときと同じようなぎこちない空気が、手をつないだぼくらをまわりに立ち込めた。バス停に向かうまでの道中も、バス停に着いてからも、何をどう話したらいいのかわからない。沈黙と、微妙な距離がぼくらのあいだに横たわる。
「別の人と一緒にいるみたい」と君は笑った。
「ほんとだね。なんか変な感じだね」とぼくも笑った。
また少しずつ。少しずつ、言葉を交わして、ともに時間を過ごして、この距離を埋め直していけばいい。
大事なこと。
もう二度と、手を離さないこと。
心に込めて、ぼくは繋いだ手を握り直した。