分人主義と個人主義について考えていること。
人が世のなかに適応して生きていくために外的な環境に対して適切な態度を取っていこうとする(或いは取らなければならないと感知する)習性はあるので、その視点から考えた場合、環境や状況が変わることによって、顕在化されるそれぞれの自分を「分人」と呼び、全ての分人が「本当の自分である」と考えることは無理してない自己が内在されている状態ではあることから分人からすれば、至って自然な状態ではあるのかなとは考えられる。
ただ、外的な環境は常に自らにそのような態度を取るように要求しているとも容易に捉えられるわけではあり(要は父親であれば父親らしく、教師は教師らしく、女性は女性らしくetc)ある種、他者や周囲からの外的な環境、世間から期待される行動に合わせて生きてゆかなければならないという意識になる方が実際には多く見受けられるパターンではあるとは考えられる。
そして、これを怠る際は周囲から不適応のレッテルを貼られてしまうことの恐れから自らペルソナ(仮面)を被っている、不自然である状態の自分自身なのではないかと錯覚されているような傾向はあるのではないかと考える。
その錯覚から意識が飛躍して生きづらさに繋がる傾向が当人にあるのであれば分人主義の考え方を知ることで、楽にはなるだろうとは思える。
それでも例えば社会人として働けなかったりすれば、その異端さを攻撃されかねない。
これらの外的な要素から分かりやすく見え
周囲から理解しやすい外界に対する適応の問題に対して焦点を向け続けていれば、疲弊し
自己の内界(内面)に対しての適応の問題も無視できなくなると考えられる。
内界に焦点を当てることは事実、神経症の一予防にもなる為。
そこから自分という固有の存在(自分自身が自然だと感じられる本来の状態とは?)に焦点を向け始めたことが個人主義的な考え方が打ち出された発端にもなっているように考える。
また、実際に兄弟間や友人間などで、
同様の経験をさせたとしても、物の捉え方やそこから何を得て学ぶかは統一されない事実も存在する。そこから自分という固有の存在に焦点が向けられ、個人主義的な考えが打ち出された背景もあるのではないかとも考えられる。
そこから例えば自己理解を深める為の一ツールを仮に活用したとして、活用する目的が自己の強みを知りそこから可能性を拡げることが目的としてある場合に、自分自身の長所や強みを知り得、それ以降の経験に活きれば当人にとっては当然、有意義ではあり、それは個人主義的な考えは基盤としてはあったということが結果的にはインプットされ、分人主義の考えとは異なる習性もある側面も強いのではないかとは考えられる。
なので、分人主義、個人主義どちらが自然なのかといった考えをすること自体は不毛かなと思う。