東大モラル研究会主宰、大いに語る(弐)「学生パラサイト運動、その展望」
昨年秋より東大駒場にて時にひっそりと、時に堂々と活動している東大モラル研究会。当初から掲げていた「反自粛」路線をストップした彼らだが、つい最近「学生パラサイト運動」なる新しい路線を打ち出したという。詳しい話を主宰に聞いてみた。
※モラル研の成り立ちについて知りたい方はこちら
「東大モラル研究会」主宰、大いに語る|東大モラル研究会 (note.com)
挨拶
―お久しぶりです。路線変更の噂を聞きつけ、やってきました。とりあえずは、コロナ禍における反自粛(感染対策撤廃)運動というのは、終わりということでよいですか?
主宰:そうですね。コロナ禍のパニックが起きた理由を分析して文章にすることは必要だしそのための勉強はやるつもりですが、分かりやすいアクションを起こすことはないと思います。反自粛運動と称してやってきたことについては、今になって思うとイタズラみたいなものでしたが、それなりに満足しています。
―外山恒一賞にノミネートされていましたね。
https://note.com/toyamakoichi/n/n023797737d30
主宰:あれは驚きでしたね。発表される数日前に外山氏に会う機会があり、そこで「イタズラ」の内容をアレコレと語ったのが功を奏したのかもしれません。滑り込みですね。
ワガママをワガママとして貫徹させよ
―さて、最近は新しい路線を考えていると聞きました。「学生パラサイト運動」とかいう…
主宰:えぇ。パラサイトというのは「寄生」ということですが、何に寄生するかと言えば大学です。つまり大学に関して「もっとスネを齧らせろ」と文句を言い続ける、そして実際にスネを齧る。それがパラサイト運動です。もっと多くのカネを、もっと多くの時間を、もっと多くの場所を、大学から提供してもらうための運動です。
―ひどくワガママな印象を受けます。
主宰:そうです。これは無責任なワガママを推進力として展開される運動です。ワガママがワガママとして貫かれてそのワガママが達成されるとき、この運動は成功したと言えます。責任について考え出すとキリがないし運動は停滞します。とりあえずはワガママを言うこと、そしてそれを通すための過剰な知性と情熱を持とうとすること。これが大切なのです。
―なるほど。それでは、その「ワガママ」の具体的な内容というのは…
主宰:大学の24時間開放です。
―24時間。いまは違うのですか?
主宰:東大の駒場キャンパスは22時で閉まるということになっているので、個人的な事情がない限りは無理ですよ。そこを過ぎれば、門から入ろうとすると足止めされるし、構内にいると帰宅させられる。この前知人と23時くらいまで話していると、警備員がやってきて言うんです、「何やってるの?」と。敢えてふざけて「マズいことあるんですか?」と訊いてみると、警備員はなんと答えるか?「あそこに監視カメラがあるでしょう、君たちが帰ってくれないと私が仕事してないことになるんだよ、だから帰って、ね」とこう来るんです。笑っちゃうんですが、何がマズいかなんて向こうはよく分かってないんですよ。ルールだから注意しに来たというだけの話で。
モーレツのための余裕
―具体的に、24時間開放にするとどのようなメリットがあるのでしょうか?話すだけなら大学の外に行けばいいではないですか。
主宰:その提案はいかにも正しいのですが、その通りに場所を移すと、カネと時間がムダになるという現実があります。仮に飲食店に移動するとしましょう。よく言われているように、喫茶店や居酒屋で払うカネの一部は「場所代」なわけで、場所を移すことはまずそれだけでカネをムダにします。そこで食べたものが美味しくたって関係ありません。そして、そこに移動するまでの時間もムダですね。で、いまは「話すだけ」という状況を設定しているから私がケチに見えているわけで、これを別の行為に置き換えればもう少し状況は分かりやすくなる。
―たとえば?
主宰:たとえばテニスです。深夜の駒場のテニスコートというのは、誰も使っていません。あれを使えるようにすると、わざわざ他所のコートに行くための交通費やコートの使用料が浮く。テニサーにおけるテニスと同様に、軽音サークルにおける楽器練習という行為も、24時間開放にすることで状況が好転してくる。あとは、「勉強」という行為についても言えるでしょう。家にいたら怠けるのは学生のサガでして、だからみんな大学の図書館を利用したがるわけですが、あろうことか東大というのは、そこを22時で閉める。国際教養大学は図書館の24時間開放を実現しているというのに…情けない話です。そうすると他のファミレスとか有料自習室とかを使うということになり、余計なカネが吸い取られていく。
―うーん…言いたいことはよく分かりますが、何も「24時間開放」にこだわる必要はないのでは?図書館だって、22時に閉まりますが朝の9時には開いているわけでしょう。規則正しい生活をしていればそれを不満に思うこともないですよね?
主宰:反論としては二つあります。一つ目は、一般的な大学生は規則正しい生活なんて「できない」ということです。規則正しい生活というものが、つまり朝の7時に起きて9時から17時まで働き、24時に就寝するという一般的な社会人的なものであると仮定すると…。それはやっぱり無理です。まず講義が始まる/終わる時間が毎日バラバラだし、サークル活動や部活もある。飲み会もあればアルバイトもある。突然のハプニング的な用事も出てくる。日本の大学生は「大学は遊べるもんだ」と思っているから、簡単に遊ぶ。そうなると、昼夜逆転というのはびっくりするほど簡単に起こる。出なくたって構わない講義をサボるようになるとなおさらですよね。
―なるほど…。つまり大学が「ユルい」ために、大学生は仕方なしに不規則な生活のスパイラルに入ってゆくと。
主宰:そうです。大学生がダラダラしちゃうのは、大学が悪い(笑)。もっと締めつけてくれれば、こんなことで悩まなくていい。それはそれで問題ですけどね。で、実際に昼夜逆転を起こしたとき、その受け皿がないというのが問題なんですよ。昼夜逆転して、21時くらいに起床して、「さぁ何やるかな」と思ったときに、大学にふらっと立ち寄ってテニスなり勉強なり宴会なりできるような、そういう環境が仮にあれば、我々はもっとこう、満足した何かが得られるはずです。あと、別に昼夜逆転を起こしていなくたって、24時間開放には旨味は当然ある。これが二つ目の反論です。
―お、二つ目の反論ですか。どのようなケースですか?
主宰:これは一般的に、学生がアルバイトをしているケースです。日本は学生にバカみたいに高い学費を払わせるので、多くの学生はアルバイトをせざるをえませんね。東大だと塾講師が人気で、じゃあいつ働くかというと、夕方から夜にかけてというケースがほとんど。だいたい18時くらいから21時くらいまで。そうすると、彼らは講義だけでなくサークル活動を捨てることになる。
―そうですね。
主宰:なぜなら一般的なサークルは「19:00-21:00」みたいな活動時間帯をとることが多いからです。しかし仮に大学の24時間開放が実現し、そのサークルが「19:00-21:00」の部と「21:00-23:00」の部と「23:00-25:00」の部の三つの活動時間帯をとるとしたら…これは、塾でバイトをする子もサークルを捨てなくていい。「夜間学校」的発想です。それぞれの部でコミュニティが作られ、サークルとしても規模を大きくできる。
―なるほど。
主宰:サークルの過疎化というのが深刻な問題、というかある種の謎と見なされているそうですが、大学というものがそもそもの活動時間を少なくさせるようなシステムになっちゃったから当たり前なんですよ。つまり時間的あるいは経済的制約によって「モーレツに頑張る」ことができないので、「それなら入らなくてええわ」という心理に必然的に追い込まれるということです。これは学業にも言える。たとえばバイトが21時に終わった。明日の講義は10時からだから、深夜の3時くらいまでは起きていられる…こんなケースを想像するとき、図書館が24時間空いてさえいれば、これも「モーレツに頑張る」ことを目指して、意気揚々と図書館に向かうはずなんです。しかし現実は22時閉館なので、やる気が盛り上がるまでもなく、冴えない顔をして家に帰っちゃう。で、ファミレスに行こうか悩んでいるうちに、Youtube見てゴロゴロして風呂入って朝を迎える。これはやっぱり虚しい。
―いったん整理しましょう。いまのところ、24時間開放のメリットは2つですね?
主宰:そうですね。まず第一に、時間的あるいは経済的余裕が生まれるということ。第二に、時間的あるいは経済的余裕が生まれることによって「モーレツに頑張りたい」というエネルギーが奪われずに済むということです。
熱情はどこから来てどこへ行くか
―そうですね。しかし、あなたを突き動かす動機というのがイマイチよく分かりません。
主宰:これは端的に言えば上の世代と我々とを見比べて感じる不公平感ですよ。いまの大学生の多くは2000年前後生まれのZ世代ということになっています。この名称は恥ずかしいから(笑)現代における青年世代と呼び直しましょう。青年世代の特徴はいくつかあるにしても、ネガティヴなものは少なくとも二つあります。一つ目は、生まれたときから「少子高齢化社会」と言われ続け、団塊どころか中年世代に対しても「人口の力には敵わん」という一種のうっすらとした諦めを抱いていること。二つ目は、2020年初頭以来、モラトリアムとしての学生時代のうち3年以上もCOVIDの感染対策という抑圧の下で過ごすハメになり、一瞬であれ長きにわたってであれ、鬱屈したものを抱えざるをえなくなったこと。
―なるほど。それぞれについて詳しく伺いたいのですが。まずは一つ目。
主宰:これに関しては、平均年齢がかなりショッキングでして。1960年は平均年齢が29歳。1980年だと34。いまはなんと48歳です。高齢者が多すぎて、上へ上へとどんどんカネが吸い取られているというのは、子供の頃から知っていることです。「失われた××年」という言葉も耳にタコができるほど聞いた。「政治も文化もなにもかも年寄りに合わせていくんだろうねこの国は…」というニヒルな心理は、やっぱりある。それを紛らわすためには自分が「凄いヤツ」になって金持ちになればいいのかもしれないですが、それも難しい話で…
―というのは?
主宰:結局、凄いヤツというのは、同世代の多数に比べて凄いということでしょう。となれば、たとえば受験競争、たとえば就活、そういったところで「勝った」つもりになったって、世代間格差は解消できません。自分の生活がちょいと豊かになるだけです。構造を見てああだこうだと言っちゃう私のような性格だと、やっぱりそれだけだとなんとも微妙な気持ちになるだろうと思うのです。つまり足りない。
―構造を変える?
主宰:そうですね。青年世代丸ごとが得をするような、そんな構造に改造したいと。いや、厳密に言うと「【私】が、青年世代の一人として位置づけられた【私】として得をする」と言った方がよい。勝手に丸ごととか言い出すと面倒な話になる。出発点はやはり個人的な上への羨みですから。
―では二つ目については?
主宰:これは説明するまでもないのではないですかね。「志村ショック」があったとはいえ、若者あるいは中年世代にとってCOVIDが大したことないというのは、2020年の夏には分かっていたことです。ところが、あろうことか我々はついこの間まで感染対策をやらされていた。これは悲劇なんですよ。分かりやすいところで言えばイベントの中止や黙食、じわじわとダメージが効いてくるところで言えばマスク着用によって阻害されたコミュニケーション。21年の夏にオリンピックがあり、その頃にはワクチンブームもあり、遅くともあそこで終わらせればいいものを、ダラダラと続けてきた。若い自殺者が増加したようですが、当然の帰結だと思いますよ。で、ノンデリカシーな大人は「辛いのはみんな一緒、だから頑張って感染対策を続けよう」とか言っていたわけですが、青年世代にとっての3年間と、中年あるいは高齢者にとっての3年間の重みはまったく違うんだということも彼らは分かっていなかった。アホな大人に振り回された3年間がありました。なぜ続いたかと言えば、これはやっぱり人口パワーで年寄りに勝てなかったからです。
―つまり一つ目の事項と二つ目の事項は絡み合っていると?
主宰:そうですね。まず前提として人口が少ない。だからコロナ禍みたいな非常事態において、勝てない。意見を通せない。そうするとますます萎えてくる。悪循環ですよ。なぜ団塊世代を中心とする全共闘運動があそこまで盛り上がったかと言えば、まず第一に人口がとんでもなく多かったからですよ。そして、人口が少ないならば、個人個人がいま以上に逞しくならないと年上世代を超えられない。
―それはそうですね。量で勝てないならば、質を高めていかないと。
主宰:これは当たり前の話ですよね。そのために必要なのがエネルギーとセンスなんですが、両方を身に着けるためには「モーレツな努力」が必要になってくる。
―ああっ。
主宰:ここでさっきの話と接続してくる。年上世代を超えるためにはモーレツな努力が要るのですが、それを経済的に時間的に邪魔するのが、現代の大学あるいは日本全国に瀰漫している「過保護」な空気です。過保護は管理を生み、管理は制限を生み、時に成長を阻害する。これを打ち破らないことには、何も変わりません。だからその取っ掛かりとして、24時間開放を訴えるわけです。コロナ禍で得てしまった不完全燃焼感を解消することもできるだろうし、気分的にもいいでしょう。
―なるほど。実際に開放された場合、なにかやってみたいこと等はありますか?催し物をやるとか…
主宰:それについては、ないわけではない。しかし、敢えて「ない」と言うことが重要です。なぜなら、この運動は、運動のための運動でもあり、なるべく多くの学生が参加することにも意味があると感じるからです。つまり、各々が大学が開放された場合の未来を思い描きながらやるのが面白いのであって、その未来の図をひとつに定めるようなことはなるべく避けたいのです。各々が24時間開放という目的のみを一致させて一時的に「団結」するだけで、その目的が果たされたら各自がバラバラになってそれぞれの活動に入っていけばいい。そう思います。そもそもモラル研というのは自治寮とか最近で言うところの「だめライフ」みたいな―中大の「だめライフ」の方と話してそこは確認したのですが―交流を重視する組織、というわけではありません。自分のやりたいことがまずあって、それを実現するために仲良くなった人たち=団結することになった人たちとは交流することになりますが、あくまでそれは「自然と」行われる交流であり、交流のための交流ではない。団結と交流の関係を逆転させるつもりはありません。
運動のための運動
―さきほど、運動のための運動というフレーズが出ましたが。
主宰:コロナ禍で痛感したことは、これは2020-21年における私もその中の一人だったわけですが、「運動のやり方を知らない」者が多いということです。たとえば、反自粛という一つのテーマ、若者なら多くの人が内心で共有していたと思いますが、それをアクションとして外部に働きかける、そしてなにか自分の思い通りの環境に改造するという、そのやり方をよく知らないんです。だから粛々と感染対策を続け、3年経ったあとで平気で「青春が奪われた」なんて言っちゃう。奪われたと言うけれども、なにか運動を起こせば変わる可能性だってあったのです。しかしそれをやらなかった、やるにしてもネット上で呟いておしまいになっちゃう。私も偉そうなことを言えるほど成果を挙げたわけではありませんが…。
―なるほど。これを通して運動というものを知ってもらう?
主宰:えぇ。これをきっかけに学生が色んなテーマで運動をするようになると面白いと思いますね。学食が高いとか、コンセントが少ないとか、クーラーが設置されてないとか、そんな日常的なレベルからでも楽しい。結局、運動が起きないことには我々の世代はずっと負けっぱなしです。そもそも、大学というのはコロナにかこつけて平気で学生間あるいは学生と教員のコミュニケーション機会を奪うような恐ろしい組織です。そこに反発するというのは、世代間格差云々関係なしに、自然なことではないでしょうか。
軟派なフリしてパラサイト
―ところで、どうして「パラサイト」という言葉を選んだのですか?
主宰:もともとは「スクウォット」という言葉を選んでいました。スクウォットというのは、アナキズムの流れを汲んでイタリアを中心に流行っていた「アウトノミア」運動の一種で、狭く言えば空き家の不法占拠なんですが(詳しくは金江『生と芸術の実験室スクウォット』参照)、どうも「芸術」の色合いが強い。つまり土地を占拠して空間を作って、そこでアートをやろうやという…。しかし私はそこまで考えていない。つまり大学に24時間居座って何をするかなんてことをぼんやりとでも決めたくはない。だから、やめようと思った。で、うーんうーんと考えていたときに、「東大スネ齧り計画」というのを思いついて、そこからちょっとズラして「パラサイト」としました。そもそも我々は大学にカネを払い過ぎてますので、多少「パラサイト」したってよかろうと。
―ちょっと情けないニュアンスが入ってますね。
主宰:そうですね。この運動は、割とソフトに、しかし強かにやっていく必要があります。「我々の自由を侵害する当局を徹底追及せよ!」というノリでやるべき種類の運動ではないと思います。「警備員さん、私、明日の一限に遅刻したらマズいんです…頼むから野宿させてください…ほんとうに頼みます…寝坊なんかしたら、私…」とこのように、軟派な(追記:一応言っておくと、この場合の「軟派な」というのは、「硬派な」に対置される形容詞に過ぎない。先述の「ソフトに」を言い換えただけであり、要はあからさまな対立を避けながらじわりじわりと運動を進めようということである)フリをして頑張ることで道は拓けてくるでしょう。
―それでは、ここまでの話をまとめてもらってよいですか?
主宰:はい、まとめてしまうと、我々がやりたいパラサイト運動というのは、
①諸要因(コロナ禍、「失われた30年」言説など)を通して経済的あるいは精神的に感ぜられる世代間格差を解消するために考案された、
②大学からカネ、空間、時間を実質的に提供させて「モーレツに生きる」環境を作り出そうとする、ワガママで無責任な「スネ齧り」的運動であり、
③その性質上一時的な団結を要求するが、その団結は「24時間開放」という目的のみを共有する
ということですかね。
―ありがとうございます。では、これにて。
主宰:ありがとうございました。
※参考文献
・栗原康『学生に賃金を』
https://www.amazon.co.jp/学生に賃金を-栗原-康/dp/4794809956
・外山恒一『全共闘以後』
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4781617468/ref=tmm_hrd_swatch_0?ie=UTF8&qid=1685964328&sr=8-2
・金江『生と芸術の実験室スクウォット』
http://impact-shuppankai.com/products/detail/204