【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第1話
1 爬虫類女子
紆余曲折があった。
この春に自主退職して会社を去った元同僚である余公三久さんのお宅にお邪魔するに至った経緯は、ひどく複雑怪奇を極めるものであるため、その詳細に関する記述はこの程度にとどめておくことにする。
余公三久さんは、「ムヨクさん」と呼ばれていた。「公」の字を片仮名の「ハム」とし、「久」の字の最後の一画を「三」の字の右端に立てると、「余ハムヨク」と読むことができるからである。
その愛称にふさわしく、ムヨクさんは筆舌に尽くし難いほどに無欲な方であった。
煙のように捉えどころがなく、不思議な魔法使いのような。端的に言えば、ムヨクさんは誰よりも仕事をせず、それでいて同時に、誰よりも仕事ができるのである。そしてまた、誰よりも昇進を望まず、誰よりも遅く出社し、誰よりも早く帰宅するのだ。
ムヨクさんと私たちでは、仕事効率が比にならない。私は彼女が仕事に取り掛かっている姿を、この眼で見たことがない。それなのに、私が一の結果を生み出している間に、彼女は十の結果をもたらすのだ。歳は私よりもふたつほど上だが、同じぐらいの時間を生きている人だとはとても思えない。
そんなムヨクさんは、同僚からは天才だと散々もてはやされていたが、直属の先輩上司や幹部からの印象は最悪だった。仕事の出来だけに関しては結構なことだが、それ以外に必要とされる何もかもが彼女には欠けている。とりわけ、組織人としての礼節が微塵も足りていないことが、彼らは気に食わないのである。上司である自分よりも遅く来て、上司である自分よりも早く去る。どれだけ膨大な量の仕事を理不尽に割り振っても、定刻になれば即座に帰宅する。その冷然とした態度たるや、到底、評価に値するものではなかった。
自分より仕事量の少ない人間が、残業代で多く稼いでいるという現象が理解できない。
結局、そういったもっともな理由を言い放ち、交渉の余地もなく、ムヨクさんは会社を辞めていった。社会における出世などというものに露ほども興味関心のない方であったので、無理もない必然だったように思える。ムヨクさんが組織に不向きな質だった、もしくは、この会社に異次元に優れた人財を留めておけるほどの余裕はなかったということだ。
先にも記したとおり、様々な紆余曲折を経て、私は町外れにある小さな一軒家を訪れることになった。
インターホンを押すと、向こう側からムヨクさんの声がした。
「今、開けるわ」
カチリ、と鍵の解かれる音が鳴った。扉に錠前が見当たらないと思ったのだが、どうやら、電子ロックを採用しているらしい。
「お邪魔します」
扉を引いて、私は一言断ってから中へと脚を踏み入れた。
その瞬間、微かに、生き物のにおいが鼻を掠めた。人間よりも遥かに動物的で、犬とも猫とも異なる、より野性的な、嗅いだことのない類のにおいだった。
静まり返った廊下。私という客人を呼んだにもかかわらず、ムヨクさんは出迎えにも来ない。三和土の脇には、カメの置物がひっそりと鎮座している。綺麗な琥珀色の幾何学紋様が甲羅に刻まれた、それはそれは大きなリクガメだった。
蹴爪の一つひとつまで精巧に掘られたリクガメ作品を横目に、私は廊下を渡った。他所様のお宅は馴染みのないにおいがするものだし、恐らくそれは私の家も同然であろう。気に留めるほどのことでもない、と思って居間への扉を開けた途端、その動物のにおいは一層強くなった。
少しばかりの恐怖心が芽生え、私は音を立てぬようにそっと居間へ入ったが、そこにムヨクさんの姿はなかった。
裏庭に面した窓が開け放たれており、外から水の弾ける音がする。見ると、すりガラス越しにムヨクさんの影があった。
「あ、あの……」
ムヨクさんを呼びかけて、私は言葉を失った。そこで、ようやく気付いたのだ。ずっと、何かに、何かたちに、見られているということに。
感じた視線のほうへ眼を遣り、私はひとつ息を呑んだ。
蛇、蛇、蛇……トカゲ、トカゲ……カメレオン……。見慣れない来客を見つめる好奇の、あるいは警戒の眼差し。壁際にずらりと並んだ巨大なケージは、一つひとつ丁寧にレイアウトが施されていた。
まさに、蛇に睨まれた蛙のごとく、私は足が竦んで動けなかった。いや、ごとく、ではなく、本当に私は、蛇に睨まれたカエルであった。
「いらっしゃい、ガマ子ちゃん。ごめんねー、無理言っちゃって」
ガマ子ちゃん。ムヨクさんに付けられた、私の愛称である。
新入社員の頃、彼女に初めて会った際、「私、羽賀真子と申します」と挨拶をしたら、「私、羽賀真子……、わたくし、はがまこ……、わたくしは、ガマ子……、うん、よろしくね、ガマ子ちゃん」と返され、以来、私はガマ子ちゃんなのである。最初は慣れない呼び名でむず痒かったが、三年目の今では、すっかり部署内に定着してしまっているのであった。
サンダルを脱いで、居間へ入ってきたムヨクさん。その手には、虫かごのような小さなガラスケースが握られている。
「いえいえ、とんでもないで……あれ?」
スッと視線がムヨクさんの足許に吸い寄せられる。
ムヨクさんの後を追いかけるように、小さなリクガメがトテトテと縁側から入ってきたのだ。艶やかな幾何学紋様が甲羅に刻まれた、それはそれは小さなリクガメだった。
……ん? と思った矢先、ゴトン、という物音がした。
私は咄嗟に背後を振り返った。すると、玄関口のほうから、ノソリ、ノソリと、あの置物と思しきリクガメが廊下を歩いてくるではないか。
……お前、生きてたのか。
「どうかした?」
「い、いえ……、なんでも、ないです」
私はにっこりと頬を引き上げた。
ムヨクさんは、爬虫類女子であった。