【ボツ】蝸牛回廊
角巻螺縷子の通う夜間定時制高校には、一人、風変わりなクラスメイトがいる。
名を遠影灯花という。
恐らく、いや十中八九、というか絶対、偽名である。担任の早川先生から彼女はエリーと呼ばれている。
角巻が遠影さんの存在を始めて認識したのは、五月の上旬、四コマの時間割を通して健康診断と体力測定が執り行われる日のことだった。入学してはや一ヶ月、しかし、すでにちらほらと退学者や不登校が出始め、連休が明けるころになると、二十人いたはずの学級は五人減って十五人になっていた。
一ヶ月で五人が来なくなる学級。こんな調子で学校機関が運営できるのか。夜間定時制という、全日制とは異なり少々”訳アリ”な子たちが集まる場所柄、そんなに驚くことでもないのか。あと半年も経てば、このクラスには自分も含め誰もいなくなってしまうのではないか。そんな不安を他人事のように抱える午後五時、運動着なんて持ってなさそうな派手髪の不良たちと距離を保ちつつ、角巻はそそくさと正門を潜った。
校庭にはすでに五十メートル走とハンドボール投げの白線が引かれていた。
昼間に全日制の子たちが使った名残だろう。早川先生と副担任も兼任する教頭先生が石灰粉の入ったライン引きを持ち、砂塵に吹かれて乱れた箇所を奇麗に引き直している。
クラスメイトが二人一組になって計測役と試技者に分かれるのではなく、先生が一人ずつ記録をとっていってくれますように。そんなことを願いながら、角巻は校庭を傍目に校舎へ入ろうとした。
すると、不意に腰に手を当てて背筋を反らせた早川先生と目が合った。
時が止まったかのような分厚い一秒が、角巻の足腰に重く纏わりついた。その隙を突くようにして、早川先生が両手を上げて振ってきた。
「おーい、角巻ぃ、ちょっといいかぁ?」
会釈をして通り過ぎることは叶わず、さっそく呼び止められる。角巻は左手に提げていた通学用バッグを右肩に掛け、早川先生のほうへ視線を飛ばした。昇降口まではあと五歩もない。聞こえなかったふりをして、さっさと校舎の陰へ隠れてしまえばいいものを、そこで振り向いて素直に応じてしまうのが角巻の良いところであり、のちに悪く作用して迷惑を被る羽目になるところでもある。
「なんですか」
溜息を押し殺し、角巻が校庭に身体を向けて訊ねると、早川先生は足下に落ちていた円い金網の篩を拾い上げてふらふらと掲げた。
「小石拾いしてくれないか?」
クラウチングスタートをする際に、膝に砂利が刺さると痛い。
そのことを小石拾いをやらなければならない理由のひとつとして挙げられたとき、角巻は呆れるあまり声も出せなかった。
なんだ、それは。片膝をついてスタートを待つ合間なんて、そんなもの一瞬ではないか。痛いならそのときに刺さった小石を退ければいいだけのことだし、なんなら長ズボンのジャージでも穿けばいい。事前に篩まで用意して小石拾いをするほどのことをしなくとも、対処のしようはいくらでもあるだろう。
「慈善事業だと思って、請け負ってくれよ」
沈黙の意図を見透かしたように、早川先生はやんわりと微笑んで言う。
「いや、うーん・・・・・・、まあ、いいですけど」
「ありがとう。掬った小石は、そうだな、あっちの部室棟のほうにでも捨てといてくれ」
「わかりました」
「ん、よろしく頼むな」
早川先生から押し付けられた必要のなさそうな謎の作業に、角巻は暇潰しがてら取り掛かった。始業のチャイムが鳴るまでヤンキーたちが戯れる教室に入らなくてよいというのは、少しだけ精を出す口実にならなくもない。
五十メートル走のスタートライン付近の砂を両手で掬って篩に集め、シャカシャカと振るう。昼間のひと時をはらりと濡らした霧雨のせいで、校庭は仄かに湿気を帯びていた。それでも、細かい砂は格子状に張られた金網の小さな隙間からさらさらと流れ落ちていき、粒の大きな砂利だけが網を抜けられずに回収されていく。やり始めてみると、だんだんとケーキ作りで粉類を振るうときのような心地良さを覚えてきて、存外、怠い気はしなかった。
都度、早川先生から小石を回収しておいてほしい箇所を追加で言い渡され、結局、角巻は校庭の三分の一ほどを転々と歩き回った。普段からスポーツとは無縁の生活を送っている身体は、これだけで息切れを起こしてしまう。体力測定を前にして、少しはいい準備運動になったかもしれない。微かに汗ばんだ額を中学校時代の指定ジャージの袖で拭って、指示どおり、回収した小石を捨てに部室棟のほうへ向かう。
ふと顔を上げると、深い茜色に青藍の夜がじんわりと染み滲む夕暮れ時の空が眼に落ち迫ってきた。まだ高い位置にある斜陽の緋色が、膨れて連なる綿雲にひらりと翻され、校舎と自分の濃い影が校庭に細く長く伸びている。
夏だ、と思った。思うと同時に、角巻は少し、淋しくもなった。
部室棟のあたりは雑草が腰ぐらいの高さまで鬱蒼と伸び散らかっており、軒を連ねて藤棚が建てられていたり、さらにその藤のツタが外壁のフェンスにまで絡まって侵食していたりして、西日が鋭く射しこんでいてもほんのりと薄暗く涼しかった。
フェンスの前の通学路を通り過ぎるとき、この藤棚のベンチから早川先生が全日制の陸上部らしき部員たちに檄を飛ばしている風景をここ一ヶ月よく目にした。彼は夜間定時制の体育を教えながら、全日制の教員で、かつ陸上部の顧問でもあるのだ。大人たちをなめきった世間知らずの最高潮みたいな高校生を昼も夜も相手にするなんて、よくそんなにもストイックに動けるものだ。
早川先生の労働ぶりと、教員の人手不足の闇をうすら寒く痛感しながら、角巻は篩をひっくり返して茂みの中に小石をばら撒いた。
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
人の影。そう直感して、叫び声をあげそうになった全身が凍りつく。
そっと、吸い寄せられるようにそちらへ視線を流すと、藤棚の脇には鉄棒が四つ並んでいた。右側二つは肩ほどの高さの体育でも使うもの、左側二つはジャンプしても届きそうにないほど高い、運動部が懸垂をするためのもの。
その、ジャンプしても届きそうにない左端の鉄棒に、一人、風変わりな女がぶら下がっていた。
女はこちらに背を向けて、頻りに俯いたり正面に向き直ったりしながら高い鉄棒にぶら下がり、洗濯物のように風に吹かれている。
臙脂色のジャージ上下に包まれた体躯は華奢というか不健康そうで、捲った袖から見える青白い腕は心配になるほど細く棒きれのようである。髪は耳朶が覗くほど短く、美容院に行っていないことが一目で判るほど毛先は不揃いで軋んでいる。履いている黒い靴はスニーカーのように見えたものの、よくよく目を凝らすとサンダルだった。校則で靴の指定があるのかどうかは知らないが、いつもこのサンダルで登校しているのだろうか。というか、それで五十メートル走や諸々の体力測定をこなすとでもいうのか。
鉄棒の下には、彼女のナップサックが支柱に凭れかかるようにして置いてある。開いてしまっている口からコンビニのレジ袋が覗いていて、その中には何やら大量の草花が雑多に入っている。見る限り、黄色い花は間違いなくタンポポで、ということはこの辺の茂みで摘み取ったものと思われた。
限界が近いのか、女は歯を食いしばるようにして口で荒々しく呼吸をしていた。鉄棒の掴み心地を直そうとするたびに、ガリガリに痩せた腕がプルプルと震える。背後の西日に照らされた角巻の影が鉄棒の向こうまで伸びているけれど、彼女がこちらの存在に気づいている様子はなさそうだった。
角巻はその女のことを知らないでもなかった。何を隠そう、彼女こそがクラスメイトのエリーこと遠影さんなのである。
夜間定時制の教室は一定数の不良がいるものの、基本は静かだ。
先生方も生徒同士のコミュニケーションを促すようなことはせず、授業中にペアワークなんてほとんどない。入学前にすでに繋がって輪が完成している不良たちを除けば、クラスメイトたちは強いられない限り会話をすることなどせず、それぞれが一線を画し、別々の世界に身を潜めている。
成績不振、素行不良、少年犯罪、貧困、虐待、売春、いじめ・・・・・・。どんな理由であれ、夜間定時制高校は全日制の”普通科”に通えなかった者たちが集う場所である。基本的に他人への信頼など皆無だし、勇気を振り絞って誰かに自分から話しかけ、主体的に交友の輪を広げてみせようなどという心構えを携えた模範生徒はいない。
普通から追い出された落ちこぼれたちが、偶然おなじ掃き溜まりに寄せ集められて、ただ居るだけなのだ。認めなくはないが、世間一般様の眼からすれば角巻自身もその一人なのだろうということぐらいは自覚している。だから、入学して一ヶ月でクラスから五人が消えても、誰とも親しかったわけではないし、まぁそんなものだろう、という淡白な心地しか抱かなかった。
青春なんてものに期待してはいけない。高校に通うのは、高卒認定をもらうためだけ。暗黒の義務教育時代を経て萎みきったそんな心意気を引き摺ったまま始まった高校生活なものだから、角巻は未だにクラスメイトとほとんど関わったことがなかった。
今後も関わるつもりはないと、そう思っていた。
遠影さんは鉄棒にぶら下がりながら、何度も苦しそうに項垂れて足下に視線を落とし、何やらキョロキョロしている。
握り棒に手が届いたはいいものの、下りられなくなったのだろうか。ただでさえ細い身体が、重力で引っ張られてさらにビヨーンと伸びきっている。ミシミシと腕が千切れる音が聞こえてきそうなその縦長の身体は、それでも一五〇センチ台半ばぐらいで、浮いている足先から地面まではかなりの高さがあるように思えた。
いったい、いつから、そして、そもそもどうして鉄棒なんかにぶら下がっているのだろうか。
いずれにしろ、やばい人だ。あまり関わらないほうがいいかもしれない。
うん、見なかったことにしよう。眉を顰め、角巻はなるべく足音を立てないように草を大きく跨いで、そっと退こうとした。
そのとき、始業五分前の予鈴が鳴り響いて、校庭とテニスコートの狭間に佇む照明塔の明かりが点いた。野球場のナイター照明には劣るが、それでも校庭の半分ほどが煌々とした眩しい白光に包まれる。
「おや」
そう、遠影さんが声をあげた。
「誰かと思えば、おなじクラスの」
遠影さんは精一杯首を捩じって、流し目でこちらを振り返りながら辛そうに言った。
「ど、どうも」
「えー・・・・・・」
「・・・・・・つのま―――」
「角巻さん! ああ、いや、憶えていなかったわけじゃないんだ。もちろん、知っていたとも」
早口で言いながら、遠影さんは焦りを隠すように正面に向き直った。
「絶対今思い出したでしょう」
「いいや、知っていた。わたしは人の顔と名前を記憶するのが得意なのだ」
「嘘。じゃあ、あたしの下の名前は?」
「・・・・・・ああ、ひとつ訊いてもいいかな」
「なに?」
下の名前を覚えられていないことを察した角巻が低い声で訊き返すと、遠影さんはまた俯いて、地面の、それも斜め左下のほうに視線を落とした。先ほどから幾度も下を向いてるが、しんどくて項垂れているわけではないというのなら、いったい何を見てるというのだろう。
鉄棒から下りられなくなった。手を放すから、脚を支えていてくれないか。どうせそんなことを頼まれるものかと思ったが、耳に降ってきた言葉は予想のしようもないほど突飛だった。
「この鉄棒の左側の柱に、かたつむりがくっついているだろう?」
「え? かたつむり?」
「そう。でんでんむし、おそらくはクチベニマイマイという種だと思うんだが、英語だとスネイル、スペイン語だとカラコル、中国語だとウォー二ゥ、わたしの叔母は”ででむし”なんて呼ぶが、軟体動物門腹足鋼有肺亜綱柄眼目、陸に棲息する巻貝の仲間で・・・・・・」
「かたつむりぐらい知ってるって!」
会話にならないぐらいの情報量でペースを握られそうになり、角巻は少し声を荒げて彼女を制した。
一滴の沈黙がぽとりと落ちた。
「おお、そうか、知っていたか。そのかたつむりがな、この鉄棒の左側の支柱のどこかを這っているはずなのだ。というかわたしが這わせたんだが、ちょっと見失ってしまってね、今どの辺にいるか探してくれないか?」
ぎこちない空気感になるかと思えば、沈黙を破った遠影さんはいたって委縮した様子もなくまたベラベラと喋り始めた。
「はあ」
かたつむりを這わせた? 鉄棒の柱に?
やっぱり、常人じゃない、やばい人なのかもしれない。おなじクラスで一ヶ月を過ごしたといえど、面と向かって話すことなど初めても同然の相手に、この距離感はおかしい。しかも、始業前に鉄棒にぶら下がっているなんてのがそもそもふつうじゃないのに、そんなところを見られて恥ずかしいとは感じていないのだろうか。
というか、なんだ、この人。教室での遠影さんの印象とはまるで違う。あまり意識したことがないからはっきりしないけれど、こんなにキャラの濃い人だっただろうか。
ナップサックの中に見え隠れしている雑草しかり、いろいろと関わりたくない点は多かった。でも、遠影さんの醸すただならぬオーラに気圧されるがままに、角巻は鉄棒の支柱に目を凝らした。
その場にしゃがみ込んで、地面からゆっくりと視線を上げていく。すると、ちょうど目線より少し見上げた高さ、浮いている遠影さんの足ぐらいのところで、ある物体に眼が留まった。
一匹のかたつむりが、夕日を受ける支柱の影の部分をのろのろと這い登っていた。
このあたりではよく見かける、なんの変哲もないかたつむりだった。背負っている殻は黄みがかった綺麗な乳白色で、その中央には一本の赤黒い筋が走っている。右巻きに渦を巻いていて、かなり老齢なのではないかといった大きくでっぷりとしたサイズ感だった。何よりも眼を惹く特徴として、殻口の部分が口紅を引いたようにほんのりと柔いピンクに染まっていた。
「ここにいるよ」
角巻が遠影さんに見えるように指し示すと、鉄棒にぶら下がる彼女はぬっと首を前に突き出して、左脇の下からこちらを覗き込んだ。
「ああ、まだそんなところなのか、くそぅ」
「これ、何してんの。いや、というか何をさせてんの?」
いろいろと訊きたい気持ちと何ひとつ訊きたくもない気持ちが胸の内でせめぎ合い、結局、角巻は無意識に遠い眼をして訊ねた。
「こやつが鉄棒の上端に辿り着くまで、わたしはここにぶら下がっていようと思ったのだ。すぐに来てくれるだろうと思っていたのに、少々見積もりが甘かったかなぁ」
「はあ・・・・・・それはまた、どうして?」
「どうしてって、今日はほら、身体測定があるだろう。だから、少しでも身長を伸ばしておこうと思ってな」
生温い風がじっとりと首元に絡みついて、ぼやっと吹き抜けた。
始業のチャイムが鳴った。
二人して慌てて校舎へ走り、廊下を歩く早川先生の背中を追い抜いて教室に駆け込んだ。
入学して一ヶ月が経った中で、あまり遠影さんの印象が頭になかったのは、派手髪の不良たちの声が無駄に喧しいということもあるが、彼女の座席が角巻の真後ろだからであった。ただでさえ初対面の相手と親しい間柄になる努力をしようともしない消極的な子らが集まる中で、角巻もその例に洩れず背後など振り返ったことがなかったから気づかなかった。
そして、教室内での遠影さんは、恐ろしいほど静かだった。
影が薄いなんて次元ではない。不良たちが騒ぎ立てる音圧に、存在そのものが掻き消されてしまったかのように、光の中にどっぷりと影を沈めている。つい先ほどまでかたつむりがどうたらするまで鉄棒にしがみついていようとしていた奇人ぶりとは打って変わって、筆記用具と着替えを黙々と準備するその姿からはふつうの寡黙な人という印象を受けた。
「楽しみだな、体力測定」
向けられている視線に気づいたのか、遠影さんは俯いたまま角巻にぼそりと言った。
「ええ、そう? 反復横跳びとかシャトルランとかしんどいじゃん」
「やったことがないのだ、ぜんぶ」
「えっ―――」
角巻の驚きを遮るように教室前方の扉がガラガラと開き、早川先生が入ってきた。
ホームルームが終わると、いつもの体育の授業みたいに着替えのため男子は隣の二組へと移動した。
この高校の夜間定時制は一学年二クラスだから、体育の授業になると全員が揃う。それでも、友達というよりも家族的な繋がりが強いヤンキーたちを除き、やはり大半の子たちは他人に対してよそよそしい。広い教室で、お互いに机を一つ分空けたりして、不自然なパーソナルスペースを置き合って着替える。むろん、制服やら体操服やらの指定はないため、今日はほとんどの子がすでに各々の運動着を身につけて登校してきたようだった。
始業前に話したことでなんとなく距離が縮まった、と勝手に思っている角巻は、遠影さんと向かい合って支度をした。この一ヶ月、この教室で過ごしてきたはずなのに、今まで遠影さんがほんとうに真後ろにいたのか、まったく記憶になかった。
「体力測定やったことないって、まじで言ってる?」
「ああ、まあ」
遠影さんは伏し目がちにぎこちなく答える。高校生にまでなって、体力テストをやったことがないとは、いったいどんな幼少期を過ごしてきたというのだろうか。
「すごいね、それ」
過去のことはあまり詮索しないでほしいと遠影さんが感じているような気がして、それは自分も同じだから、角巻はあっけらかんと笑った。
「二十メートルシャトルランとは、いったい、どういったものなのだ? 二十メートルを走って往復するのか?」
遠影さんが変に空いた数瞬の間を埋め合わせるように訊いてくる。
「そうだよ」
「なんだ、そんなの楽勝ではないか」
「たぶん、思ってるのと違うよ」
動き始めた不良たちのあとに続いて、全員がぞろぞろと廊下へ出る。一年生はまず身長と体重と握力を計るため保健室を目指して、角巻と遠影さんもそれに続いた。
わらわらと男子が前を往き、女子の集団が続いて薄暗い廊下を歩いていく。
中学までは教室前の廊下で男女別番号順にきちんと整列したものだが、ここに集う我々にそのような協調性はない。どうせ保健室の前で並べ直されるのだが、言われなくとも並んでくれるなどと期待しても無駄である。
窓枠の形に切り取られた暮色の光の中、角巻は遠影さんとともに集団の最後尾をトボトボと歩いた。左側の壁に填まる突き出し窓の外は燃えるような淡い紅色に染まっていて、だんだんと夜が空を覆い尽くしているようではあるものの、まだ路地の街灯は点いていない。これからもっと日が長く、そして暑くなるのかと考えると、それだけで心がくたくたと茹だり、ずうんと気怠くなった。
「厄介なことになったな」
ふと、遠影さんが不良たちの喧騒に消え入るような声量で独りごちた。誰にも見られていないところで組織に関わる大きなミスを犯してしまったかのような、やってしまった、とでも言いたげな苦い声だった。
「何が?」
誰にも聞かれていないと思ったのか、自分で呟いたことすら無意識だったのか、角巻が振り向いて問いかけると、遠影さんはハッと目を丸くした。彼女の目は右が一重で左が二重で鼻筋が歪んでいて、顔を半分だけ隠すと左右で全くの別人に見えるだろうと思われた。
「ああ、いや、こちらの話だ。気にしないでくれたまえ」
皮がビリビリに剥がれて赤らんでいる唇をそっと左手で覆い、遠影さんがはぐらかす。
「ふうん」
つけ入る隙もなく距離を置かれるのが釈然とせず、角巻は遠影さんと肩を並べ、一緒に廊下の突き当たりを右へ曲がりながら更なる会話を試みた。
「身長、伸びてそう?」
角巻が訊ねると、遠影さんは歩きながらつま先立ちをして、両手を高々と上げてグッと伸びをした。
「どうだろうな、ああ・・・・・・」
遠影さんは答えると、弛緩して立ち眩みを起こしたのか、ふと立ち止まり、膝に手をついて腰を曲げた。
「大丈夫? クラッときた?」
「ああ、でも大丈夫だ」
再び歩きだす。左側の突き出し窓から差し込む淡い紅色の夕陽が蛍光灯の白色光と柔く混ざり合って、遠近感が薄らぎ、ただの廊下なのに妙に幻想的である。夏の夕暮れと夜の合間に一瞬だけ眼に映るこの喩えようのない風景の色合いに気づけると、角巻は地面を忘れかけ、どことなく浮足立つ心地がするのだった。
「去年は何センチだったの?」
「センチ・・・・・・センチかぁ、ちょっと待ってくれよ。計算せねば」
「いや、メートルでもいいんだけど。一・五メートルちょいぐらい?」
昨年に一六〇センチ台へ突入した角巻が少し見下げるぐらいだから、だいたいそのぐらいだろうということは見当がつく。
「ええっと、うん、まあそのぐらいだな」
遠影さんの曖昧な返答に、また会話のテンポを乱されたような煩わしさを覚える。
「それにしても細いよね、遠影さんって」
廊下の突き当たった先を右へ折れて、角巻はなんとか会話を繋ぐ。自分から肩を並べて歩調を合わせ、雑談を試みてしまった以上、ここで身を引くのも不自然で気が悪かった。
「ああ、そうだな」
「ちゃんと食べてる?」
「ちゃんと、かどうかは知らないが、飯にはありつけてるぞ。昼は倉庫の食堂で割引が利くし、夜はここで給食だし」
遠影さんの細い腕を眺めてふと思い出し、角巻は口を開く。
「そうだ、あたし見ちゃったんだけどさ」
「何をだ」
「遠影さん、部室棟のあたりの茂みでタンポポ摘んでる?」
「・・・・・・ああ、ええっと・・・・・・う、うん」
遠影さんはぎくりと眼を見開いたのち、よろよろと視線を左側の突き出し窓のほうへ逸らして言った。外の路地に点々と立つ街灯はいつの間にか点いており、藍色の薄闇から黄みがかった綺麗な乳白色の光が廊下に差し込んでくる。夜の学校を堂々と歩き回るという体験は、教員か警備員か不審者でない限り、夜間定時制でしか味わえないものだろう。
「どうすんの、それ」
「どうするって・・・・・・そら食べるだろう」
「え」
「寝る前におひたしにして明日の朝ごはん。もしくは冷凍しておいて土日の夜ごはん、炒め物とか天ぷらとかだな。あるいは、売って金にするのだ」
「ええっ!」
「他にも、ヤブカラシはそこら中に伸び散らかってるし、オオバコとかハコベとか見つけたら獲るし、部室棟の裏にはドクダミとかチャイヴズが生えてたりするぞ」
遠影さんの口から次々と零れ出てくる草の名前に理解が追いつかなくなり、思考が止まりかける。
「ええ、ちょ、ちょっと待って! え、なに、遠影さん、学校に生えてる草、摘み取って食べてるの?」
「・・・・・・まあな」
「チャ、チャイヴズって?」
どう反応していいものか解らなくなり、犯罪じゃないのか、と思わず本音が洩れそうになった角巻は咄嗟にヘラリと笑って言い繕った。
「ん、チャイヴズって、あれだ、餃子に入れたり、もやしとかレバーとかと一緒に炒めると美味しいやつだ」
「ああ・・・・・・ニラ、かな?」
「ニラ・・・・・・たぶん、それだ。なるほど、ニラか」
「部室棟の裏に、ニラ生えてるんだ・・・・・・」
それ以上、口から言葉が出てこなくなってしまい、角巻は舌が乾いていくのを感じながら廊下にスリッパの足音をわざとらしく響かせた。
「別に、ちゃんと水洗いして処理すれば食べれるものだし、さすがのわたしも毒草と野草を見分ける勉強ぐらいはしている。れっきとしたレシピも調べればたくさん出てくるしだな、い、意外と美味だぞ、野生のタンポポ」
さらに突き当たった廊下の角を右へ折れたとき、角巻はようやく異変に気づいて立ち止まった。
おかしい。
蛍光灯にぼんやりと照らされたリノリウムの廊下がまっすぐ伸びている。薄暗く、向こうから無数の濃い闇の粒が広がり迫ってくるような廊下。左側の壁には突き出し窓が填め込まれていて、外から街灯の乳白色の明かりが洩れ入ってくる。
右側には、つい先ほど着替えをした教室があった。
そして、前方を歩いていたはずの同級生の集団が、いつの間にかいなくなっていた。
「厄介なことになったな」
遠影さんが、今度はこちらに言い聞かせるようにはっきりと呟いた。
「何これ、どうなってるの?」
角巻は足早に廊下を渡り、突き当たりを右へ曲がった。さっきからずっと、右に曲がる一本道しかないのだ。
曲がった先には、また、同じ景色が伸びている。左側に突き出し窓、右側に教室。一年生の教室。自分たちの教室。
「あやつの仕業だ」
少し遅れて追いついてきた遠影さんが断じるように語気を強めた。
「え?」
「窓の外を見てみろ」
言われたとおりに、首が左方向に回る。
「えっ・・・・・・」
視界に飛び込んできたその光景に、角巻は息を呑んだ。
左側の突き出し窓の外に、廊下が並走して伸びているのである。
グッと窓ガラスに張り付いて、向こう側に目を凝らす。外に横たわる廊下の、さらにその窓ガラスの向こうに、街灯の立つ路地が走っていた。
「蝸牛回廊に閉じ込められた!」
遠影さんがムンクのように叫んだ。
「スネイルコリドー?」
角巻は眉を顰め、遠影さんの口から放たれた聞き馴染みのない単語を繰り返した。
スネイル? スネイルってなんだ? それに、コリドーも。いや、スネイルコリドーで一単語なのか? 遠影さんの妙に良い発音の響きから推察するに、恐らくは英語だと思う。いや、遠影さんは何やらスペイン語と中国語にも精通しているようだった。
スペイン語・・・・・・。中国語・・・・・・。
あっ―――待てよ。
スペイン語で、カラコル。中国語で、ウォーニウ。叔母は、”ででむし”。
始業前の会話。思い出してきた。
スネイルは、英語で―――
「かたつむり?」
角巻は答え合わせを求めるように、腕を組みつつ廊下の先を睨んで「ああ」と唸っている遠影さんを見遣った。
底の見えない沈黙が廊下に木霊したのち、遠影さんは小さく口を開いた。
「厄介なことになった」
「あたしたち、着替えて廊下に出てから、突き当たりの角を四回右に曲がったよね」
角巻が記憶を慎重に辿って確認すると、遠影さんも神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。
「ああ、だが、一周して元の位置に戻ってきたというわけではないらしい。窓の外の廊下、あれが恐らく、わたしたちがさっき通った廊下だ」
「ええっと、つまり、ここは・・・・・・」
「・・・・・・ひとつ内側、とでも言うべきか。かたつむりの殻のように、渦巻の二周目のスタート地点にいるようだ」
遠影さんは両目を苦々しく瞑って悔やむように言うものの、角巻には何が何だかさっぱりだった。そういえば、厄介なことになった、と廊下へ出たときから度々独りごちていた。何か心当たりでもあるのだろうか。
「あの、スネイルコリドーって?」
「語り始めると、長い話になる」
遠影さんは観念したようにひとつ大きく息を吐き、静かに瞼を持ち上げた。
🐌
遠影さんの提案で、ひとまず二人は踵を返し、もと来た道を引き返してみることにした。
しかし―――
「やはりか・・・・・・」
「えっ、どうして!?」
驚嘆した角巻は廊下の突き出し窓に駆け寄った。向こうには別の廊下が一本並走していて、さらにその廊下の窓の向こうに街灯の立つ路地が走っている。なんと、逆回りに一周戻って辿り着いたのは、先ほど二人が立ち尽くしていた二周目のスタート地点だったのだ。
今度は角巻がそこに残り、遠影さんだけが引き返してみた。しかし、やはり彼女は窓の向こうの廊下ではなく、同一線上の廊下に帰ってきた。
「どうやら、後戻りはできないらしい」
遠影さんが左右の壁を押したり叩いたりしながら戻ってきて言う。
「そんな・・・・・・」
未知の異様な光景を前に恐怖し、角巻は泣きだしそうになっていた。しかし、その調子を狂わせるように、遠影さんは淡々と、しかし恐る恐るといった様子で一組の教室前方の扉に手をかけた。
「とりあえず、状況を整理せねば。おお、教室には入れそうだぞ」
「事の発端は、”でんでん帝育成計画”であった」
教壇に立った遠影さんは黒板に背を預け、アニメの第一話冒頭のナレーションのように大仰な声色で言った。
「でんでん帝育成計画?」
また耳に飛び込んできたわけの解らない単語を繰り返しながら、角巻は教室内を確かめるように巡り歩いた。
机の上には女子たちの着替えや筆記用具の類が雑然と置いてある。ほとんどが示し合わせたかのように机一つ分の間隔を空けており、窓際後方にだけ仲良しヤンキーグループのものが固まって集まっている。机の脇には各々の鞄や全日制の子のシューズ袋などが掛かっていて、自分の手提げバッグも遠影さんのナップサックも見た感じ本物のようだ。
教室の大窓からは植え込みと駐輪場が景色の大半を占める中、渡り廊下のさらに向こうに広がる運動場で五十メートル走とハンドボール投げの試技を行う夜間定時制の最高学年である四年生の姿がちらりと垣間見えた。教室後方の黒板には全日制の週間スケジュールや連絡事項が黄色のチョークで書き連ねられており、その周囲の掲示ボードには彼らの「自己紹介カード」なるものが画鋲で留められ犇めき合っている。
自分たちの教室で間違いなさそうだった。
「まず、遡ること十年ほど前、六歳か七歳かといった当時、わたしの学校ではほんの一時期だが、自分の飼っているペットの写真を持ってきて見せ合う、そして褒め合うというのが休み時間中に流行っていた」
「ああ、それ、うちの小学校でも流行ったかも」
教室中央の前から二列目の席に座り、角巻は眠っていた記憶を呼び起こしながら返した。
「ほお、そうか」
「うん、犬に猫、他にもウサギとかハムスターとか文鳥とか、いろんな写真を女子たちが持ち寄って、気づけば男子も加わって、魚とか虫とかたくさんの写真を撮って持ってくるようになってね。どこから流行り始めたのかは知らないけど、たぶん学年中、もしかすると学校中でそんなことしてたんじゃないかな。あたしも家で亀飼ってたから写真に撮って持ってった記憶あるし、ああ、男子から大きな蛇の写真見せられたときはびっくりしたなぁ」
角巻がまだ純粋無垢でちゃんと社交性があったころの記憶を思い出して哀愁に浸っていると、遠影さんは遥か遠くに霞む風景を眺めるように、すうっと眼を細めて微笑んだ。
「わたしも学校で似たような時間を経験した。まあ、角巻さんのところほど大流行はしていなかったが」
「そうなんだ」
「ああ、せいぜいホームルームのクラスと、授業で移動した先の教室ぐらいの、こぢんまりとしたものだった」
「遠影さんって、どこ出身なの」
「・・・・・・港湾都市の、僻地の村だ」
「ざっくりしてるなぁ、都道府県で教えてよ」
「臭くて辺鄙な港町。それ以上は答えたくない」
「あまり、いい思い出なさそうだね」
「ああ、まったくないな。まぁ、とにもかくにも、そのペットの写真を見せ合うという内輪ノリに参加しようとしたことが、後にも先にも、わたしの人生において最大の失敗だったと言えよう」
遠影さんはそこで言葉を切ると、くるりと背後を振り返って、黒板の左端にオレンジ色のチョークで『でんでん事変』と書き記した。
「簡単に説明すると、”でんでん事変”とは、わたしがかたつむりの写真を学校に持っていったら、死ぬほどキモがられた、という話である」
角巻のほうに向き直った遠影さんは、口角を力なく引き上げて言った。
「ええっ、ああ・・・・・・」
「なんとなく、解らんでもないだろう。高度文明社会に生きる人間の大半が、かたつむりを気持ち悪がる心理というのは」
「まあ・・・・・・ねぇ」
角巻は曖昧な笑みを浮かべつつ、胸の内ではなんとなく頷けていた。
蟲から魚から哺乳類まで、夥しい数の生き物が棲む山を破壊して切り開き、自分たちが暮らしやすいように整備して街に改造してきた人間。その生活は、原生林を壊滅させ、認識から除外し、不可視化する方向へと進んでいった。都市化が進むにつれて爆発的に人口も増え、それがさらなる山の破壊を招き、結果として、人間は自分たちの生活様式に順応できない生き物たちの存在を拒絶するようになった。
大自然との繋がりを絶ち、森を忘れ、次第に自分たちの街に籠ることしかしなくなった人間が、最も過剰な拒否反応を示すようになった嫌悪の対象、それが虫である。
虫。六本脚の昆虫。八本脚、あるいは百本二百本の脚をもつ蟲。これらの大半は人間の街には”いないもの・いてはならないもの”と見做されており、発見され次第すぐさま追い払われるし、叩き潰されたり火炙りに処されたりする。
最後に森の中に入ったのは、いったいどれぐらい前のことだろう。木の幹に最後に触れたのは、土や葉のにおいを最後に嗅いだのは、川に最後に手を浸したのはいつのことだっただろうか。
かたつむりが虫かどうかは定かではない。でも、始業前、鉄棒の支柱を這い伝っているかたつむりを見つけたとき、うげっ、と瞬間的に思ったのは認めざるを得ない。実際、人間の都市で生活を送ることが日常になり、世界の中心は人間社会であるという意識をすっかり身体に適応させてしまってからというもの、いつしか角巻自身も虫やその類には触れないし、ごく一部は視界に入っただけで嫌悪感を抱くようになっていた。
「まず前提として、当時から、わたしは学校での集団生活にあまり馴染めていなかった節はある。だが、かたつむりの写真を持っていることがクラスメイトにバレた瞬間、それが決定的となった。これが”でんでん事変”の概要である」
「遠影さん、かたつむり飼ってたの?」
「いいや。貧乏だったからな。飼いたくてたまらなかったが、当時は虫かごに収容して餌を与え、かたつむりに適した環境を人工的に整えていたというわけではない。ある雨上がり、母親のデジカメをくすねて、住んでいた集合住宅のエントランス脇にあった茂みに大量発生した野生のかたつむりを撮影して、図書館のプリンターで写真を印刷したのだ」
「ふうん」
「わたしはな、かたつむりは犬や猫と同等ぐらいに人間から愛されている生き物だと、それまで本気で信じていた。でも、どうやら、それはとんだ思い違いだったようだ」
「・・・・・・うん」
「好きな物の共有。相手のペットを可愛いと褒め、自分のペットも可愛いと褒められる。クラスメイトたちのその、承認欲求を満たし合うささやかなやり取りが、羨ましかったのだ」
遠影さんはまたくるりと黒板に振り返って、『でんでん事変』から右矢印を伸ばし、『でんでん帝育成計画』と書いた。
「でも、この”でんでん事変”をきっかけに、わたしはかたつむりに対する認識を改めるのではなく、むしろより一層の愛着を抱くようになる」
指についたオレンジ色のチョークの粉をはたき落としながら再び角巻のほうに向き直ると、遠影さんはどこか誇らしげに平たい胸を張って言った。
「ここからが本題という感じだね」
今どこの何の話をしているのだろうか、と退屈な歴史の授業を聞いているような心地になっていた角巻は、少し身動ぎをして居住まいを正した。
「ああ、ほんとうは、この”でんでん事変”から”でんでん帝育成計画”までの間にも順を追って補足しておきたい出来事が山のようにあるのだが、それはまた別の機会があれば話すことにしよう。早いとこ、このスネイルコリドーから脱け出す方法を模索せねばならんからな」
「そうだね」
「ほんとうは”イエロースラッグ退治事件”とか”でんでん郷の長老現る”とか”でんでん博士との出会い”とか、話しておきたいことがたくさんあるのだ」
「分かった分かった、分かったから。スラッグコリドーから脱け出せたら、また聞かせてよ」
「スネイルコリドーだ」
「ああ、ごめん。そう、それそれ。スネイルコリドーね。イエロースラッグ? に引っ張られた」
もうすでに感じていたことだが、角巻は改めて、遠影さんはおもしろい人だと思った。
「なんやかんやあって、”でんでん事変”から二年ほどの月日が流れた、ある夏の始めのこと。かたつむりをこよなく愛するようになっていたわたしは、ついに飼育することに踏み切った」
「おお」
「とはいえ、そんな本格的なものではない。自分の衣装ケースとして使っていた三段ボックスのうち、一番高さがあり容積が大きかった最下段を虫かごに改築したのだ」
「えっ・・・・・・入れてた服は?」
「もともとそんなに多く持っていたわけじゃないからな。最下段に入れていたズボンの類はすべて取り出して、上衣が仕舞ってあった二段目に無理やり押し込んで移したり、それでも入りきらなかったものは床だか衣装ケースの上だかに並べ置いたりしたはずだ」
「なる、ほど」
角巻はとりあえず受け入れた。幼心に、そこまでしてかたつむりを飼育してみたかったということだろう。
「わたしは落ち葉やら木の枝やらを拾い集めてきて、最下段の箱いっぱいに敷き詰め、かたつむりの寝床を整えた。そして、大量発生している集合住宅の茂みの中から記念すべき原初の二匹を捕まえてきて、わたしの築いた楽園に解き放ったのだ」
「アダムとイヴだね」
「ああ、そのつもりで、当てずっぽうでオスとメスを選んだ。しかしな、後々に判明したのだが、どうやら、かたつむりは雌雄同体らしい」
「シユウドウタイ?」
「ひとつの個体が、オスでもあり、メスでもあるのだ。飼育を始めてすぐに図書館で虫の図鑑を借りてきて、かたつむりの生態について少しばかり読んだのだが、二匹で交尾するとどちらもが受精卵を産めるし、単体でも体内で自己受精をすることができるらしい」
「へえ・・・・・・」
角巻は曖昧な返答しかできなかった。見たこともないのに、かたつむりの交尾というものに想像を馳せてしまい、首筋に戦慄が走った。
「オスでもあり、メスでもある。いや、もはやそのどちらでもない次元にいるのかもしれない。必ず番の生殖器をもつように二分される脊椎動物とは異なり、こやつらにはそもそも性別という概念がないのだな」
引いている角巻には気づいていない様子で、遠影さんは説明を続ける。
「変なの」
「ああ、そしてさらに変なのは、ジメジメしてる日陰を好むのに、雨に降られるのは嫌いだということだな」
「そうなの? かたつむりって、雨の日に見るイメージだけどな」
「かたつむりはわたしたちと同じく肺で呼吸をしているから、水中では息ができない。それに、体の粘液が雨で洗い流されてしまうと、壁に引っ付けずに落っこちてしまう恐れがある。これらを理由に、雨に降られると身の危険を察知して茂みの中や溝蓋の裏なんかに避難する習性があるようだ」
「へえ、おもしろ。ますます変だね。体は濡れてないといけないのに、水をかけられるのは嫌いなんて」
「そうだろうそうだろう。というわけで、そういう情報をなんとなく知り得たわたしは、とりあえず、密かに原初の二匹の世話を始めた」
「親には内緒でってこと?」
角巻は訊ねた。
「もし仮に母親にバレていたとしたら、恐らく、もうわたしはこの世に存在していなかっただろうな」
遠影さんはヘラリと笑って答えた。
「餌は葉っぱや木の枝などが主だったが、手に入れば生のレタスや大根の葉なんかもおすそ分けして、貝殻の形成にはカルシウムが必須だということで卵の殻やコンクリートの欠片なんかも置いてみたりしながら、わたしは手探りで原初の二匹を育てていった」
「うんうん」
「すると、飼育して一年ほどが過ぎたある日、いつもみたいにボックスの中を覗いてみると、落ち葉の陰に大量の卵が産み落とされていたのだ!」
遠影さんが教科書の太字みたいに強調して言うので、角巻は反応に困りつつもかろうじて拍手をしてみせた。
「た、大量って、どれぐらい?」
「具体的には数えてないから判らん。だが、ぱっと見の印象では五、六十粒はあったんじゃないか」
「・・・・・・どうしたの、それ」
「もちろん、かたつむりの幼体について可能な限り調べ上げ、湿度管理に神経を尖らせて、すべてが孵化するまで面倒を見たさ」
「・・・・・・」
「結果、ボックス中、かたつむり塗れになった」
「だよね」
服の引き出しを開けたら五、六十匹のかたつむり。身の毛もよだつ映像が脳裏を過り、角巻はさすがに笑えなかった。
「正確なところ、何匹孵ったのかは数えきれなかった。産まれなかった卵もあるだろうし、ケースの隙間から脱走して逃げ出した赤ちゃんもいただろう。けれども、わたしは夥しい数に溢れた米粒大サイズのかたつむりたちをよく吟味して、微妙に体が大きく見えた個体三匹を楽園に残し、あとの数十匹は自然に帰してやった」
「さすがにね、手に負えないもんね」
それでも三匹の子を、親世代と合わせて計五匹を継続して育てようというのも相当の覚悟だと思うが。
「やがて原初の二匹は死に絶え、二つの立派な貝殻だけが残った」
「ああ・・・・・・」
「貝殻は埋葬してやろうとも思ったのだが、貴重なカルシウムとして、三匹の栄養になってもらうべく捨てずに置いておくことにした。カルシウムが足りないと、お互いの貝殻を食い合ってしまうこともあり得るらしいからな」
「へえ・・・・・・かたつむりって共食いするんだ」
「長いほうの触角が司る視覚は光の明暗ぐらいしか判別できていないとのことだからな。仲間の貝殻に触れても、食べ物だとしか思わんのだろう」
「ええ・・・・・・相手を認識できないんなら、交尾できる確率って少ないんじゃない?」
「成熟して産卵期に入ると、頭の上に特有のフェロモンを発するイボができてくるのだ」
「へえ・・・・・・」
「わたしも当時はまだそんなこと知らなかったが、頭瘤と言ってな、見てみると王冠みたいでかっこいいぞ」
「そう、なんだ」
興奮気味に語る遠影さんの説明でかたつむりについてどんどん詳しくなっていくのが気持ち良いのか悪いのか、角巻は尻のあたりがすうっと浮き上がるような心地がした。
「そうして、後代から選抜された三匹もすくすくと育ち、そろそろ大人に成長しただろうかというころ、わたしはあるひとつのニュースを耳にする」
「ニュース?」
また歴史の授業みたいな退屈さを帯び始めて本題が霞みつつある遠影さんの話に、角巻は机に頬杖を突いて相槌を打った。
「ああ、その名もスネイルレーシングワールドチャンピオンシップこと、”世界かたつむり選手権”である」
「世界かたつむり選手権?」
「ああ、これはわたしの村ではなく、遠く離れた東部の村で毎年開催されている大会であり、要するに、世界最速のかたつむりを決めるお祭りなのだ」
「はあ・・・・・・」
そんなお祭りは日本では聞いてことがないため、もしや遠影さんは海外出身なのか、という疑惑を角巻は抱いた。しかし、そのかたつむり競争とやらがこの一連の話と何の関係があるのかが見えてこず、三度出身を訊いてみる気も失せ、とりあえず続きを促した。
そんな思いを見透かしたように、遠影さんは深く息を吸い、ニヤリと口角を釣り上げて言った。
「このニュースを知ったことが、”でんでん帝育成計画”のはじまりである」
かたつむり好きが高じて飼育を始め、初めての産卵と孵化に成功し、後代の三匹が成熟するころに、どこやらで開催されている世界かたつむり選手権の情報が耳に入ってきた。角巻は長々となされてきた説明を脳内でなんとなく整理し、ようやく本題に入りそうな雰囲気に備えた。
「世界かたつむり選手権は、十三インチ・・・・・・ええっとだから・・・・・・、三十三センチぐらいの距離をいち早く駆け抜けたかたつむりが勝ち、というものなのだが、わたしはこの大会で優勝できる珠玉の一匹を育て上げてみせようと決めたのだ」
「ああ、それが、でんでん帝育成計画?」
なんとなく繋がりが見えてきた角巻が先回りして言うと、遠影さんは大きく二度頷いた。
「そうだ。つまり、世界で一番速く走れるかたつむりをわたしの楽園から輩出してやろう、でんでんむしの帝王を生み出そう、というのが、”でんでん帝育成計画”なのである」
「自室にあったローテーブルの縦の長さがだいたい三十八センチぐらいで、選手権のコースよりは少しばかり長いものの、わたしはこれを練習台に使うことにした」
「大会に向けて、三匹をトレーニングさせたんだね」
「ああ、まずは三匹の中で競い合ってもらい、切磋琢磨してお互いのタイムを縮められるように走り込んでもらった。また、楽園の中でも筋肉を鍛えてもらうため、枝や朽ち木の配置を少し間隔を空けるように調整して、限界まで体を伸ばさないと朽ち木から枝へ乗り移れないというような環境をつくった。さらに、食事にもより一層気を遣うようにした。落ち葉よりも豊富な栄養を摂れるように、スーパーで毟り捨てられていたレタスの外葉や大根の葉なんかを積極的にもらってきて与えたりしてな」
「ほ、本格的だね」
「世界を見据えていたからな。そして、貝殻の形成に必須なカルシウムに関しても、卵の殻やコンクリートの欠片に加えて、ひとつ、ある秘伝の代物を仕込むことにしたのだ」
遠影さんはそこで一旦言葉を区切ると、まっすぐこちらを見つめてきた。
「ええ、秘伝の? なんだろう・・・・・・」
沈黙の問い掛けに応じ、角巻は顎に手を当て、身近なカルシウムと言えばどんなものがあったか考えた。
牛乳、魚の骨、エビの殻や尻尾・・・・・・。カルシウムと聞いていくつか飲食物を思い浮かべてみても、それらをかたつむりが飲んだり食べたりするイメージはまったく湧かなかった。コンクリートブロックを削って齧るというのはなんとなく耳にしたことがあるけれど、卵の殻でさえも実際に食べている姿は上手く想像がつかない。いったい何を与えたのだろう、と悩みあぐねいていると、遠影さんはヒントとでも言うように口を大きく開けて仰け反った。
「・・・・・・はあ?」
そのジェスチャーの意図が解らずに角巻が首を傾げると、遠影さんはニヤリと笑って、ひとつ深く頷いた。
「そう、歯だ」
「当時、わたしはそれまでに抜けていたすべての乳歯をなんとなく取っておいていた。それらをまず茹でて煮沸消毒して、よく乾燥させたのち、三匹の中で最も速く走れていると見込んだ一匹に一本与えてみたのだ」
平然と語る遠影さんの口から零れた予想だにできないカルシウムに、角巻は絶句せざるを得なかった。
たしかに、抜けた乳歯をカプセルかなんかに入れて保管していた時期は角巻にもある。でも、すべてを丹念に収集していたわけではないし、一部は歯医者に寄付した記憶もある。手元に残していたものもいつかの部屋掃除か何かのついでに気まぐれで捨ててしまっただろう。ましてや、これだけは断言できるが、かたつむりに自分の乳歯を食べさせようなんて発想には一生をかけても至らない。
「それ、大丈夫なの? かたつむりの健康面に悪影響なんじゃない?」
「それは未だに判らん。悪影響かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、幼かったわたしはそんな懸念など抱きもせず、歯の主成分もカルシウムだから食べるだろうという軽い気持ちで与えたはずだ」
「うわぁ・・・・・・」
角巻は口元を歪め、長い息を洩らした。同じカルシウムだとしても、かたつむりが人間の歯を食べるとは思えない。具体的に卵の殻やコンクリートに含まれているカルシウムと何が異なるのかは判然としないものの、煮沸消毒してもなお歯に残る唾液や血液がかたつむりの体内でどう作用するのかと思うと、あまり好ましい想像は湧いてこなかった。
「でもな、最初に抜けたであろう一番小さかった下の前歯をあげたんだが、ち、ちゃんと食べたぞ?」
遠影さんは角巻の毛穴という毛穴から溢れ出た戦慄を撫でて和らげるように、穏やかな笑みをこわごわと貼り付けて言い繕った。
「そこじゃないって・・・・・・」
かつて自分の一部だったものをペットに、ましてやかたつむりに食べさせるという常軌を逸した倫理観にさらなる悪寒を覚えつつ、角巻はかろうじて聞き取れるほどの小声で言い返した。
「以降、わたしは、ひたすらこのサイクルをぐるぐると繰り返した」
遠影さんは合間の詳細を省こうとするかのようにパンと手を叩いて続けた。
「それで? 三匹の中からでんでん帝は生まれたの?」
「いいや。”でんでん帝育成計画”はもっと長きに亘って進められた」
「えっ・・・・・・と、いうことは」
悪い予感を抱いた角巻は身を引いて捩り、椅子の背にそっと抱きついた。
「ああ、三匹の中から速く走れた上位二名を選抜し、交尾させ、子を産ませた」
「・・・・・・」
「そして、再び溢れ返った五、六十匹の中から微妙に体格が良く見えた三匹を楽園に残し、育て、トレーニングをさせ、親世代である上位二名が死んだら、またその貝殻を後代の三匹に与えて―――」
「三匹が成熟したら、最速の一匹に自分の乳歯を与えて?」
流れを察した角巻が語尾を引き継ぐと、遠影さんは満足そうに頷いた。
「だが、乳歯に関してはこの計画を進めていく中で微妙に工夫を凝らした」
「へえ?」
「つまり、三匹のうち上位二名を交尾させ、後代の中からまた三匹を選んで育てて、その中から最速の一匹を判定して乳歯を食べさせ、と遺伝子を受け継がせていくにつれて速いかたつむりになるよう進化を強制的に促していったのだが、それに伴い、後代の最速一匹に与える歯の数も増やしていった」
「はあ・・・・・・」
角巻は曖昧に相槌を打ちつつ、脳内で家系図を思い描いた。
原初の二匹を先頭に二代目、二代目のうちの二匹から三代目、うち二匹から四代目・・・・・・とでんでん帝育成計画の一端を担う選ばれしかたつむりが三匹ずつ誕生する。それらの中の最も速く走れると認定された一匹になぜだか乳歯が与えられ、代を経るごとにその本数が増していくらしい。
「便宜上、初代と一代目を使い分けることにしよう。最初に茂みで捕まえてきた原初の二匹を初代、そのすぐ後代を一代目として考える。すると、最速の一匹に与えた乳歯の増やし方は、一代目の最速に一本、ニ代目の最速に一本、三代目に二本、四代目に三本、五代目に五本、そして、六代目に八本。これをもって、わたしは自分の乳歯ニ十本すべてを、その代で最もでんでん帝になれる可能性を秘めていた子に分け与えたのである」
「変な増やし方。だんだん遺伝子に刷り込まして慣らしていくにしても、一匹に五本とか八本とかはさすがに多かったんじゃない?」
「踏み入った説明は重要じゃないから省略するが、これはかたつむりにちなんだ法則的かつ儀式的な数の連なりなのだ」
「あー、そうなんだ。なんかそういうのがあるのね」
角巻はもはや突飛な小説を読むような心持で遠影さんの話を聞いていた。彼女が幼少期のどのぐらいの時間をでんでん帝育成計画に費やしていたのかは定かではない。でも、一人の子供が、七、八歳かそこらから始めたひとつの趣味に目標を設定して、それを実現させるために、そこまでの知識と熱量をもって取り組むことなどできるのだろうか。もし語られていることがすべて本当のことなのであれば、プロのスポーツ選手や演奏家、あるいは芸能界や職人などを目指すような並々ならぬ精神力ではないか。
「そして、世代が移るにつれて、走力もどんどん上がっていった」
「だいたい、どのぐらいのタイムで走れるようになったのさ。ええっと、練習台のコースが三十八センチだったっけ?」
「そうだな。計測した中で最も最速のタイムを叩き出したのがやはり六代目で、記録は二分二十三秒だった。つまり、単純計算すると、大会の正式な距離である約三十三センチを二分四秒あまりの速さで駆け抜けたことになる」
「その、かたつむり選手権とやらの大会記録は?」
「樹立が確認されている記録の中だと、最速は二分ちょうどのようだ」
「あと四秒じゃん!」
角巻が身を乗り出して驚嘆すると、遠影さんは眉をハの字に引き下げて困ったように微笑んだ。
「そう、あと四秒。だがしかし、この四秒の溝を埋められずに、でんでん帝育成計画は頓挫し、そのまま幕を閉じることとなった」
「えっ・・・・・・」
「でんでん帝が、わたしの楽園から誕生することはなかったのだ」
遠影さんは教卓に手をついて項垂れると、溜息交じりに言った。
「でもさ、そんなふうに運動神経の遺伝子を受け継がせてまで走力を高めていけたってことは、世界記録は更新できなかったにしろ、大会で優勝ぐらいはできたんじゃない? その世界かたつむり選手権だって、毎年毎年二分きっかしで走れる選手が出てくるわけじゃないんでしょう?」
この話がどこに着地するのか分からず一抹の不安を覚えた角巻は、とりあえず悔やむ遠影さんを慰めるように明るく訊ねた。
「ああ、いや・・・・・・、わたしの楽園でトレーニングを積んだ子たちは、まあ、その・・・・・・公式の大会に出ることはなかったのだ」
「え?」
「なんせ、大会の開催地は遠く離れた東部の村だったし、そこまで行ける旅費はおろか、あの母親を説得できるほどの口実もなかった。言っただろう、引き出しのひとつでかたつむりを飼育すること自体、母親にバレたら殺されかねないような計画だったのだと」
「えっと・・・・・・じゃあ、今までの話は、な、何?」
わけが解らなくなり、角巻は眉を顰めて苦笑した。所々説明を省いた箇所もあったようだから、てっきり乳歯を食べさせた最速の子を選手として大会に出場させていたのだと思っていた。世界かたつむり選手権で大会記録を打破できる個体をつくり出すのが、でんでん帝育成計画ではなかったのか。
「貧乏だったからな。スーパーから譲ってもらったかたつむり用のレタスの外葉を、自分も摘まみ食いするぐらい貧乏だった。楽園の子たちが出場していたのは、その・・・・・・、実際の世界かたつむり選手権と同日にわたしが妄想で開いていた・・・・・・と、”遠影でんでん杯”のほうだったのだ」
遠影さんはそう言うと、これがでんでん帝育成計画の全容である、と言わんばかりにくるりと振り返って黒板に向かい、チョークの板書を黒板消しでそそくさと消した。
🐌
「じゃあ、結局、スネイルコリドーってのは何なのさ」
いったい何の話に付き合わされていたのか、と微かに苛立ちを覚えつつも、角巻は感情を誤魔化すように椅子から立ち上がって訊ねた。
「謎多き場所でな、はっきりしたことはわたしも解っていない」
「そうなの?」
「ああ。どういう場所なのか、なぜこんな場所があるのか、いつからあるのか、どんな条件で顕現するのか。スネイルコリドーそのものの存在意義については、ほとんど解明されていないと言ってもいい」
「だめじゃん」
「強いて言えば、思考の漏斗みたいな世界、だろうか。あるいは、蟻地獄か、袋小路か・・・・・・」
遠影さんは左手で唇の皮を剥きながら言うと、教壇から降りて教室前側の大窓のほうへ歩み寄った。
「思考の、漏斗・・・・・・」
角巻がふと想起したのは、レジャー施設の屋外プールにあるような、すり鉢型のウォータースライダーだった。
身体を仰向けに横たえて高いスタート地点にスタンバイすると、係員に「行ってらっしゃい」と肩を押され、まずは長い長い滑り台のコースを縦横無尽に駆け巡る。激流に翻弄されながらいつ終わるとも知れぬ一本道をリュージュの姿勢で疾走し、最高速度に達すると、最後の最後にはすり鉢型のゴール地点にズドンと放たれる。上縁から勢いよく飛び出した身体は、すり鉢の内側面をぐるぐると回りながらゆっくりと速度を落としていき、やがて中心に空いた穴へすっぽりと吸い込まれ、その下に並々と満たされた巨大プールに落ちて回収される。何かひとつの物事についてふつふつと思考に耽っていると、最初は余計なことも含めて様々な憶測が激しくあちこちへ飛び交うけれども、それらはやがてひと繋ぎの輪となって、堂々巡りに渦を巻き始め、いつしか視野狭窄に陥ってよく解らなくなってくる。スネイルコリドーというのは、考えに考えた先に待ち受けている、結果的によく解らなくなった場所が具現化した精神世界なのかもしれない。
「なぜわたしは生きているのか、なぜ地球はなぜあるのか。なぜ太陽系があって、天の川銀河があって、宇宙があるのか。こういった問いは考えだせば果てがないし、人類の一生をかけて考え抜いたところでひとつの明確な答えに辿り着けるわけでもないだろう」
「うん」
「スネイルコリドーというのも似たようなもので、こういう世界があって、現にわたしたちはこうして巻き込まれてしまっているのだから、これ以上スネイルコリドー自体の起源について仮説を検討しても仕方がないのだ」
「う、うん」
考えても答えが出てこないからと言って、考えても仕方がないということはないと思いたいが、角巻はとりあえず続きを促した。
「だがしかし、まあ、ともかく、わたしはよくここに幽閉されているからな、脱け出すだけならば、方法にいくつか思い当たる節がないでもない」
遠影さんはそう言うと、教室前側の大窓を開け、窓枠に足を引っ掛けよじ登った。そして、そのまま窓をひょいと潜り抜け、駐輪場が広がる暗い夜の向こう側へとっぷりと消えていった。
角巻は驚き、遠影さんの消えた窓まで駆け寄ろうとして机の角に腰を打ち付けた。
「あいたた・・・・・・」
「なるほど、まあ、そう上手くはいかんよな」
鈍い痛みをやり過ごしていると、すぐに遠影さんの声がした。
不思議なことに、声は廊下側のほうから聞こえた。振り返ると、遠影さんがキョロキョロと辺りを見回しながら再び教室に入ってくるところだった。
「窓の先も廊下に繋がってるの?」
「そのようだな。それも、このとおり、ちゃんと二周目のスタート地点に戻された」
遠影さんの平気そうな声を受けて、角巻も真ん中の窓を開けた。
宵闇に包まれた駐輪場は深閑としていて、植え込みのあたりは最近草刈りが行われたらしく、熱い夜気に混じって青々とした草いきれが吹き込んできた。相も変わらず校庭で体力測定の試技を行う四年生たちの姿は、ちゃんとここからの延長線上に広がっている風景に見える。草のそよぐ音、虫の鳴き声、雷管の発砲音、ホイッスルの響き、誰かの雄叫び、どれもこれも現実味を帯びて聞こえてくる。
それでも、窓の外がふつうでないことは、ひと目で判った。何とも受け入れがたい不気味な違和感が、窓枠をみっちりと満たすように張り詰めているのだった。
うすら寒さを覚えつつも、角巻は窓の向こうにそっと右手を伸ばした。
そして、すぐに腕を引っ込めた。指先に、何か、ねっとりとした液体が触れたのだ。その違和感の正体は、つうっと透明な糸を引いて重力に弛み、厭な余韻を残して静かに途切れた。
「うわっ・・・・・・何、これ、唾液?」
仰け反った角巻の反応を窺うようにして遠影さんが左隣にやって来て、教室後ろ側の窓を開けた。
「かたつむりの粘液だな」
「は」
角巻は眼を見張った。それはかたつむりの粘液がどうということに対してではなかった。一度窓の向こうへとっぷりと消えていって戻ってきた遠影さんが、そのべっとりとした粘液に塗れて艶々と光っているのである。
「どういう原理かは解らんが、この窓枠が大きな液晶ディスプレイみたいになっていて、わたしたちはかたつむりの粘液に電光を透過させてつくられたような風景を見させられているらしい」
全身テカテカの遠影さんは頬に付けた乳液を伸ばすように粘ついた顔を拭うと、至って冷静にそう分析した。
「つまり、何? VRみたいな? 幻覚ってこと?」
「幻覚、か・・・・・・。そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるだろうな」
「においは? これ、すぐそこの草の匂いじゃん」
角巻は鼻先を掠める風に神経を研ぎ澄ませて言った。
「映画館の4DXに仕組みは似ているが、そんな科学技術とは別次元の神業だろうな」
遠影さんはぶつぶつと呟きながら窓枠に張り詰める粘膜に左手を突っ込み、湯船の温度を均一にするような手つきで夜をぐるぐると掻き混ぜた。駐輪場や渡り廊下が広がっている暗い外の風景は、湖面に反射する梢や雲のように揺らいで崩れ、左回りにぼんやりと回って渦巻き始めた。
「本当の景色じゃないのか」
「スネイルコリドー内の時間の流れや、反対に、外におけるわたしたちの存在に関しても、現実から隔離されてしまっているのならばどうなっていることやら・・・・・・」
そうだ。そのことについても疑問が溢れている。自分たちがスネイルコリドーに閉じ込められてから、どのぐらいの時間が経過しているのだろうか。現実の一秒と同じ速さでここの時間が流れているのだとしたら、今頃クラスメイトや先生たちは自分たちのことを捜索しているのではないだろうか。失踪したと見做されて、いや、事実失踪しているようなものなのだが、警察なんかも呼ばれて大事になっているかもしれない。もしくは、自分たちは幽体離脱でもしてしまっていて、本当の身体はちゃんと体力測定に参加できているのかもしれないし、そうであってもここに幽閉されている以上は知りようがない。
「とにかく、元の世界に帰る方法を見つけないと」
「そうだな。過去に、三つの扉のうち、一つだけが出口に繋がっていたという脱出パターンがある」
遠影さんは夜を映す粘液の膜から手を引っ込めて言った。
「そうなの?」
角巻は訊き返し、ハッとして教室の窓を見た。
教室には、三つの大窓がある。先ほど遠影さんが入った前側の窓が不正解だったとして、真ん中か後ろ側のどちらかの窓が出口へと通じている可能性がなきにしもあらずというわけである。
「ああ、そうだ。今も、あのときの状況とよく似ている。あれはたしか、三つある扉のうち、一つを選ぶ。するとそのあと、不正解の扉を一つ明かしてくれるというものだった」
「ハズレを教えてくれたの?」
「ああ、粘液の底なし沼に繋がっている扉がひとりでに開いてな。そして、今選んでいる扉からもうひとつのほうへ変えてもいい、と告げられて、わたしは選択を変更するべきか否かの選択を迫られた」
「そ、それで、どうなったの?」
「そのときは選択を変更して、運良く脱出できた」
遠影さんは記憶を確かめるようにふたつみっつと頷いて言った。
「じゃあ、この窓も・・・・・・」
「ああ、教壇側の窓は試したとおり、ハズレだったことが判っている。とすると、残り二つのうち、どちらかが正解に通じているのかもしれない」
「試してみる価値はあるね」
角巻は無意識に真ん中の大窓を睨みつけた。
「前回と違って、今回は二人いる。つまり、この二つの窓のうち一つが出口に通じているのだとすれば、わたしか角巻さんのどちらかは無事に現実世界へ生還できるというわけだな」
「そうだね。それに、ハズレを引いたとしても、すぐに正解のほうへ飛び込んじゃえば良いわけだし」
「飛び込むたびに正解不正解がシャッフルされる、なんてからくりじゃなければな」
「ああ、それはどうなんだろ」
「まあ、二人いるだけ正解を引ける確率は高まるだろう。窓の手前でつべこべ言ってないで、とりあえず試してみるとするか」
「うん、しょうがない、やろうか」
スネイルコリドーから脱け出したい気持ちと、粘液塗れにはなりたくない気持ちがせめぎ合う胸の内を押し殺し、角巻は頬を両手で叩いて意気込んだ。
「一応訊くが、飛び込む窓は真ん中で良いか? そっちかこっちか、場所を入れ替えてもいいぞ」
遠影さんの問い掛けに一瞬だけ逡巡したものの、角巻はひとつ息を吐いてかぶりを振った。
「いや、いい。直感を信じるよ」
「そうか、よし、じゃあいっせーのーでの合図で行くぞ」
「うん、せーの」
「いっせーのーでっ!」
二人は息を合わせて駆けだし、窓枠を乗り越え、その向こうに広がる夜の膜へと飛び込んだ。
ヌメる顔をヌメるジャージの右袖で拭い、左袖で拭い、世界で一番意味のない行為だ、と思いながらさらにもう一度右袖で拭って、角巻は大股で廊下を進んだ。
「悪かった」
二歩後ろをついてくる遠影さんの小さな謝罪が、細く長く伸びるリノリウムの一本道の奥深くへと吸い込まれていく。
「怒ってない」
「怒ってるじゃないか」
「怒ってないって!」
語気を荒げると思いのほか大きな声が出てしまい、角巻はハッとして息を呑んだ。
「・・・・・・すまん」
遠影さんは猫だましを喰らったかのように目を丸く見開いて怯み、笑みを浮かべようとしたのか口元を力なく歪ませてまた詫びた。
「違うの。遠影さんに対してイラついてるわけじゃないの。このスネイルコリドーとかいう意味解んなすぎる場所が悪いだけだから」
結局、二人はスネイルコリドーから脱け出せていなかった。大窓に飛び込むと、二人ともヌルヌルになって、二周目のスタート地点の廊下に転げ落ちただけだったのである。
「そうか、そうだよな」
「三つある扉のうちどれか一つが出口だったってパターンもあったんでしょう?」
「ああ、それは本当なのだ」
「じゃあ、教室の窓もそのパターンで出られた可能性だってあったわけだし、そこは信じるしかないんだから、信じるよ」
「・・・・・・うん、ありがとう」
「別に」
角巻は怒っていないことを示す意味も込めて頬にべっとりと張り付いていた髪を背後へ払い、歩調を緩めて遠影さんと肩を並べた。
しばらくお互いに黙り合って、二周目の廊下を歩いた。景色は一周目と変わらず、角を右に曲がっても一年生のクラスが並ぶ廊下が継ぎ接ぎされたように続いている。
「ひとつ、思ったのだが」
自分たちの教室の前を通りかかったとき、ふと遠影さんが神妙な面持ちで呟いた。
「なになに?」
「ああ、いや、脱出方法とは関係ないことなのだが」
「いいよ」
先ほど強く当たってしまった罪悪感がまだ心残りで、角巻は努めて軽やかに続きを促す。
「その、教室の物を持ち出したら、次の角を曲がった先にある教室のそれってどうなるのかな、と」
「ああ、たしかに」
角巻は思わず笑みを零して遠影さんを見遣った。こんな摩訶不思議な異空間に封じ込まれて、よく解らないけどかたつむりの粘液に塗れて、まだ脱出方法以外にそんなことを考えられる余裕があるだなんて、さすが、身体測定の直前に悪あがきで鉄棒にぶら下がっていただけのことはある。
「よし、試してみるか」
「いいね、やってみよう」
角巻が釣られるように誘いに乗ると、遠影さんは口元をニヤつかせて教室の扉に手をかけた。
「閉まってるな」
「ああ、たしかに」
角巻は言われて気づき、少し驚いた。大窓の向こうに飛び込んで背後の廊下に放り出されたあと、教室のほうは見向きもせずに立ち上がって歩きだしたが、たしか教室の扉は開け放したままにしてあったはずだ。
「さっきの、わたしたちが干渉した状態がそのまま次の教室にも反映されているというわけではないのかもしれない」
遠影さんは目線の高さにある小窓から教室内を覗き込み、そろそろと扉を開けた。
中に入ると、抱いた予感はすぐ確信に変わった。先ほど飛び込んだ三つの大窓は、すべて閉め切られている。遠影さんが書き残したはずのオレンジ色のチョークの跡は黒板になく、ズラした中央前から二列目の椅子はきっちりと机の下に収まっていた。
「ぜんぶ、元に戻ってる」
「ああ、そのようだな」
「と、いうことは・・・・・・」
角巻はちらっと遠影さんに目配せすると、机の間を練り歩き、自分の席へ直行した。机の脇に引っ掛けてあった手提げバッグを持ち上げ、中身に異常がないことを確認して肩に掛ける。
「ぜんぶ持っていくのか?」
教室をぐるりと点検し回ってひとつ後ろの席に来た遠影さんが苦笑を浮かべて言った。
「ああ、確かに、ここで持ち去って、次の教室が元通りになってたら、荷物が丸々二つに増えちゃうのか」
「わたしはこいつを持っていくとしよう」
遠影さんはそう言って、ナップサックの中からあの雑草を入れたビニール袋を取り出した。
「あーね、食べ物ならどれだけ増えてもいいか」
「ボロボロのナップサックが一個から二個になったところでしょうがないからな」
「うんうん、じゃあ、あたしはこの二つかな」
角巻は手提げバッグの中からスマホと財布を取り出した。
次に、三つの大窓を意図的に開け放ち、前と後ろふたつともの黒板に小さく落書きを残した。その確かに干渉したという証をよく目に焼き付けてから後ろの扉を開けて、二人して廊下へ出た。そして、その扉も開けっぱなしにして歩きだし、時折振り返り、靴底の粘液が二人分の足跡となって廊下に残っていくのを確認しながら先の角を曲がった。
やはり、ループするように伸びているのは奇麗な廊下で、教室の扉は見紛いようもなくぴったりと閉まっていた。
扉を開けて教室内へ足を踏み入れると、案の定、三つの大窓はすべて閉まっており、黒板の落書きもなく、二人が乱した箇所はすべて元通りになっていた。そして、さっきの教室から持ち出してきたスマホと財布を右手に握りしめていることを改めて強く自覚して、角巻は自分の手提げバッグを恐る恐る覗き見た。
「ある!」
すべてが元通りに戻っているとおり、手提げバッグの中にはスマホと財布がそっくりそのまま入っていた。
「つまり、わたしたちがスネイルコリドーに閉じ込められたその瞬間の状態が、次の角を曲がった先の廊下や教室でも維持されているというわけだな」
雑草の入ったビニール袋を左手に持つ遠影さんは、自身のナップサックにリセットされていた同じ物を取り出して言った。
「スマホが、二台になった・・・・・・ということは、次の教室で三台目、また進んで次の教室で四台目・・・・・・」
「脱出できたときにどうなっているのかはさておき、このまま無限に増えるとしたら、タンポポのおひたしに関しては死ぬまで事欠かんな」
「そんな美味しい?」
「地元の飯よりは美味い・・・・・・ああ、じゃなくて、無料で手に入るというのが重要なのだ。ほら、あのテレビとかスピーカーとか、プロジェクターなんかも持っていこう。次の教室で元通りになっているのなら、無限に増やして売りまくれるぞ」
遠影さんはウハウハと捲し立てて教室前方へ移り、窓側の隅にある薄型モニターのコード類を引き抜き始めた。
「持っていけたとして、二人でどうやって運ぶのさ」
「これは台座にキャスターが付いてるから転がしていける。プロジェクターはせいぜいわたしと角巻さんで一つずつか。スクリーンのほうは取り外して巻いてしまえば一人四本ぐらいは持てるだろう。あと校内放送のスピーカーはだな―――」
「ちょ、ちょっと待った!」
教室の備品を運び出す算段を平然と立て始める遠影さんを、さすがに角巻は制した。
「ん、どうした?」
こちらを振り返る彼女の顔には、ひと粒の罪悪感も滲んでいない。
「どうしたもこうしたもないでしょう。次のループで元通りになってたとして、スネイルコリドーから現実世界に増えた分まで持ち出せたとして、それは立派な犯罪でしょうが」
「何をどれだけ持っていっても、現実世界でちゃんと元通りになっているのなら誰も困らないだろう。むしろ使える備品が無限に増えたら、わたしたちも学校も、買取屋も解体屋もみんなハッピーではないか」
「現実世界で元通りになってるかどうかなんて保証できないし、そもそもそういう問題じゃなくて、モラルってもんがあるでしょう。他人や公用の物を盗んじゃいけません!」
「なんだ、角巻さん。先生みたいなこと言って」
「常識です」
「はあ、へいへい」
遠影さんは深い溜息をひとつ吐くと、束ねていじくっていたモニターのコード類を名残惜しそうにコンセントへ繋ぎ直し始めた。
角巻は二つ目のスマホと財布をそれぞれ手にし、教室を出た。
遠影さんと足並みを揃えて廊下を歩き、先の角を右折して、やはりループして伸びている廊下を物怖じすることなく進む。自分たちの教室に入ると、やはりそこの手提げバッグの中身は元通りになっていて、角巻は三つ目のスマホと財布を手に入れた。
「財布の中身も三倍になった」
角巻がすべての財布を開けて見せびらかすと、遠影さんは眩し気に、雑草の入ったビニール袋を三つとも顔の前に翳して仰け反った。
「うわぁ! 資本主義の闇だ! 運良く金持ちのソファにふんぞり返れた奴らだけが儲かり続けるように、この世は仕組まれているのだ!」
「そんな大袈裟な・・・・・・って、急にどうした」
「大袈裟などではない。厳然と画された線の向こうでは、同じサイクルを転がしていればスマホと財布が一つ二つ三つと自動的に増えていく富豪市民が悠々と暮らしているというのに、それに対し、線のこちら側にはどれだけサイクルを回せど雑草しか増やせない貧民奴隷が溢れている! 金持ちの息子は親がどれだけ血の滲む苦労を掛けてその地位を築いたのかも知らぬまま、無尽蔵に降り注ぐ金を湯水のように私利私欲へ浪費するばかり。健全に働いて社会に貢献したその対価として報酬を得る、という共同体の基本構造すらもまともに理解せぬまま、そうしてソファにふんぞり返ったまま馬鹿な大人になっていくのだ!
笑止千万! 怪奇千万! 狂気の沙汰である!
日本の賢い奴隷たちよ! 阿保のふりを強いられている頭脳明晰な奴隷たちよ!
今こそ立ち上がるときである! 反旗を翻し、この地獄じみた負のスパイラルを打ち壊すときである!
今ここで立ち上がらなければ、この国は既得権益にしゃぶりつくだけで思考を辞めた肉塊貴族たちで覆い尽くされてしまう! 利権を独占し私腹を肥やすことしか脳のなくなった救いようのない支配者共の尻に敷かれてやるのも、今日この瞬間までにしようではありませんか!」
「ちょっとちょっと遠影さん、激しいって。そんで、さっきからどこ向いて喋ってんの?」
明後日の方向を見上げて高々と中身の薄いスピーチを繰り広げる遠影さんをどうどうと宥め賺しながら、角巻も彼女の目線の先を見つめた。
「ああ、すまない。少し誇張しすぎたか。スネイルコリドーの外にいる奴らを脅かして目覚めさせてやろうと思ってな」
「それスネイルコリドーの外でやらなきゃ意味ないじゃん」
「そのための練習なのだ」
「政治家にでもなるおつもりですか」
「わたしはもうホモ・サピエンスに期待などしていない」
「だめじゃん」
角巻がガックシと項垂れると、遠影さんは冷ややかに肩を竦め、「でーんでーんむーしむしかぁたつむりー・・・・・・」と童謡の『かたつむり』を微妙にズレた音程で口遊みながらふらふらと廊下へ出ていった。そのテンションの緩急こそ狂気の沙汰だよ、と内心でツッコミを入れ、角巻はスマホと財布を両手に三つずつ持っているのを確認してから彼女のあとを追った。
教室から出て廊下をさらに進み、突き当たりの角を右折する。
その先には予想どおり、初期状態にリセットされた廊下が同じように伸びていた。しかし、目を凝らして視線を上げていくと、気持ち、突き当たりまでの距離が僅かに縮んでいるように見えなくもなかった。やはり、かたつむりの貝殻のように、進むにつれて内側へ内側へぐるぐると渦を巻いているようである。
「三周目に突入したようだな」
遠影さんが歩きながら廊下左側に並ぶ突き出し窓へ視線を寄せて言った。
釣られて角巻も左側を見遣った。突き出し窓のひとつ外側には二周目らしき廊下が並走していて、同様に、さらにその廊下の突き出し窓の向こうに一周目らしき廊下が横たわっている。右側の教室も相変わらず、二人がスネイルコリドーに閉じ込められたその時点の状態がループのたびに維持されているようで、扉を開けて中に入ると四つ目のスマホと財布が手に入った。
「持ち物だけが増えてくね」
「ああ、出られなかったら意味がないのだが」
廊下の角を右へ曲がるたびにスマホと財布がそれぞれ三つ四つと増えていく分には良いのだけれども、依然として脱出のヒントは得られていなかった。教室にはこれ以上手掛かりはなさそうだし、廊下左側の壁をよじ登って突き出し窓を潜ってみても、ここから二周目の同地点へ突っ切れるとは思えない。かと言ってこのまま進んでも状況が変わる見込みは薄いし、しかし後ろに引き返す策はすでに打ち砕かれている。
「廊下の窓、入ってみる?」
角巻が打算だと分かって提案すると、やはり遠影さんも同じように思ってか渋い表情を浮かべた。
「ヌルヌルになって、ここに戻されるだけだろうな」
「だよね、あたしもそう思う。じゃあどうする? 万策尽きたような気がするんだけど」
「スマホは繋がらんのか?」
不意に遠影さんが訊ねてきた。
「え?」
「家族か学校か警察か、どこでもいいから連絡できそうか?」
もう試したんだろうけど、とでも結論付けるような口調だった。
「ああ、たしかに、その手があったか」
角巻はそこでようやく、辞書ほどの厚みになって右手に収まっているスマホの役割を思い出した。四台も集めて、どうして、現実世界にいる誰かに通信を試みるという手段が思い浮かばなかったのだろう。
「何のために携帯しているというのだ」
「ごめんごめん。遠影さんの経験上繋がらないのかと、勝手に思い込んでた」
やれやれと呆れたように苦笑する遠影さんを傍目に、角巻は持っていた財布をすべて机に置き、右手と左手で上手いこと入れ替えながらスマホを一台ずつ起動してみた。粘液塗れの指先では指紋認証が読み取られなかったものの、ロック画面にパスコードを打ち込めば四台とも問題なくホーム画面には入れた。
「どうだ」
「・・・・・・だめ、圏外っぽい」
ホーム画面の右上に表示されている電波状況を確認するも、薄々想定はしていたため驚きも落胆もしなかった。
「繋がらないか」
「うーん、一応、かけてみるけど」
角巻はまずチャットアプリを呼び起こしてみたが、やはり通信が息していないのだろう、父と母にメッセージを送っても通話をかけても一向に送信できなかった。続いて電話帳に登録しておいた学校の代表者番号にかけてみたが、やはりこちらも圏外の表示が出るだけで繋がらず、警察にも消防にも連絡は付かなかった。
「うん、だめだな」
遠影さんが察して、それでもすぐ割り切ったように力強く言った。
思い当たる限りを尽くして様々な電話番号にかけ、SNSを開いて書き込みをポストしてみるも、電波が通じていない以上は何をしても無意味だった。勘付いてはいたけれど、と平常心の中に若干のショックが波立つのを感じながら、角巻は遠影さんと共に教室をあとにした。
次の角を右に曲がり、元通りに戻っている教室に入ると、角巻は倒れ込むように自分の席に腰を下ろし、四つずつ持っていたスマホと財布をすべて机の上に並べて置いた。
脱け出せる望みもないままここまで進んでくると、性懲りもなく手提げバッグから五つ目のスマホと財布を持ち出そうなどとはさすがに思えなくなっていた。遠影さんも同じ様子で口数は少なく、ひとつ後ろの席に座れど自分のナップサックの中を覗き見ようともしなかった。
始めは動揺したが、慣れれば恐怖心は薄れた。角を曲がるたびに教室の状態がリセットされていると判ったときは、何かヴァーチャルリアリティのゲームでもしているみたいで楽しいとさえ感じていた。でも、来た道を引き返しても、窓から夜が見えている外へ飛び込んでも、スマホで外部に連絡を試みても、現実世界へ戻るヒントは一向に得られない。
角巻は精神的に疲れていた。廊下の角を曲がって、その先に同じ廊下が続いているのを目の当たりにしようと、またか、いつまで続くんだ、などという憤りも感じなくなっている。このまま果てしなく渦巻くスネイルコリドーを進み続けたら、そう遠くないうちに気が狂ってしまうのではないかという気がしてならなかった。
「どうする?」
財布自体は四つも要らないかと思い直した角巻は、中身の現金を一つの財布にまとめながら訊ねた。
「そうだなぁ・・・・・・」
遠影さんも万策尽きたといった様子で嘆息し、四袋分の雑草を一袋にまとめ始める。
「遠影さんさ、何回か閉じ込められてるって言ってたじゃん?」
「ああ」
「その、三つの扉のうち一つが出口に繋がってたっていう以外に、今までどういう脱出パターンがあったわけ?」
角巻の問い掛けに、遠影さんは荒れた唇の皮をさらに爪で引っ掻きながら悶々と唸った。
「一本のイチイの樹の面倒を四千年見たり、江戸時代の興亡を眺めたり、領土と王位をめぐるある二つの戦争を合計百三十年間ほど経験するというのもあった」
「・・・・・・実際にそれだけの時間をスネイルコリドーからの脱出に費やしたわけじゃないよね?」
「ああ、そうだな。わたしが角巻さんと同世代なのは確かだから、スネイルコリドー内の時間の速さは現実的ではない。でも、相当の時間を味わったような感覚はあったし、戦争の百三十年はしんどかったな」
「どれもこれも、江戸時代でさえしんどそうだけど」
「しんどくないパターンもなくはなかったぞ。同じような話を小説仕立てに書いては消して書いては消してと繰り返したり、地面から生えてくる嫌いな奴の頭をもぐらたたきの要領で繰り返し踏みつけたりな」
ニヤニヤと笑う遠影さんに、角巻は財布の中身をひとまとめに移す作業の手を止め眉を顰めた。
「いや、あんま楽しそうじゃないなぁ」
「地面から嫌いな奴の頭が生えてくるんだぞ? あれはキノコみたいで面白かった」
「嫌いな人とは関わらないのが一番じゃん」
「いやいや、嫌いな奴はとことん破滅に追いやるのが一番だ」
「うわぁ・・・・・・嫌な奴」
「ふふん、だがしかし、脱出の方法として共通しているのは、どれも繰り返しているということだ」
「うんうん。ああ、でも、あの三つの扉のパターンは?」
「ああ、たしかに。どうだろうな、運良く一発で脱出できたというだけで、ハズレを引いたら次回は出口がシャッフルされ、またハズレを、さらにまたハズレを、と繰り返し引き続けるという事態になっていたかもしれん」
渇いたら水をやり、興っては衰え、戦っては鎮まり、生まれては死に、書いては消して、叩いては出てきて、繰り返し、また繰り返す。
スネイルコリドー。今までのパターンのどこにスネイルやコリドーの要素があったのかは判然としないものの、でも、今回はたしかにスネイルコリドーと言った感じで、一年生の教室が並ぶ廊下が、角を曲がるたびに繰り返され、かたつむりの貝殻さながら渦を巻くようにして続いている。
「なるほどねぇ・・・・・・」
特に何かがはっきりしたわけでもないけれど、角巻は適当に相槌を打って、なんとなく一台のスマホに手を伸ばした。
触っていなかったスマホはとうにタイムアウトしたようで、画面はスリープモードに沈んでいた。電源ボタンを軽く押し、画面のロックを外そうと両手の親指でパスコードを打つ。
すると、指の粘液でタッチが誤認されたのか、ロック画面の帳がぬっと上がってスマホの上端へ掃け、画面はカメラに切り替わった。一瞬のシャッターチャンスを逃さないために、また非常時のために、カメラと電話はいちいちスマホのロックを外さなくても使えるようになっている。
「遠影さん」
カメラを前面モードのまま構えて、角巻はくたびれて指遊びを始めていた遠影さんに呼び掛けた。
「ん」
こちらに顔を上げた遠影さんを一枚撮る。シャッター音が鳴り、写真はアルバムへ自動的に保存された。確認してみると、教室の席に座る遠影さんをメインに、背後の黒板や掲示ボードが映っていた。
「カメラは使えるみたい」
角巻はカメラを自撮りモードに切り替えてスマホを左手に持ち替えて、自身と遠影さんが画角に収まるように教室の前方へ高く伸ばした。
「写真には残るのか」
「そうみたい。ほら、ピース」
「う、うん」
「はい、チーズ」
「チーズ」
小声でぼそりと応じる遠影さんをカメラ越しに見て、角巻は撮影ボタンを押した。
「なんでそんな真顔なの」
自撮り画面に映る背後の遠影さんはカメラを見つめながらすべてを悟った魚のような表情を浮かべていて、角巻は思わず吹き出した。
「そんな変な顔してるか?」
「いや、逆におもしろいけどさ。ほら、笑って笑って」
「笑ってるではないか」
「全然だよ。ほら、もっと口角上げて!」
「こ、こうか?」
遠影さんは言われたとおりにぐらりと口角を上げたが、そこに浮かんだのは笑顔とは程遠い形相だった。
角巻は笑顔を保ったままシャッターは切らずに、遠影さんの笑顔が完成するまでしばらく待った。しかし、一向に解れない打製石器のようなその口元を眺めているうちにだんだんと笑いがこみ上げてきて、ついには堪え切れずにスマホを構えていた支えていた左腕が崩れ、机に突っ伏した。
「ねぇ何それ! 全っ然笑えてないんだけど! わざとでしょ!」
「こ、これは笑顔ではないのか」
「変顔やめてってば」
腹が捩れそうになりながらもなんとか体勢を立て直し、角巻はカメラを構えた。
「これが笑顔でないのなら、わたしには無理だ」
そう言って先ほどの打製石器顔をしてみせる遠影さんに再び爆笑を誘われつつ、角巻は眼に涙を浮かべてシャッターを切った。
「分かった分かった。じゃあいいよ、それで。はい、チーズ!」
夜、同じ怪奇に巻き込まれてしまったクラスメイトと二人きりで教室に居残り、ああでもないこうでもないと考察を立て、試行錯誤し、雑談し、謎に記念写真を撮る。始まったばかりの高校生活でこんなことになるとは予想だにしていなかったが、もしかしたらこれは、期待などしていなかったあの、青春というものなのかもしれなかった。
「しかし、記録が残るというのは収穫だぞ」
遠影さんも角巻のスマホを一台手にし、何枚かお互いや教室の写真をパシャパシャと撮り合っていると、彼女が嬉々として言った。
「そうだね。この変な場所に閉じ込められたって証拠になる」
「そうとくれば、とことん証拠を収めてやろう」
遠影さんはそう言うと、スマホを縦に持ち直した。ピコン、と軽い音が鳴る。動画を回し始めたのだ。
「ああ、いいね。どう? 映ってる?」
「ああ、録れている」
「よし、脱出できたときに信じてもらうには、この異世界の異常さをぜんぶ見せるしかないね」
角巻も持っていたスマホで動画を回し、椅子から立ち上がった。
「ああ、やってやろう」
それから角巻は遠影さんと手分けして教室を舐め回すように動画に収め、現状を語りながら今までに見たものや試したことをすべて一つひとつ繰り返していった。
黒板に落書きを残し、教室の大窓の枠に張り詰める夜の粘膜をしっかりと撮影して、スマホを落とさぬように注意しながら駐輪場のほうへ勢いよく飛び込む。粘液に塗れて背後の廊下へ転がり落ちると、角巻はスマホのトーチをつけて前方を明るく照らし、左側の突き出し窓の外に別の廊下が一本二本と走っている異様な光景を記録しつつ、遠影さんと肩を並べて時計回りに歩み始めた。
「あの・・・・・・い、今、ループする校舎の廊下を三周してきて、またひとつ角を曲がったところで、こうして緊急で動画を回してるんですけど」
単純に状況を伝えようと語っているだけなのに、毎晩欠かさず視聴している習慣なのか、口調がなんとなく動画配信者っぽくなってしまう自分が少し気恥ずかしかった。
「ノーカットでお送りしています」
雰囲気に乗じてそんなふうに続ける遠影さんに羞恥心を煽られるも、角巻は口元に笑みを零しながら動画に向かって話し続ける。
廊下の角をまた曲がり、同様に続いている同じ廊下をしっかりと動画に収め、教室の状態が元に戻っていることも一点ずつ丁寧に確認していく。嘘ではないことを裏付けるために、先ほどとは違う落書きを黒板に残し、自分の手提げバッグからスマホを抜き取って、教室を出て廊下を進む。また角を曲がった先にある同じ廊下を映し、同じ教室に入り、何もかもが元通りに戻っていること、それによってスマホが一つ二つと増えていくことを見せて語った。この異様な光景が動画に記録できていることに内心驚きつつも、平静を装ってその流れを繰り返した。
四周目に入ったところで、今度は遠影さんを置いて、角巻は来た道を逆回りに引き返した。突き出し窓の外を並走する廊下が一本分増えているのも逃さず録り、先ほどまで自分たちはそこにいたのではないか、という見立てを必死に言葉を探して説明しながら足早に戻る。しかし、一周引き返すとそこには遠影さんが立って待っていて、自分たちは三周目以前の地点には戻れなくなってしまった、という現象をバッチリと撮影して証拠に残した。
「電波も圏外で誰とも連絡つかないし、未だに脱出方法が判りません」
別のスマホで圏外の表示をしっかりと見せつつ、角巻は饒舌に語り続けた。
「同じような経験をしている方からのコメント、お待ちしております」
「それはユーチューバーすぎるじゃん」
「ネットにあげないのか? こんな世にも奇妙な現象を押さえたんだ。金に換えないでどうする?」
「うわぁ・・・・・・じゃあ、脱け出せたらチャンネル作るぅ? これ一本だけのチャンネル?」
「尖ってて良いな。絶対バズるに雑草二袋分賭けよう」
「要らねぇよ」
動画を回しながら喋り続けるというマルチタスクに脳が慣れてくると、次第に場数を踏んだ動画配信者にでもなったような気分が湧いてきて、いくらか昂揚感すら覚えた。また角を曲がった先が元通りにリセットされていることを示しながら前進して、五周目に入るとまた一周引き返し、くどいようだがさらに一周追加で引き返してみて、やはり一周前以前には後戻りできないらしいということを動画で述べた。
六周目に差し掛かると話すこともなくなってきて、角巻も遠影さんもスネイルコリドーとはまったく無関係の雑談に興じたり、しばらく無言で進み続けたりした。そうこうして七周目を回り、突き出し窓の向こうを並走する廊下の本数が増えていることや教室内がリセットされていることなどを同じように記録し終え、教室から出てまた廊下を進もうとしたとき、不意に遠影さんが立ち止まった。
「果たして、これはいつまで続くのだろうか」
「判んない。でも、進むことしかできなさそうじゃない?」
「どっちか一人が全力で進み続けて、もう一人が全力で反対方向に戻り続けるというのは、まだ試していないが、どうだろう」
遠影さんが提案するその方法は、角巻も内心では思いついていた。でも、見込みが薄いと思っていたわけではないものの頷きがたく、いやぁ、と首を傾げてみせた。
「正直、一人にされるとまずいかも」
角巻がこうして動画配信者ぶるほどに正気を保っていられるのは、間違いなく、遠影さんというクラスメイトでありスネイルコリドーの経験者であり、この異様さを前にしてもどこかお気楽な感じを醸し出す存在が隣にいてくれるからこそだった。どちらかが進んでどちらかが戻るというその作戦は、これまでの試行錯誤による論理で考えると、進んだほうは八周目九周目と進み続け、戻ったほうはずっと七周目に留まり続けることになる。
もしかしたら、二人がお互いに反対方向へ突進すれば空間に歪が生じて、その綻びから晴れて脱出できました、なんて奇蹟が起きるのかもしれない。けれども、今ここで一人ぼっちにされてしまえば、心が恐怖に潰されてしまうのは眼に見えていた。
「よし、じゃあ、あとはもう同じなので、何周まで行けるのかダイジェストでお送りします」
遠影さんは角巻の心境を察したように眼を細めると、一転して明るい調子で軽やかに宣言した。
「ダイジェスト?」
「と言っても、ノーカットノー編集でお送りするので、今から全力で走り続けます」
「え?」
「よーい、どん!」
遠影さんの合図で、角巻は反射的に前のめりになって駆けだした。
遠影さんは身軽だった。三歩先を走る彼女の背を追うようにして、角巻もループする廊下を全力で周回した。
全力と言っても五十メートルを疾走するようなダッシュではなく、息が持続すようにマラソンの感じで走った。長い距離を走ることそれ自体よりも、スマホで動画を撮影している右腕を前方に掲げて固定しながら走る体勢のほうが苦痛だった。
走る。ただひたすらに、走る。脚に溜まってくる重い疲労感とは裏腹に、八周目、九周目、十周目と進むにつれて、やはりカタツムリの貝殻のように、廊下一本の距離は確実に縮んでいった。
始めから数えて、廊下のループが十三周目に入った。
走ってひとつ、走ってふたつと右に折れ、最終コーナーに差し掛かる。眼がぐわんぐわんと回るその勢いのまま、無我夢中で角を曲がる。
その先に伸びる短い廊下の果てに、十四周目はなかった。
🐌
「ん、なんだ?」
そう言って急に立ち止まった遠影さんの頭に顎をぶつけ、角巻は舌を噛んだ。
「いったたた・・・・・・」
「ああ、すまん」
「いい、けど・・・・・・えっ?」
息も絶え絶えに顔を上げて、角巻も異変に気づいた。十四周目が続くかと思われた十三周目の果てが、教室の大窓に張り詰めているそれような、ねっとりとした粘液の膜でみっちりと塞がれているのである。
行き止まりのような雰囲気。しかし、どことなく、そうではないような感じが伝わってくる。
「ついに来たか?」
「これが出口?」
「判らん。だが、明らかに・・・・・・」
「うん、これまでと違うよね」
そう思う何よりの証拠として、粘膜の上部には非常口に似た緑色のマークが描かれていた。実際の非常口のサインと異なるのは、人型のピクトグラムがかたつむりのシルエットに置き換えられているというところだけである。
何が異変を出現させるトリガーだったのかは定かではない。とにかく走るというのが功を奏したのかもしれないし、動画を撮影するというのがひとつの条件だったのかもしれない。もしくは、この廊下の渦が最初から十三周という、ただそれだけだったという可能性も大いにあり得るだろう。
「出口だよな・・・・・・出口、なのか?」
遠影さんは突き当たりを塞ぐ粘膜に視線を留めたまま苦笑し、ゆっくりと歩みを再開して、一握りの重たい息を呑んだ。
「・・・・・・どうだろう」
角巻も恐る恐る前方へにじり寄った。一周目や二周目とは異なり、渦巻の十三周目ともなると、廊下の突き当りはもう目と鼻の先である。
「・・・・・・入る、しかないよな」
とにかく、廊下のループは終わった。
しかし、問題が終わったわけではない。
「うん」
「いや、ここで引き返したらどこへ戻るのか、というのも気になるが」
「怖ろしいこと言わないでよ。明らかに出口だよって教えてくれてるのに」
変なことを言いだされる前に、角巻は非常口じみたマークを動画上でしっかりとズームして語気を強めた。
「だ、だよな」
「じゃあ、一緒に」
「ああ」
角巻は十三周目の廊下を歩き切り、遠影さんと肩を並べて突き当たる粘膜の前に立った。一度だけ振り返って、背後をしっかりと動画に収めつつ、スマホを握ったまま粘液に触れる遠影さんの手元も忘れずに映す。
「・・・・・・壁をすり抜けるって、ファンタジーの有名作品であったよね」
「ああ、あったな」
「なんだっけ、4と3分の9番線みたいな」
「それじゃただの7番線じゃないか」
「あそっか」
思い出せないままカメラを向けると、遠影さんはこちらに目配せをして小さくひとつ頷いた。
「・・・・・・よし」
「せーの」
「いっせーのーでっ!」
教室の大窓の向こうへ飛び込んだときとは打って変わって、二人は揃ってふっと呼吸を止め、仰け反らせた身体を粘膜の壁へぬるっと押し込んだ。
突然、視界が真っ白な光に包まれた。
網膜を貫かれるような明かりに脳が眩み、我を見失った身体がふらりとよろめいた。
眼をきつく眇め、二重三重と踊りだした景色の輪郭が再び一線に治まってくれるまでやり過ごし、ゆっくりと顔を上げる。
視線が低い。どうやら、揺らいだ拍子に前につんのめり、倒れ込んでしまったようだった。
「角巻さん!」
遠影さんの声。
「だ、大丈夫」
なんとか言葉を返す。
「これは、どうなっているのだ」
痛みにも似た激しい白の中に茫洋と色彩が浮かび上がってくる。
「どうって・・・・・・えっ」
角巻は光に慣れてきた眼で辺りを見渡し、愕然とした。
遠くのほうに、フェンスで区切られたテニスコートが見える。そのあたりの上空から降ってくる白い光は、照明塔の放つ常夜灯だった。
足下、というか、口元は砂で、心地良く湿っており、その地面には白い線が横切るように引かれている。首を高く伸ばして視線を上げていくと、少しばかり先にも同じようなラインが引かれているのがうっすらと見えた。その手前と奥の白線を繋ぐようにして、間には幾筋もの白い直線が走っており、それは五十メートル走のコースそのものであった。
校庭で間違いない。どうやら、校舎から外に出ることはできたようだ。
しかし、なぜ―――
なぜ、自分が無数の巨大なかたつむりに包囲されているのか、次はそれが謎だった。
かたつむりたちは闘志を燃やしていた。
その熱に炙られるように、なぜか頭上の夜空が濃い紅色に染まっている。
確かに、運動場に立っている。しかし、隅のほうではなく、どうやら中央に寄せ集められているようだ。遠方から降り注ぐ白光は、見紛いようもなくテニスコートとの境界に佇む照明塔の明かりである。
これは、なんだ。辺りは何やら競争が始まる様相を呈している。五十メートル走が今から行われるとでもいうのか。
しかし、走者は見知った一年生たちではなく、教室の大窓から見えていた四年生たちでもなく、何なら人間でもなく、かたつむりたちである。それに、どういうわけだか、かたつむりと一緒になって角巻も走らなければならない雰囲気に満ちている。
「角巻さぁん!」
大きな歓声が降ってきて、角巻はびくり驚いた。
遠影さんの声に、空気が震える。しかし、その姿はどこにも見当たらない。
「遠影さん! どこなの! 何がどうなってるの!?」
「上、上!」
その言葉を受けて、角巻は思いきり首を反らせて空を見上げた。
「どこ?」
「目の前にいる! 角巻さんが見ているのは、空ではなく、わたしが着ているジャージなのだ!」
「えぇっ!」
「かたつむりには大きすぎて、どうやら顔までは視界に入り切らないらしい!」
かたつむり?
角巻は身震いして、恐る恐る首を後方へ曲げ、背後を振り返った。
自分の背中には、貝殻がついていた。
仰天のあまり声も出せずに戦慄いていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「さぁ始まりました、第七回遠影でんでん杯決勝! 今年も、各村で鍛え上げられた珠玉の代表選手たちが、一挙にこの場に集結しております!」
「え、なに? 遠影でんでん杯・・・・・・ってまさか」
戸惑う角巻を差し置いて、どこからともなく沸き立つ観衆の歓声が響いてくる。彼ら彼女らの姿も、自分の身体がかたつむり台のサイズ感、というかかたつむりそのものになってしまっているがゆえに、相対的に大きすぎて視界に収まり切っていないようだった。
「昨年の公式大会における優勝タイムは七分二十四秒。公式最速記録は二分四秒。非公式ながら樹立が確認され残っている世界記録は二分零秒となっております。さて、公式大会の裏で密かに開かれているこの遠影スネイル杯。今年の非公式の十五インチを世界最速で駆け抜けるのは、いったいどのかたつむりでしょうか! それでは、スタートラインから今にも走り出そうと疼いている、やる気満々のベイビーたちの中から順番に、今年の注目選手を紹介していきます。まずは、彗星のごとく現れました去年の優勝者―――」
「ねぇ! 遠影さん!」
奮って注目選手とやらを紹介し始める実況らしき声を無視して、角巻は臙脂色の空に向かって呼び掛けた。
「落ち着いて。よく聞いてくれ! わたしの望みは、どうやらきみに託されたようだ!」
「望みが託された? どういうこと?」
「ああ、ああ、そうだったのか・・・・・・、まさか・・・・・・きみが―――」
呆然とする遠影に、実況の声が覆いかぶさる。
「そして! 次に紹介するのは最後にして最注目のこの選手!
幼きトウカ・トオカゲ監督がかつて専属契約を結んで育て上げた一族の、なんとその末裔に当たります。つきっきりで面倒を見ながら大会に向けて猛特訓を行い、六世代に亘ってその秀でたフィジカル遺伝子を継承させた末に、一度は自宅の茂みに手放し離れ離れになってしまった、心の友とも言える存在。
誰もが計画は頓挫したと諦めた、監督本人でさえも諦めたあの日から、数年の月日が流れました。
しかし、なんと、監督の意志は、大いなる自然の手によって受け継がれていたのでした! 選ばれし六代目の最速が自然に帰り、そして産み落とし、爆誕した、最速の凌駕を狙う奇蹟の七代目が、満を持して大会初登場―――」
実況の熱い声を受け、角巻は悪い予感を抱いた。なぜだか、観衆の好奇に満ちた眼差しが、一斉に自分へ降り注がれたような気がした。
急な展開に理解が追いつけず固まっていると、遠影さんがとどめを刺すように、ひどく柔く冷たい声で言い放った。
「きみは、人間ではなかったのだ」
会場のボルテージが一気に上昇した。
頬にぶつかる熱量の密度が変化したようで、なんとなくそれが解った。
スタートが近い。どうやら自分は注目の選手のようで、この十五インチらしい長いコースを走らなければならないようだった。
「時間になりました。それでは、監督の皆さんは、選手たちをスタートラインにつかせてください」
実況の声が言うと、砂にしがみついていた身体がふいと持ち上げられた。
途轍もなく強大な力に何が起こったのやらと周囲を見渡すと、他のかたつむりたちも同様に宙に浮かび上がっていた。覚束ない足下に焦燥感を抱いて身体をぐにゃりと捻ってみると、背負っている貝殻が何かに引っかかっているらしいというのが見て取れた。
「大丈夫だ、角巻さん」
遠影さんの声が、パニックに振り乱れる頭をふわりと包み込むように空から降ってくる。彼女が背中の貝殻を摘まんでいるのだった。
「大丈夫って、何が? どこが?」
「深呼吸だ。約十三インチを一分台で駆け抜ける、その景色だけをイメージするのだ。大丈夫、きみにならできるさ。今この瞬間、他の誰よりも“でんでん帝”に近しいきみになら」
「いやいや、そういう問題じゃなくてさ!」
抵抗も虚しく、角巻の身体は再び地面にぴとっと下ろされた。
口元を横切るスタートラインは、舐めてみると美味しかった。
これは、石灰の粉。貝殻の形成に必要な、カルシウムだ。本能的に、摂取しなければならないものなのだと、身体が判っている。
しかし、コースを縁取っている縦の白線は、なんだか嫌な感じがした。首を伸ばし、においが判る小さな手でちらっとその一端に触れてみて、角巻は仰け反った。
臭い。鼻の奥が焼き切られるような電流が駆け巡る。身体中の水分がすべて搾り取られてしまうような気がした。つまり、最も嫌悪すべき物質、塩なのだ。
角巻はスタートラインを舐めとりながら気持ちを落ち着かせ、遠影さんに押さえつけられている合間に奇天烈な現状を整理した。
どうやら、自分は人間ではなく、かたつむり界最速を凌駕する見込みのある、奇蹟の七台目、つまり、遠影さんが幼いころにつくった楽園で育ったかたつむりたちの子孫らしい。
世界最速のかたつむりをつくるという“でんでん帝育成計画”が頓挫して、自然に返された六代目から生まれた自分は、かたつむり競争に向けて受け継がれ、極限状態まで高められてきた運動神経の遺伝子をこの身に宿し、すくすくと成長していった。
そして、今日、先代たちの育ての親である遠影さんと再会を果たし、スネイルコリドーという思考の漏斗のような異域に閉じ込められた。
スネイルコリドー。それは、考えに考えた先に待ち受けている、結果的によく解らなくなった場所が具現化した世界。
そんな世界で、今、遠影スネイル杯、つまり、でんでん帝育成計画の成果を確認するための、世界かたつむり選手権が開かれる現地へ経済的に行けなかった遠影さんが妄想で催していたレースの幕が開こうとしている。
だとすれば、このスネイルコリドーから脱け出す唯一の方法、それは―――
「同心円状になっている円いスタートラインとゴールラインは石灰の粉で引かれている」
遠影さんが耳打ちするように言った。
「うん、でも、スタート地点の円から放射状に伸びているレーンは塩のラインで区切られていて、かたつむり一匹が前進する分だけの幅しかなさそう」
「Uターンなどを試みようものなら、塩が身体に付いて大変なことになるぞ。かたつむりの軟体部分の九十パーセントは水分なのだ」
「解ってる。レーン両端の塩、あれはやばい」
かたつむりの本能で知覚した嫌悪を、浸透圧という科学の知識で補う。塩分濃度の高いほうへ水分が移動するという現象。そんなものを、九十パーセントが水でできている身体が喰らってしまえば、自分はたちまち干上がって消えてしまうではないか。
角巻は集中を高めてゴールラインを見据えた。
二分零秒を打ち砕く。すなわち、約十三インチを一分台で駆け抜ける。
でも、それは本物の世界かたつむり選手権、ワールドスネイルレーシングチャンピオンシップのほうの記録だ。
遠影スネイル杯のコースは、十五インチ。でんでん帝育成計画において遠影さんが使っていたというローテーブルの縦の長さだ。自分の先代たちは、みんな、しのぎを削ってこの距離のタイムを少しずつ縮めてきた。
六代目が、十三インチ換算で二分四秒。世界記録まで、あと四秒及ばなかった。その無念を抱えたまま、でんでん帝育成計画は中断を余儀なれ、膨大な歴史の山に埋もれてしまうかと思われた。
積み上げてきた先代の意志が、今、自分に託されているのだ。
「それでは参りましょう!」
実況の声に周囲が地鳴りのように湧く。
「わたしが手を離したら、ゴールまで一直線だ。いいか?」
耳元に吹く遠影さんの囁きに、角巻は強く頷いた。
「うん。ここまでわけ解んなくなったんなら、もう走るしかないから」
「位置について―――」
「「「レディ、ステディ、スロー!」」」
手を叩くような音がパチンと鳴り響いて、ふっと身体が身軽になった。
熱い電光が脳裏を切り裂いて迸る。角巻はスタートラインを掻き散らし、真っ白に弾けた視界の中、ゴールめがけて一目散に砂を蹴った。
地面の白線がぐるぐると渦を巻き、迫っては遠ざかる。
肋骨を蹴破らんとする勢いで躍り狂う鼓動に吐きそうになりながら、角巻は上半身を前のめりに傾げ、膝に手をついて酸素を喰らった。振り回されるがままに重い頭を揺らし、がむしゃらに荒い呼吸を繰り返していると、だんだんと眩暈は治まり、太腿と腹筋に雪崩れ込んできた熱と疲労感はするすると足先から抜け落ちていった。
砂を踏む足音がサクサクと近づいてきて、よろよろと顔を上げる。眼の前に立っていたのは、クラス担任の早川先生だった。
「角巻は、えー・・・・・・っと・・・・・・七秒六九ぅ、おお、ギリギリ十点だな」
ストップウォッチの記録をひとつ遡り、早川先生は感心したように言った。
「ああ、はい」
「足速いじゃないか。中学では何かスポーツやってたのか?」
「いえ、万年帰宅部ですけど」
「ええ、そうか。もったいない。陸上とか興味ないか?」
「ええ・・・・・・、な、ない、です」
呆然としつつやり取りに応じていると、早川先生は惜しいとでも言いたげに口を酸っぱく窄めて笑った。
「そうかそうかぁ。まあ、いいや。自分のタイム、十分の一は繰り上がって七秒七な。体育係が記録つけてるから、報告するように」
「あ、はい」
角巻は会釈を返し、深く息を吸って呼吸を整えた。早川先生は再びストップウォッチを操作し、背後のほうへ歩み去っていった。
「エリー、九秒五八、四点!」
ハッとして振り返ると、遠影さんはうつ伏せになって校庭の端にぺたんと伸びていた。
スタートラインのほうで、雷管がパチンと爆ぜた。角巻は汗ばんだ顔をすでに汗を吸っているジャージの袖で拭い、遠影さんが横たわっているほうへ捌け、冴え渡った眼で周囲を見渡した。クラスメイトの女子たちが牧歌的な歓声を上げながら五十メートルのコースを駆けてくる。校庭の中央のほうでは、男子たちが順番に円内に入り、ハンドボール投げの試技を行っていた。
「遠影・・・・・・さん?」
呼び掛けると、遠影さんはむくりと身体を起こして砂を払った。
そして、数瞬の沈黙のあと、静かに口を開いて言った。
「足くじいた・・・・・・」
「・・・・・・ああ、そういえばサンダルだったね」
「くそぅ、いててて・・・・・・だが、どうやら脱出には成功したようだな」
体育係を任されているクラスメイトの姉御肌のヤンキーにタイムを報告すると、角巻は遠影さんと校庭の端の石階段に肩を並べて座り込み、大半の子がそうしているのと同じように、一年生全員の計測が終わるまでぼんやりと待った。
体力測定は終了間際である。記録用紙には、身長体重をはじめ、握力やら立ち幅跳びやら長座体前屈やら、シャトルラン以外の項目はすべて記録がつけられていた。周りの会話を盗み聞く限り、シャトルランは時間の都合で明後日の体育の時間を使って行われることになるらしい。
「なんか、疲れたね」
「走ったからな」
遠影さんが低い声で気だるげに吐き捨てる。
「うん・・・・・・」
続々と巻き起こった不可解な現象を整理する余裕もないまま、角巻はぼんやりと校庭を眺めた。
雷管が鳴り、眼の前を二、三人のクラスメイトが横切る。姉御肌のヤンキーが駆け抜けていったから、女子の計測はこれで終わりのようだ。ハンドボール投げのエリアのほうでも、ぞろぞろと撤収の雰囲気が漂い始める。
「謎が残るな、いろいろと」
「うん、ほんとうに。逆に、解ったことって、ひとつでもあったのかな」
「どうだろうな。白昼夢にしてはリアルだったが」
夢にしては見る物触れる物に鮮烈な現実味があったし、現実にしてはそれはそれは異様な体験だった。夢と現実に片方ずつ脚を捕られていたような、というか、終盤は脚すらなかったような気がする。
流れている夜間定時制の時間に意識が戻ってくると、確かに手にしたはずの妙な記憶は凄まじいスピードを纏って、脳裏に立ち込める霞の彼方に紛れ去っていった。
「あたし今、ちゃんと人間、だよね」
自分の身体を抱きしめるように二の腕を擦り、角巻はその両の手のひらを見つめた。
「・・・・・・角巻さんは、自分が人間として生まれ落ちて、人間として育てられ、今も人間として生きていると、そう確信しているか?」
「・・・・・・そんなふうに訊かれると、あんま自信ないな」
角巻は膝を抱え、背を丸めて俯いた。
五十メートルを死に物狂いで走った。その記憶はないけれど、確かに走ったのだと思う。笑ってしまうほど必死に走って、七秒七という、女子の最高得点を取ってしまった。中学まではせいぜい八秒台前半ぐらいのものだったはずなのに。
どうして、そんな力が湧いたのか。それは、世界最速で十三インチを駆け抜けるためだ。
十三インチというのは、どれぐらい長い、あるいは短い距離なんだっけ。よく分からないけれど、でも、自分は確かに、この距離を最速で走り抜けるという使命を託されていた。
「あたし、世界最速になれたかな」
「なれたと思いたいな。スネイルコリドーから脱け出せたというのが、何よりの証拠なのだから」
五十メートルを走っていた瞬間、もしかしたら自分は、人間ではなかったのかもしれない。そんなことが起きていても、何ら不思議ではない事態に巻き込まれていた。そのことだけは、少しだけ、解ったような気がする。
伸びやかなホイッスルの音が、深い夜の底に鳴り響いた。
「はぁい、じゃあ撤収ぅ! 体育係はハンドボールの籠だけ倉庫に仕舞っといてぇ! 一組は十五分後にホームルーム始めるからなぁ!」
じっとりとした生温い風が髪を攫い、クラスメイトがわらわらと校舎へ戻っていく。
「帰ろう、角巻さん」
遠影さんが重い腰を持って立ち上がり、手を差し伸べてくる。
「うん、帰ろ帰ろ」
その手を取って角巻も立ち上がり、なんとなく繋いだまま、二人して交流の薄いクラスの輪に紛れて教室へと引き返した。
Tシャツにジーンズという体育が終わったあとのいつもの服装に着替えると、終業のチャイムとともにホームルームを挟み、解散となった。
手提げバッグを開くと、スマホと財布は一つずつしか入っておらず、アルバムを見返しても写真も動画も残ってはいなかった。遠影さんも同じだったらしく、一袋分の雑草を確認したのち、ビニールの持ち手部分を固く結び、大事そうに、荷物の上にふわりと載せるようにしてナップサックに仕舞い込んだ。
「遠影さんって、いつも何で来てるの?」
正門を出て帰途につくと、角巻は街灯の明かりを頼りに近代文学の代表作を読み耽りながら歩く遠影さんに訊ねた。
「環状線一本だ」
「え、そうなんだ。あたしもだよ」
角巻は驚いたが、今まで登校するときに一度も遠影さんの姿を見た覚えがないことのほうが不思議だった。
「そうか」
あまり興味がなさそうに、遠影さんは相槌を打つ。
「駅から学校まで、バス使ってない感じ?」
「毎日歩いている。バスに乗る金はないからな」
遠影さんの返答に、今まで出会えなかった理由に合点がつく。
確かに、貧乏だと言っていた。汗だくなはずなのに臙脂色のジャージ姿のままなのも、もしかしたら、着替えを用意できるほど服の持ち合わせがないのかもしれない。
「ちなみに、環状線は内回り? 外回り?」
「内、外・・・・・・? あの、左回りだ」
「あ、じゃあ内回りか。残念、あたし反対方向だ」
「そうか」
遠影さんはさほど残念がる様子はなく、小説のページに視線を落としたまま駅のほうへ歩き続ける。
角巻はバス停を通り過ぎた。もしかしたら、もう赤の他人の関係に戻ってしまったのかもしれない。そんなことを考えると、偶然一緒に変なことに巻き込まれただけだしな、と割り切ってしまえる反面、やはり少しだけ淋しかった。
「ねぇ、明日からも、駅まで一緒に歩いて帰らない?」
「えぇ? またどうして?」
「いいでしょ?」
「まぁ、好きにすればいいと思うが、バスのほうが涼しいし速いし良いではないか」
遠影さんの口調には妬み嫉みがなく、徒歩よりバスのほうがマシだろうというただ純粋な意見らしいことが窺えた。
「バスだってそんな良いもんじゃないよ。まず時間どおり来ないし、帰宅ラッシュだから死ぬほど混んでるし。って、それもそうなんだけど、そうじゃなくて・・・・・・」
「じゃなくて?」
遠影さんの本当に分からないとでも言いたげな視線を受け、数瞬だけ反応に困ったものの、角巻は胸に膨らむこの思いを載せることができそうな言葉を必死に探した。
「ほら、まだスネイルコリドーの謎についてまだまだ話し足りないし、それに・・・・・・」
「それに?」
「でんでん郷の長老とかでんでん博士のこととか、もっと、聞かせてほしいからさ」
角巻が言うと、遠影さんは眼を見開いて息を呑んだ。
ぽとりと沈黙が落ちた。
この一瞬に生まれた間を、角巻は一生忘れないだろうと思った。
そんな重要でかげかえのない不自然を誤魔化すように、すぐに遠影さんは快活な笑い声をあげた。
「なんだ、そんなことか。何も、こんなくらい帰り道でじゃなくたっていいのに。まだまだ高校生活は始まったばかりなのだから、くだらない話は心ゆくまで聞かせてやるぞ」
「ふふふっ、そいつは楽しみだ。大いに期待してるぞ、遠影さん」
高らかな哄笑を重ねて響かせながら、角巻と遠影さんは帰宅ラッシュに荒れる都心のビル群を目指した。
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駅構内に入り、旬のメロンをふんだんに盛り込んだロールケーキが並ぶショーケースを物色しながら、犇めく雑踏に身を任せて環状線の改札を通り抜けた。
プラットホームへ続く大階段を降りると、ちょうど外回りの電車が出発してしまい、内回りの電車が滑り込んできたところだった。遠影さんがナップサックの背負い心地を直し、少しだけ早足に先頭車両のほうへ向かう。
電車が止まると、線路とホームを仕切るホームドアが滑らかにスライドし、車両の扉がプシューと噴気して開いた。最寄り駅の出口が近いのだろう、遠影さんは一両目に並ぶ人々の列に加わった。
「じゃあ、また」
遠影さんが振り返って言った。
「うん、また明日」
角巻は二、三歩退いて手を振った。
乗客の列が動き出し、遠影さんは再び小説を開いた。
「明日になれば、また会えるよね?」
不意に胸の底にぽっかりと空洞ができたようなうすら寒い心地がして、角巻は苦笑して呟いた。
「・・・・・・ああ、間に合わせてみせるさ」
遠影さんは小説から視線を上げることなく答えて、内回り電車の車内へと消えていった。