【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第2話
2 嫌われ者のガマ子
季節を三ヶ月ほど前倒ししたかのように、ムヨクさん宅の居間は温かいを通り越して、仄かに蒸し暑かった。
空調が利いている。天井を見上げると、そこには長方形のスリムなエアコンが埋め込まれていた。外界の気候とは切り離された、動物園の爬虫類館をそのまま再現したかのような環境に、思わず感嘆の溜息が洩れる。
「あ、ガマ子ちゃんって、ペット大丈夫?」
ギリギリ手遅れのタイミングで、ムヨクさんが私に訊ねる。
「はい、平気です。平気は平気ですけど、でも、まさかこんな……」
驚愕する私の反応が期待通りだったのか、ムヨクさんは満足気に低い声で笑った。
「ふふん、びっくりした?」
「びっくりしますよ! 言っといてくださいよ!」
思わず前のめりに叫んで、その場に呆然と立ち尽くしていると、踵に硬い感触が当たった。床を見下ろすと、実は生きていた大きなリクガメが私のすぐ足許まで来ていた。
「そっちの子は、ケヅメリクガメのコハクちゃん」
「コハクちゃん」
「そう、甲羅が琥珀みたいだから、コハクちゃん。うちの一番の古株レディだよ」
「大きいですね」
頭から尻尾の先まで、甲長だけでも四十センチはあるだろうか。私が肩幅よりも大きく足を広げると、コハクちゃんは迫力満点の甲羅を揺らしながら、ドシドシと股下のトンネルをくぐっていった。
「コハクちゃんはまだ三歳だから、これからまだまだ大きくなるよー。最初はほら、こんなにちっちゃかったのにねぇ」
そう言いながら、ムヨクさんは彼女の足許にぺったりとくっついていたハンドボールほどの小さなリクガメを拾い上げ、我が子を慈しむようにその甲羅を優しく撫でた。最初は、と言うからには、おそらく同じケヅメリクガメの、生まれたての子なのだろう。
「ええ、すごいな。たった三年で、こんなに成長しちゃうんですね」
「ふふん、触ってみる?」
ムヨクさんに、小さなリクガメを差し出される。
「え、いいんですか?」
そう言いながら、私は恐る恐る手を伸ばす。
ムヨクさんの両手に抱かれたその子は全く警戒する様子もなく、甲羅から首をグッと伸ばして辺りをキョロキョロと見回している。
人の手で育てられているから、人に慣れているのだろう。分からないなりに、そんなことを思った。
が、しかし、そんなことはなかった。
私の手の掌にポンと乗った瞬間、その子はシューシューと荒い鼻息を立て、首も手足もすべて甲羅の中に引っ込めてしまった。
「え……、あ、あれ……?」
「あ、ハンドクリームとか塗ってる?」
「い、いえ、何も……」
カメの威嚇は初めて見たが、本能的に分かるものだ。私は今、明らかに威嚇されている。嫌です、不快です、触らないでください、と言われている。
「そっかぁ、じゃあ、ガマ子ちゃんの手はお気に召されなかったみたいだね」
平然と言い放って、ヘラリと目を細めるムヨクさん。
「えぇー……、そんなぁ……」
小さな生命を前に膨らんだ感動が、みるみると萎んでいく。
「あはは、冗談だよ、冗談。爬虫類ってのは犬とかと違って、普通はそんなふうに怖がるもんなんだよ」
「そ、そう……ですよね」
そう言って苦笑しながらも、私は内心ショックを受けていた。
思えば、義姉が結婚して男の子が生まれた時も、抱っこさせてもらったら大泣きされたっけ。仔猫を飼っていた友人の家に遊びに行った時に、凄まじい剣幕でシャーッと牙を剥かれたこともある。
「やっぱり、あたし以外の人はだめなのかも。あたしはなぜか不思議と、ここにいるほとんどの子には、お迎えした時から怖がられないんだけど」
私の思い出など知る由もなく首を傾げるムヨクさん。
なぜだ。種の壁を越えて、赤ちゃんに不人気のガマ子。私の身体からは、赤ちゃんの敏感なセンサーだけがキャッチできる不快な光線でも放たれているのだろうか。
「コハクちゃんに、おやつでもあげてみる?」
ムヨクさんは小さなリクガメとエサ皿のような物を砂の敷かれたケージに戻すと、私に言った。裏庭で何かを水洗いしていたのは、どうやら、生き物たちの飼育環境のメンテナンス中だったらしい。
「大丈夫ですかね……」
リクガメの赤ちゃんにすら嫌われたことにすっかり気が沈んでしまった私は、ムヨクさんの足許に擦り寄るコハクちゃんを見て溜息を吐いた。
「だいじょぶだいじょぶ! コハクちゃんはいつも、手から食べてくれるもんねぇ?」
ムヨクさんがしゃがんで、話しかけながらその大きな甲羅や長い首を撫でても、コハクちゃんは怯えるどころか、むしろ気持ち良さそうに目を細めている。どうやら本当に、ムヨクさんに対しては警戒心を微塵も抱いていないらしい。
「リクガメって、何食べるんですか?」
「ふふん、それはねぇ……」
そう言って、ムヨクさんはひらりと身を翻して立ち上がり、流れるような足取りで裏庭へと出ていった。彼女の手招きに応じて、コハクちゃんを蹴ってしまわないように注意して跨いで縁側へ出ると、そこで私は目を見張った。
こじんまりとした庭は、瑞々しい赤の色彩に溢れていた。
「トマトですか」
その赤は、丸々とした艶やかなトマトだった。
「そう、正解!」
「す、すごいですね! 家庭菜園だなんて!」
「こんだけいると、お金かかるからさ。節約できるところは、極力ね」
見渡すと、どうやらトマトだけではない。ほうれん草? 小松菜? 一目では区別できないが、庭は綺麗に区分けがなされており、様々な葉物の野菜も植わっていた。
ムヨクさんは赤く熟したトマトを三つ収穫すると、先ほどのホースで水洗いして、ひとつを私に手渡してくれた。
振り返ると、コハクちゃんも庭まで出てきていた。縁側の端には緩やかなスロープが掛けられており、そこから庭に降りられるようになっているのだ。
「じゃあ、まず見ててねー。まぁ、お手本と言っても、コハクちゃんの目の前に差し出すだけなんだけど」
ムヨクさんはしゃがみ込んで、コハクちゃんに獲れたてのトマトを差し出した。
掌に乗ったトマトに勢いよく齧り付くコハクちゃん。瞬間、甘酸っぱいトマトの飛沫が豪快に弾け、初夏の陽射しを浴びてキラキラと煌めく。どうやら、ムヨクさんの手とトマトの区別はついているらしく、コハクちゃんは彼女の指を咬まないよう器用にトマトだけを突いて、あっという間にひとつを食べてしまった。
「おぉ……」
思わず私は小さく拍手した。生き物が美味しそうに物を食べる。これだけのことが、こんなにも感動的だなんて。
「手だけ咬まれないようにねー」
次は、私の番。ドキドキしながらしゃがみ込んで、ムヨクさんに倣ってトマトを掌に乗せて、コハクちゃんの前にそっと差し出した。
可愛い。リクガメが、こんなにも愛嬌に満ちた生き物だとは思いもしなかった。こんな愛くるしい姿を見せられてしまったら、ついつい、飼ってみたいと思ってしまうではないか。
クンクンとトマトの匂いを嗅ぐコハクちゃん。その鼻先は、ゆっくりと私の指先のほうへ移っていく。そのまま私の小指を数回突いたコハクちゃんは、そこでガッと大きく口を開いた。
「……ん?」
「えっ?」
ムヨクさんの声に、私は反射的に手を引っ込めた。掌からトマトが滑り落ちる。それにびっくりしたコハクちゃんも、咄嗟に甲羅の中に頭を引っ込めてしまった。
温い風が庭に吹いた。
ゆっくりと、私はムヨクさんに顔を向け、何も言わずに首を傾げた。言われたとおりにやりましたよね? と確認を求める。
「今……、咬まれそうだったね」
「なんでですかぁ! 話と違うじゃないですかぁ!」
嘆きながら視線を戻すと、コハクちゃんは地面に転がったトマトを嬉々として齧っていた。
「ガマ子、嫌われてるなぁ」
そんなことをぼやきながら、のんびりと三つ目のトマトに歯を立てるムヨクさん。
「そんなぁ! コハクちゃんだけは信じてたのにぃ!」
動物の本能にひたすら嫌悪される、ガマ子なのであった。