【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第4話
4 タッピーとムヨクさん
さらりと凪いだ湖のように穏やかだった我をも忘れて、その内側から滲んだ野生の本能を存分に曝け出し、際限なく湧く食欲の儘に猛然とムヨクさんの指先から餌を喰らうタッピー。
それは眺めていて、実に、愛くるしいものであった。
「はぁーい、タッピー……あぁ、食べれたねぇ、よくできました! うんうん、上手いねぇ、偉いねぇ、美味しいねぇ!」
ムヨクさんはタッピーが細かく刻んだ野草の欠片に齧り付くことができると、慈愛に満ちた猫撫で声をあげて大袈裟に褒めちぎる。
「ムヨクさん、会社員の時から、タッピにこうやってご飯あげてたんですか……?」
「えっ? そうだよ?」
タッピーは餌の山から、ひとつの欠片も自分の口に運ぶことができない。そのため、ムヨクさんは一粒一粒、タッピーの口の大きさに合わせて刻んだ小さな野菜を指先に乗せて、そっとタッピーの口元まで近づけて、タッピーが餌の山を食べ終えるまでひたすら寄り添う。自力で物を食べられない赤ちゃんリクガメを、会社員だった時から毎朝、彼女は懇切丁寧にお世話していたのだ。
「……すごい、ですね」
皿にほんのこんもりとしか盛られていない餌の量でも、タッピー目線からすれば随分と大きな山に見えるだろう。それをタッピーが食べ切るまでにどれぐらいの時間がかかっていて、会社員だったムヨクさんは一体毎朝何時に起きていたのか。想像するだけで、途方もなく過酷な生活リズムだったことは容易に分かる。
「コハクちゃんは、ちっちゃかった時でもここまで下手じゃなかったから、ちょっとびっくりだよね」
あっけらかんとしてそんなことを言いながら、ムヨクさんは少しだけ疲れたように笑った。
もしかしたら、他人の目を気にせず誰よりも遅く出社して誰よりも早く作業を切り上げて退社する、というスタイルの裏には、ムヨクさん自身がそうしたかったのではなく、愛すべきタッピーにそうさせられていたという事情があったのかもしれない。そんなことまで考えが及んでしまうほどに、ムヨクさんの指先に縋るタッピーには、自立して生きる力があまりにも欠けているように思えた。
「癒されますね」
「でしょう?」
ナメクジが地を這うぐらいのスピードで、地道に餌の山を平らげていくタッピー。その必死な姿を今にも抱きしめんとする勢いで、称賛の声を掛けるムヨクさん。育てる意志をもってタッピーを迎え入れてしまった以上、彼女は自分の決めた覚悟と誠心誠意向き合っている。だが、そのどこか報われない面影は、有能社員として周囲から重宝されていた会社員時代のムヨクさん自身と重なるものがあった。
「ご飯、私もあげてみていいですか?」
気づけば、私はそんなことを言っていた。どちらかといえば、餌やり体験をしたくなるほどタッピーに愛着が湧いた、というよりかは、無言でムヨクさんとタッピーのやり取りを眺めている時間にいてもたってもいられなくなった、というほうが本音だと思う。
「いいよいいよぉ?」
快く場所を譲ってくれたムヨクさんに代わって、私はタッピーのケージ内の餌皿に盛られた野草の、そのひと欠片に手を伸ばした。
ムヨクさんの時とは打って変わって、私の手が近づくと、それだけでタッピーはシューシューと嫌悪の意を捲し立てた。また、ちくりと針を刺されたかのように、温かな気持ちの風船がするすると萎みそうになる。それでも、その空気口をふっと押さえて、私は指に乗せた餌の欠片をタッピーの目の前に差し出した。
「タッピー……、ほら、ご飯だよー」
「おいでおいでぇ」
私とムヨクさんが呼び掛けると、首の半分だけを甲羅に隠して警戒していたタッピーは餌を認識したのか、私の指先にそっと鼻先を寄せてくる。コハクちゃんの時みたいに咬まれないか、と不安になったが、私は震える指先に力を込め、静かにその時を待った。
かぷり、と軽い音が脳内に木霊した、気がした。
「あ、食べたっ!」
私はタッピーをびっくりさせないよう、小声で囁いた。
「偉いぞタッピー! 美味しいねぇ! ほら、ガマ子も」
ムヨクさんは再び、タッピーを褒めに褒めちぎり、私にも促す。
「ちょっと、大袈裟じゃないですか?」
「そんなことないでしょう。食べ物を上手に自分の口に運べないと、この子は生きていけないんだから」
何気なく零れ落ちたムヨクさんの言葉に、私はハッとさせられた。
ああ、そうか。もしもタッピーが、ムヨクさんみたいな無償の愛を根気よく与えてくれる人間の飼育下ではなく、食べるのが下手という理由でペットを見殺しにするような人の支配下、あるいはもっと過酷な自然環境下に生まれてしまっていたら。
「……」
間違いなく、この子は生きられない。生きていくためには、食べなくてはいけない。それなのに、こんな具合では、タッピーは自然の中に生まれれば、まず生き残れないだろう。
もう一度、私は黙ったまま餌の山から欠片を一粒摘んで、タッピーの前に差し出した。すると、それを眺めていたムヨクさんは、優しく目を細めて静かに続けた。
「自然から距離を置くことを選んだあたしたち人間は、弱肉強食の理を唱えちゃいけない。唱える資格もない。そう、あたしは思うの」
「……弱肉強食を唱える資格、ですか」
「そう、弱い者が淘汰され、強い者が生き残る。でもそれって、変じゃない? あたしたちはこの身体一つで自然を生き抜けるほど強くはないけれど、生き物の中では知能が抜群に高いから、弱者を守る術も知ってるし、その技術ももってる。それはつまり、自分を生かしながら他の生き物も生かしてあげられる、ってことでしょう? であればさ、あたしたちの力は、タッピーみたいな、生きたくても生きられない弱い子たちを救うために使われるべきだと思わない?」
途轍もなく長い時間をかけて、一食分の餌を腹に収めていくタッピーは、今、誰よりも生きている喜びを実感しているのだろうか。
「たしかに、それはそう思います。弱者の犠牲の上に強者が繫栄するのは、あくまでも自然界の話ですよね。私たちは、それとは別の道を辿って、弱者を救う世界を創っていけるかもしれません」
リクガメのタッピー自身が何を思っているかは計り知れないが、今日もご飯にありつけてよかった、生きていてよかった、なんて思っていてくれたら、私も嬉しい。
「そう、自然界が弱肉強食なのは、たぶん、システム上、そうすることしかできないからなんじゃないかな。あんな過酷な環境じゃあ、自分とその家族を養うので手一杯で、他の不遇な生き物の面倒まで見れないんだよね。その時の地球環境に適応できた遺伝子が生き残って進化してきただけ、みたいな話もあるけど、そんな空虚な地球の事情は一旦置いといてさ、今目の前で死にそうな子をどうにかして救えないか、ってことをあたしたちはもっと……ああ、ごめんね、なんか熱くなっちゃって、きしょいよね」
「いやいやいや、全然、全然ですよ! めちゃくちゃ素敵な考えで、聴き入っちゃいました」
「そう? 嬉しい、ありがとね。そんなこと言ってくれる人、結構珍しいからさ……」
そう言って眉をハの字に曲げるムヨクさんは、どこか悔しそうだった。
突き詰めれば、人間の究極のエゴだ。選り分けて、救いたい命だけを救っている、ただそれだけ。でも、そう言って一蹴して、そのまま弱者を見殺しにすることは、誰にだってできる。人間の賢さと愚かさは、他の生き物の生死を簡単に操ることができてしまう。だからこそ、私たちはその力で、どうすれば報われない命の数を減らしていけるのか、というほうを考えていかなければならないのかもしれない。
「まぁ、そんな大それたことを言っておきながら、あそこの蛇やオオトカゲたちを生かすために、沢山のネズミやひよこを殺してるんだけどさ」
そう吐き捨てて、ムヨクさんは背後の壁に並んだ巨大なケージの数々を指差して、悲しそうに口元を歪めて笑うのだった。