【短編小説】terrarium
三十代中盤にもなって、小学生時代から付き合いのある旧友と小学生時代の遊び、すなわち湾内の浜辺で石拾いをする日が来るとは思いもしなかった。
「お、これこれ、こぉれなんか良いぞ」
波打ち際で腰を屈めていた岩田輝彦が高らかに声をあげ、ごつごつとした土色の礫岩を掲げてみせた。
「そんなんがいいのか?」
持丸和哉は波に洗われて角が取れた、白くつるりとした卵型の御影石を拾い上げる。
「無骨で味があるだろう」
「ううん……、そうかぁ、解らんなぁ」
どれだけ月日が流れようと、どれだけ空が澄み渡っていようと、月曜日の朝は常に暗鬱な空気が地上を満たしている。外の雑踏を支配しているのは、車のエンジンとクラクション、青信号の合図、電子広告の音声、それに革靴とヒールの足音ぐらいだ。満員電車に乗っていても、車両の駆動音と風を斬る音がひたすら地下構内に反響しているだけで、人の息遣いひとつ聞こえてこない。
「水槽の片隅にこういうのが一点あるとな、なんかこう、うわぁ、っと際立つんだよ」
目立ったら負けゲームでもしているみたいだった。ぼくは無害です、わたしは善良です、なり得るとしたら被害者の側です、と言わんばかりの静寂が肩にのさばって、首に凭れかかって、誰の視線とも重ならないように躱し合う。南極のペンギンのように人間が犇めいているのに、自分以外の存在は恐ろしいほど遠くて薄くて、誰もが張り詰めた空気の中で窮屈に身を縮め、息を潜めている……ように見える。大学を出てからつい半年前まで、かれこれ十数年、持丸は目覚まし時計に叩き起こされては、そんなどんよりと重苦しい毎朝を迎える日々を送っていた。
冬の気配が薄れゆく三月の終わり。ついこの前まで七時過ぎだった日の出はもう五時台で、そよそよと吹き抜ける風が梅の香りを運ぶ季節になった。海岸沿いに点々と並ぶ冬枯れの街路樹は、その枝先にぽつぽつと芽吹いたピンクの蕾を綻ばせはじめ、爛漫と咲き乱れる頃合いを今か今かと待ち侘びて揺れている。
輝彦とは中学まで一緒だったが、高校進学で離れ離れになった。そして、掬った砂が指の隙間からさらさらと零れ落ちるように三年が過ぎると、輝彦は地元の国立大理系へ、持丸は高校まで理系選択だったのにもかかわらず東京に出て私立大の文系に進学した。それでも、圧倒的な暇が人生を支配していたうちは中学までと変わらず、月一でサウナ、夏はキャンプ、冬はスノーボード、と定期的に会っては何かしらで遊んでいた。社会人になると持丸はそのまま東京で就職して、以降は仕事と自宅の往復の日々に忙殺され、輝彦とは年に一回でも会えれば御の字というほど急激に疎遠になっていた。
「つーかテル、ここの海岸の石って持ち帰っても大丈夫なのか? 占有離脱物横領罪とかになったりしねぇか?」
「ああ、法律のことはよく知らんが、個人の趣味で使用する分には問題ないらしい。県庁都市交通管理局港湾課のねぇちゃんが言ってた」
「管轄は知らんけど、確認したんか。そういうとこ意外としっかりしてるよな」
「ああ、まあな。こんなしょうもない石拾いごときで犯罪者扱いされたかねぇからよ。おまけに我が県の港湾管理局に美人でボインなねぇちゃんがいるってのも知れたし、すべてがエクセレントだ」
海面に照りつける茜色の朝日を浴びて逆光になった輝彦は中肉中背でだみ声だが、出てくる言葉も口調も少年のそいつそのままで、無限に膨れ上がるような眩しさと哀愁に思わず持丸は目を眇めた。
「んなこと言ってるとセクハラで干されるぞ」
石拾いするから暇なら手伝え、と輝彦からいつものぶっきらぼうなメッセージを受け取ったのは、ああ、あれはいつだったか。一週間か二週間ぐらい前、いや、雪がちらついていたから、もしかしたら三月に入るよりも前のことだったかもしれない。
人生で六社目の転職先を辞め、持丸は初めて次の転職先を決めることなく父方の祖母が遺した家に暮らしの拠点を移した。就職活動をする気力も湧いてこずにダラダラと籠りがちの日々を送っているから、すっかり時間の感覚が失われてしまっているようだ。
「かっはっは、すっかり社会人病だな、カズ。そんなこといちいち気にしはじめたらな、極端な話、この世から容姿とか性別に関する言葉なんてなくなっちまうぞ」
「美人でボインは極端でもなんでもなくてだな、もう俺たちは若いで済まされる歳じゃねぇんだ」
「おっさんは肩身が狭ぇなぁ、って? え?」
鼻であしらうように快活な笑い声をあげる輝彦は、少年のころから有象無象と蔓延る俗世の“社会問題”を堂々と茶化せる奴だった。次に彼は、くっだらねぇことでぎゃあぎゃあ騒いでんじゃねぇよってんだ、と言う。
「くっだらねぇことでぎゃあぎゃあ騒いでんじゃねぇよってんだ」
「だろ?」
持丸は左脚をあげて大きく振りかぶり、それでいて軸足はよろよろふらつきながら、不格好なサイドスローで卵型の石を海へ投げつけた。石は二回、三回と水面を跳ねると、押し寄せた白波に呑まれて沈んでいった。
「ああ、コツは腕の角度だ。もっと水面と平行に投げたほうがいい。あと、もうちょっと平べったくて三角形の石を選んでだな、ええ、握るときに人差し指の第一関節を角っこに添えて、石を放す寸前にクイッと手首のスナップを利かせると―――」
滔々と語る輝彦の左手から放り投げられた石は、五回跳ねて水底に消えた。
「やけに詳しいくせに、俺とあんま変わんねぇじゃねぇか」
「おまえは三回、おれは五回、この二回の差はでかいぞ。それに、賭けてもいいが、波が引くタイミングに合わせれば、あと五回は跳んでたからな」
輝彦の洋画の吹き替え版で誇張された似非欧米感満載の口調に持丸は吹き出して、それから二人で波打ち際をゆっくりと歩き回った。
しばらく、お互いの拾い上げた石についてやいのやいの言い合ったり、小学校時代によく足を運んでいた中華屋が潰れただの十年間で起きた地元の変遷を輝彦から聞いたり、かと思えば港湾管理局の美人でボインなねぇちゃんの話に戻ったりした。
「最近のAVはシリーズ物一辺倒でつまんねぇよな」
「解る解る。組織立って、掃いて棄てるほど新人が量産体制に入ってから、もういちいち追うの辞めたわ」
「どのメーカーも女優の使い方が下手なんだよ。とりあえずテンプレートにねじ込んどけ、じゃなくてよぉ、もっと、なんつーの、一人ひとりの素材を活かす方向にもっていかないと」
「数撃ちゃ当たる方式なんだろ、ピカソみたいに」
「ピカソ? 『ゲルニカ』の人だったか?」
「そう。絵画も版画も彫刻も手広くやって、生涯で十五万点ぐらい生み出してんだ。んで、結局バズったのが、あの『ゲルニカ』ってわけ」
「はあ、なんか、解んねぇな、人間って」
誰もいない海岸で朝っぱらから酒も入れずにそんな話にまで発展しかけたところで、二人は桜並木の海岸通りに引き返した。
二、三個ほど各々が気に入った石を拝借して、産地直売で賑わう魚市場を少しだけ覗いて、漁師食堂でお茶漬けを掻き込む。小腹が満たされると、二人はそのまま輝彦の自宅へ直行した。
輝彦は、少しばかり親が裕福な私立大生が住むような駅チカの賃貸に住んでいた。
廊下に上がってすぐの左右に一つずつ扉がついていて、さらに少し進むと右側には奥まった通路が伸びていた。真っ直ぐ行った先にあるであろう居間は襖で塞がれていて、左右に二部屋、そして右側の奥まった通路の先は浴室とトイレに枝分かれしている間取りである。
「あれ、ずっと実家暮らしだったよな?」
持丸は確認した。輝彦は地元の国立大の修士まで進んだが、その間も、ここから歩いて十分程度の距離にある両親の実家で暮らしていたはずだ。
「あ? ああ、まあな。院出て会社入って、どうだ、そっから三年ぐらいはそうだったか。けどよ、まぁ、二十代後半になって、周りが結婚やら出産やらでざわつきはじめた頃だ。結婚する気はさらさらなかったが、俺も二、三人の人間を生かせる収入ぐらいはあるし、親との絡みも毎日するもんじゃねぇと思ったんでな」
「なるほどな」
ここら一帯の地価なら家賃十五万前後といったところだろうか、と適当に見積もりながら、持丸は輝彦に招かれるがまま靴を脱いだ。
開かれた襖の先は、十二、三帖ほどのリビングだった。バルコニーからレースのカーテンを貫く白い光が眩しい。それでも、驚きのあまり持丸は瞠目して、半ば呻くような声を洩らした。
両側の壁際に三段のスチールラックが隙間なく並べられ、展示施設か何かのように凝った小さな立方体の水槽が整然と飾られているのである。
ある水槽は沢を模したように密林の中に苔石と小川が造られ、またある水槽は岩壁に穿たれた洞窟のように岩が積まれてレイアウトされている。柔らかい土がこんもりと敷き詰められた草木の生い茂る湿地もあれば、ごつごつとした巨岩にゆらゆらと水草やイソギンチャクが揺らめく海底もあった。
「すっげぇ、すげぇなぁおい!」
少年のような反応が出てしまうのも無理はない。なんせ、輝彦は小学生時代、百を超える数のいろいろなカブトムシを飼育しており、過去に実家へ遊びに行った際の彼の自室も似たような昆虫館になっていたのだ。
「随分とクオリティが上がってるだろ」
輝彦は羽織っていたジャケットを脱ぎながら平然と言う。
「ああ、段違いだ。それも驚いたが、こんなにも趣味が加速してるとは思わなかった」
「完全に沼だな、こりゃ。理学部生物科で修士取るぐらいにはハマってんだから」
「にしても凝り過ぎだろ」
沢の水槽にはサワガニが、海の水槽にはクマノミが、洞窟の水槽にはヤモリが放たれている。湿地のレイアウトでは、サンビームスネークなる虹色の光沢が照る鱗を纏った地中性の蛇が、土を盛り上げてごそごそと蠢いていた。部屋の温度はエアコンで25℃に設定されており、水温も大体そのぐらいになるように調節されているようだ。
「あとはジャングルのヤドクガエルとハナカマキリ、庭のカタツムリ、渓谷のミヤマカラスアゲハ。この四つのケージがそっちの空いてるスペースに埋まれば、思いつく限りで手に入れたい地球は揃うんだがな」
指折り数えてニヤリと笑う輝彦を傍目に、持丸は一つひとつの水槽を覗き込んでは、はぁ、とも、ほぇ、ともつかないような感嘆の溜息を吐くことしかできなかった。
「いやぁ、テル、俺は嬉しいよ」
ひと通り狂気じみた傑作の数々を見て回り、ようやく持丸はこみ上げてきた懐かしさをどっと吐き出すように語気を強めた。
「なんも変わってないだろ、二十年前から」
「ああ。でも、あのころよりとんでもなく洗練されてるのが最高に良いな」
「まだまだ極まるぜ。早速だが、拾ってきた石使って、何かレイアウトしてみるか」
「おう、やろうやろう」
こんな、世界中に散らばっている小さな大自然を切り取ったような美しい造形を見せられては、自分でもやってみたいと思わずにはいられない。
「その前にコーヒーでも飲むかな。ああ、こっちから見て左側が寝室だから、テレビでもゲームでもつけといてくれ」
輝彦はそう言うとキッチンへ移動し、コーヒーメーカーに二人分の豆と水をセットしはじめた。
「了解。石はどこ置いときゃいい?」
「右側が作業部屋だ。卓袱台があるから、そこにでも置いといてくれ」
「おっけ」
持丸は居間から出て廊下を渡り、まず右側の扉を開けた。作業部屋という名にふさわしく、四方には水槽や流木、石や草などが種類ごとに分けて収納されており、中央にはナイフや彫刻刀といった加工道具が置かれた机がひとつ鎮座していた。ガスコンロにボンベと鍋というバーベキューセットもあるが、一体何に使うものなのだろうか。
ひとまず拾い集めた御影石を卓上に置いて、反対側の部屋の扉を開ける。そこは至って普通の独身貴族の寝室といった感じで、まず大きなベッドが目に入った。そして、組み立て式のL字デスク、その上にはパソコンとモニター、ゲーム機のコントローラーなどが散乱していて、手前に高そうなゲーミングチェアが置いてある。
ゲーム機を起動すると、二十歳ぐらいの頃に流行ったアクションゲームの最新作がモニター画面に映し出された。臨場感溢れる大自然の中で素材を集めて装備を作り、強大なモンスターへ立ち向かっていくというコンセプトで、大学時代に社会現象を巻き起こしたものだ。起動すると聞き馴染みのある雄大なメインテーマソングが流れ、懐かしすぎて思わず頬が綻んでしまった。
両手にマグカップを持った輝彦が、メロディを口遊みながらご機嫌な調子で部屋に入ってくる。持丸は差し出されたマグカップを受け取り、熱いブラックコーヒーを一口啜ると、本日何回目かの昂った息を洩らした。
「うわぁ、グラフィックめっちゃ綺麗になってる! 今こんなふうになってんだな!」
「ゲームやってないのか?」
「大学出てからはもうめっきりやらんくなったなぁ。懐かしすぎて泣けてくるわ。ちょっと触っていい?」
「もちろん。椅子も座ってみ、快適だから」
勧められて、慎重にコーヒーマグをデスクに置き、持丸はゲーミングチェアに腰を沈める。
「あっはぁ……」
変な声が洩れ、背後のベッドに座った輝彦はコーヒーを吹きそうになった。
コントローラーを握り、簡単なクエストで軽く操作を確認する。最新版はキャラクターのモーションが増え、馴染みのないモンスターも多く、持丸はほとんど全く未知のゲームをプレイする感覚だった。
「いやぁ、やっぱ楽しいな。俺も買おうかな」
「来年新作出るらしいぞ」
「まじか! うわぁ」
いくつかステージを探検していると、草原や砂漠など、居間に並べられている生き物たちのケージを切り取ったような風景が数か所見られた。どうやら、全部が全部というわけではないが、輝彦はこのゲームの世界観からも水槽レイアウトの要素を取り入れているらしい。武器の扱いに小慣れてきて、当時から知っているモンスターを何種類か討伐し、本作のラスボスらしい巨大な竜にコテンパンにされたところで、持丸は興奮冷めやらぬ心地でコーヒーを飲み干した。
「よぉし、カズの腕が当時とそんな変わらないことも判ったし、そろそろ始めるか」
「悪かったな、当時から足手纏いで」
地団駄を踏んでひとしきり笑い合うと、輝彦はベッドから立ち上がり、二人分のコーヒーマグを回収して寝室を出ていく。持丸もゲーム機の電源を落としてあとに続いた。
作業部屋に移ると、卓袱台の上にはガスコンロと鍋がセットされており、満たされた水がポコポコと煮え立っていた。ゲームに夢中になっていて音にまったく気づかなかったが、どうやら拾ってきた石を熱湯で茹でて殺菌していたらしい。
「この鍋で飯食ってたりしないよな?」
「食ってそうに見えるか?」
「ああ、食ってても全然驚かないな」
「はっは……、ふう、よし、じゃあまずは、っと」
輝彦は手揉みしながら不敵な笑みを浮かべると、ガスコンロの火を切って机の端へ押し退けた。
「もうどんな感じが決まってるのか?」
持丸は訝しみつつもレイアウト作りに話を戻す。
「いや、まだなんも考えてない。カズは? 拾ってきた石と、なんかその辺にある草とかも取り入れるとして、なんか見えてくるか?」
訊き返されて、持丸は部屋の四方を取り囲む夥しい素材の数々をぐるりと眺めた。
うねるように湾曲した特徴的な流木、風情のある苔石、シダ系の植物、浮き草、玉砂利……。背景として映える物から床材に使用する物まで、基本的に水槽で自然風景を再現するのに必要とされる素材はあらかた揃っている。しかし、素人の眼には何をどう組み合わせれば見栄えのいい構図になるのか皆目見当もつかなかった。
「こういうのはな、最初からすべてを描くのは無理だからよ、方向性だけ決めて、あとは手当たり次第触ってみてだぞ」
「そうだよなぁ」
迂闊に的外れな発言はできない、と無意識に尻込みしていた持丸は、なんとか平静を装って考え続ける。
そういえば、ここでは嫌味な上司も遠巻きに煙たがる同僚も理不尽な客もいなかった。誰の顰蹙も買うことはないのだ。安心して言葉を発していいのだぞ、持丸和哉。
そんなことを考えて乾いた笑みを内心で浮かべたところで、鍋の湯に沈む礫岩に視線が流れ着いた。輝彦が嬉々として掴み取った、ごつごつとした粗い肌触りの、切り立った崖のような土色の石。あるひとつの景色が、ふと持丸の脳裏に降りてくる。
「何作りたいって言ってたっけ?」
持丸は輝彦に訊ねる。
「何って?」
「ほら、あと四つの地球が揃えば、とかなんとか言ってただろ」
「ああヤドクガエルとハナカマキリ、カタツムリ、あと―――ミヤマカラスアゲハ」
「それだ!」
持丸は輝彦の語尾に重ねるように手を叩いて叫んだ。
「渓谷のミヤマカラスアゲハ。ほら、テルが拾ったこの石、谷とか崖っぽくないか?」
「ああ、まあ、たしかに見えなくもないか……」
勢いづく持丸に反して、輝彦は顎に親指を当てながら冷静に素材を見渡して答えた。港湾管理局の美人でボインなねぇちゃんを語るときとは違い、もう徐々に構想を練り始めているような職人の眼差しである。
「うし、じゃあ、いっちょやってみるかぁ」
しばしの沈黙を破った輝彦は左膝をタンと叩くと、胡坐を解いてするりと立ち上がった。中肉中背のおっさんなのに、少年のように滑らかに、流れるように動ける奴だ。
「ミヤマカラスアゲハって、そもそも飼えるのか?」
無職になってげっそりと筋肉も脂肪も落ちた長身痩躯をよろめかせて、持丸も踏ん張って立ち上がる。
「蝶は神経質だからな。完全変態の工程をすべて含めても寿命は二ヶ月弱といったところか。芋虫は大食漢で葉と糞の取り換えが大変だし、蛹化不全を起こすと悪いし、成虫は二週間ぐらいしか生きない上に、その間に花の蜜をたくさん吸ってパートナーを見つけて卵を産んでと大忙しだ。風通しが良くて広い空間を飛び回る生き物だから、渓谷で羽化する瞬間を見れれば、あとは外に放してやりたいがね」
図鑑の説明をスラスラと諳んじるように語る輝彦の口調からは、人間のエゴで箱庭に閉じ込めることに対する罪悪感や葛藤が苦々しく滲んでいて、同時に、自分の意思ひとつではどうすることもできないほど絶大に膨らむ生き物への愛情がひしひしと伝わってくる。
「じゃあ、割と広くて、かつ縦にも長い水槽が良いんじゃないか。ほら、あれなんかどうだ?」
こいつと友達になれてよかった、と持丸は心から思った。
「ああ、いいな」
輝彦は棚の隅から背の高いガラスケージを引っ張り出してきて、円卓の上に置いた。
居間のスチールラックの最下段には飾れそうなほどの高さだし、切り立った渓谷をレイアウトするのにもぴったりな、真新しい水槽である。アルコール除菌シートで軽く内側の埃を掃除してから、持丸と輝彦はああでもないこうでもないと二人して構図を話し合った。
アゲハ蝶は黄檗や山椒といったミカン科の葉に卵を産み付け、幼虫はそれらを食して大きくなるらしい。そんな情報を仕入れた輝彦は早速スマホからネット通販にアクセスし、試験的に黄檗の苗木を注文した。
卵を孵化させるところから育てることを想定し、まずは水槽の右奥に水辺の水を循環させるための濾過装置を設置する。次に、水槽の手前側に玉砂利を敷き詰め、左側にはさらに土を盛り重ねた。
「手前中央に砂利の水辺、左側が陸地で、右側から背面をぐるりと囲うように崖が切り立っているような感じを想定してるんだが」
玄人の顔色を窺うように持丸が言うと、輝彦はうんうんと何度も頷く。
「センスまるだ」
野球ゲームか何かの選手育成モードでそんな特殊能力があったな、と思いつつ、持丸は水槽の左側に流木を何種類か立て掛けてみた。輝彦が拾ってきた土色の礫岩も陸地にどっしりと鎮座させてみると、その一点が加わったことで、水槽は急に森の奥地にひっそりと広がる川の畔のように見えてくる。
次はメインの断崖の造形を模索していく。今まで採取したり購入したりしてきたらしい素材のコレクションから、景観に溶け込むような歪で角張った花崗岩の破片をいくつか拝借して組み合わせる。切り立った渓谷の水景をイメージしながら、ガラス容器の右側から背面にかけて堆く積み上げていく。
一言二言交わし合っては、また黙り合って、静寂の中で手先だけを動かす時間が続いた。すると、なんとなくだが、輝彦の意識していることがだんだんと解ってくるような気がした。
沢のサワガニ、海のクマノミ、洞窟のヤモリ、湿地のヘビ、一つひとつの絶景の中で呼吸をする生き物たち。サワガニは苔むした川の隅でジッとしているし、クマノミはイソギンチャクの揺れる岩陰を飛ぶように泳いでいる。リビングのガラス容器には、それらの景色をただ両手で掬い上げただけのような空間が収まっていた。
景観の設定や素材の配置に、絶対的な正解があるわけではない。でも、ひとつだけ、輝彦には病的なまでにこだわり抜いていることがある。
―――あとはジャングルのヤドクガエルとハナカマキリ、庭のカタツムリ、渓谷のミヤマカラスアゲハ。この四つのケージがそっちの空いてるスペースに埋まれば、思いつく限りで手に入れたい地球は揃うんだがな。
それは、あくまでも、雄大な自然のほんの一部分を再現すること。飼育に適した環境を人工的に整えた空間ではなく、いや、飼育機能を兼ね備えることも重要なのだが、それを差し置いてまでも、それぞれの生き物がほんとうに棲んでいる地球上のどこかを切り取って、その風景をそのまま透明な箱の中に落とし込みたいのだ。
水辺になる想定をしている水槽手前の、崖寄りの場所。そこに、持丸は自分が拾った鼠色の御影石を一つ置いてみた。そして、不意に怖くなって、思うがままに動かしていた手を止めた。
「ほぉ、なるほどな」
持丸の挙動が鈍ったことを察知したように、背景の岸壁を構成する礫を水で固まる接着剤で慎重にくっつけていた輝彦がふと口を開いた。
「センスない?」
「いや、水辺に一か所そういう場所があってもいいんじゃないか?」
「そうかな」
「なんだよ、自分で置いといて自信なさげだな」
「へっへ……」
持丸は力なく笑い声を振り絞った。
迫り来るような畏怖を解き放つ断崖に点々と苔が萌え、窪んだ岩陰の隙間からシダの葉が鬱蒼と垂れ込んでいる。
「じゃあ、フィルター動かしてみるか」
輝彦の合図で崖の頂点から零れ出した水滴は、粗い凹凸に弾かれながら岩肌を伝い落ちる。伸びた水脈は幾筋も枝分かれして渓流の源に注がれ、せせらぎは岸壁の奥深くへと吸い込まれていく。淡く乾いていた苔の緑は、伏流する水がじわりと染み入って濃く重くなり、みるみると潤いを取り戻して雫を滴らせる。その水滴の粒が、小さなシダの枝葉をぽつぽつと揺らしていた。
左側手前に広がる陸地にはひとつの礫岩がどっしりと聳え、うねる朽木がそれを取り巻くように崖の頂上を目指して伸びている。それを下からひっそりと見上げるように、砂利の敷かれた水底に沈む鼠色の御影石が、少しだけ川面に白い顔を覗かせている。
賃貸のリビングの片隅に、森の渓谷が姿を現した。
「あとは陸地の空いてるスペースに黄檗の葉を敷き詰めて、ちゃんと飼育ケージとして機能するか様子見ってとこか?」
「だな。まぁ、ミヤマカラスアゲハの卵を見るようになるまであと一ヶ月はあるから、その間はメンテナンスしつつ、苔がちゃんと根付いて繁殖してくれるか見とくわ」
輝彦がそう言って作業終了を告げると、どっと重たい疲労が持丸の全身を襲った。早朝に漁師食堂でお茶漬けを食べた記憶が遠い昔の出来事に思えるほど、途轍もなく集中して作業に没頭していたようだ。スマホで時刻を確認すると、すでに夕方の五時を回っていた。
「さすがに腹減ったな」
「ああ」
輝彦に同意して、持丸は老人のように腰と膝をガクガクと折って床にへたり込んだ。
「よく行ってた中華屋が潰れたって話したじゃんか」
「ああ、はいはい、AVの愚痴に発展する前にな」
「はっはっ、よく憶えてるな。んで、そこにお好み焼き屋が新しく入ってんの、知ってた?」
「いいや、そうなのか」
仕事を辞めて地元に戻ってきたものの、周辺の街を懐かしんで散歩するといった気にはなれていない。練り歩いたとしても、どれだけ様変わりしているかに気づくこともないだろう。
「気になってるけどまだ行けてなくてよ。食いに行こうぜ」
「賛成」
持丸は今一度踏ん張って身体を起こし、再びジャケットに袖を通した輝彦のあとに続いて部屋を出た。
早朝は腰を屈めながら浜を歩いて、そこから日が暮れるまで座りっぱなしで水槽設営をしていたため、身体の節々に鋭い痛みを覚えていた。二十分ほどかけて疲労を和らげるようにのんびりと歩を進めると、ちょうど開店と同時にお好み焼き屋へ入ることができた。
「じゃあ、カズ、なんか音頭とって」
注文を取って、まず運ばれてきたお冷のグラスを掲げて輝彦が言う。
「え?」
「慣れてるだろう、係長」
「はあ、じゃあ、ええ、新世界の誕生に、乾杯」
「かんぱーい」
二人がかりで日中をかけて、リビングの展示品の中でも一際大きな水槽を立ち上げたことに祝杯をあげる。
輝彦が意外にも酒どころか炭酸すらも飲まない主義なので、持丸も積極的に水を摂取する。サラリーマンだった頃はアルコールに侵されていた喉が、改めて他でもない水が美味いということに気づいて喜んだ。お好み焼きの具材が運ばれてくると、ついさっきまであんなに熱中していたレイアウト製作に関する話題はとうに吹き去り、バイトのねぇちゃんがボインだからお好み焼きを作ってもらおう、などという下衆な提案がのし上がる件に戻った。
「仕事、辞めたんだってな、あっつ!」
バイトのホールスタッフが手際よく二人分のお好み焼きをつくり上げて去っていくと、切り分けられた餅チーズ玉のひとつに齧り付いた輝彦が何の気ない声色で軽やかに言った。
「ああ、なんだ、知ってたのか」
持丸は笑ったが、視線は鉄板の上のシンプルな豚玉へと落ちていった。
「カズママがこっそり教えてくれたよ。仕事の往復で、小学生のころよく遊んでたカズのばあちゃん家の前を時たま通るんだけど、そこで偶然カズママに出くわしてな。カズが帰ってくるからここに住まわせようってんで、掃除してたらしい。そんときに聞いたよ」
その状況がありありと目に浮かんで、持丸は喜怒哀楽のどれでもない嘆息を洩らした。小学生時代から未だに親交のある輝彦になら教えても構わない、と母親は考えたのだろう。母親から何も聞かされていないから、輝彦に口止めでもされていたのかもしれない。
妙な間を一瞬でも作れば何も言えなくなってしまいそうで、持丸は「ああ」とも「んん」ともつかない声をあげながら水のグラスに手を伸ばした。
「俺さ、新卒で就活始めるより前から自分でも思ってたんだけど」
喉を潤して、息づく勢いのままに言葉を吐く。
「おう」
「ほんとうに組織人向いてないんだよ」
スーツを着て満員電車に押し込まれ、誰も眼を通さない書類を作成し、意味のない確認メールに返信をする。何も決まらない検討会議で大真面目に当たり障りのない意見を述べて、ドロドロと癒着状態にあるお得意様の主催する自己啓発セミナーに参加を強いられて、小学生の読書感想文の言葉をビジネス用語に変換しただけのようなレポートを書く。回された仕事はすべて自分で処理してしまったほうが手っ取り早いし、数字であげた実績よりもぼんやりとした愛嬌や先入観が評価に繋がり、上司との馬が合わなければそれだけで昇給を逃すことだってある。取引先のご機嫌をひたすら窺うだけの上辺だけの接待で神経を摩耗させて、休日は惰眠を貪っているうちに消えていく。学びたい事柄の手応えも曖昧なまま、自分はこの仕事が好きなのだと思い込むことにして、半ば諦めて、起きて働いて食って働いて食って寝てを延々と繰り返しながら職場と独身寮を往復する。時には資格も取りつつ、いろんな会社の総合職や技術職を転々としながらそんな毎日を十二、三年続けてきた。それで出した結論が、やはり自分はサラリーマン気質ではないというのだから、これほど滑稽なことはない。
輝彦はひとしきり笑って空気を明るくすると、鉄板の上の切り分けられた餅チーズ玉と豚玉を一つずつ入れ替えた。持丸は差し出された餅チーズ玉を、わざと情けなく見えるようにヘラで何度も突く。
「ああ、うん、カズはなぁ……。でも、向いてないの自覚してても、カズはまぁまぁ上手くやれてたほうだと思うぜ」
「そんなことねぇよ。組織なんて、砂漠だよ」
「砂漠?」
「みんなカピカピに乾いてて、オアシスを求めてうろついてんだ」
「その喩えはよく解らんが、まあ、なんだ、会社員、赤の他人と志を共にして協働するなんて、戦争でもない限り不可能だわな」
「ほんとにさぁ、優秀だと思われたい奴らばっかで、そのくせ周りの顔色ばっか気にして自分の意見は言わない。誰も何も言わないから、俺が仕方なく何か言うと、ああそれいいですね、って採用されて事が進む、みたいな」
「なんでもいいから誰かなんか言って、早くこのミーティング終わらせてくれ、ってみんなが思ってるわけだ」
輝彦の相槌に、持丸は大きく頷く。
「どの会議でもそんな気配しかしない。一秒でも早く帰りたい、っていう叫びが表情の端々から伝わってくるっつうかさ」
「うんうん」
「それで結局ダラダラ長引いて、加えて年功序列、横並び主義の悪しき慣習が根付いてるせいで、ボトムアップじゃなんも決まらん。で、正解が判ったり重要な結果が出たりしたときだけ、ビーチフラッグかってぐらいの勢いで飛びついてくる。真っ当に仕事してたって、横から手柄奪われて終いで、人格棄てて虎視眈々と蹴落としていかねぇとポジションなんてないも同然。なんか、ここで頑張ろうって無理やり奮い立たせるのも馬鹿馬鹿しくなってきて、もう全部辞めた」
込み入った具体的な話はしても仕方がないので、持丸は輝彦に伝わるように、なるべく普遍的な言葉をかいつまんで捲し立てた。
「ああ、英断だったな。社会人ってこんな感じなのか、って受け入れて死ぬまでサラリーマンで妥協するか、ばーか、って舵を切って離脱するか、そのどっちかだろ。んなもん、合わねぇんだから辞めちまえ辞めちまえ」
胸の内では頷けないところもあるだろうが、きっぱりと断じてくれる輝彦に持丸は幾分か救われた心地になった。
「でも、自業自得って感じだよな。面倒くせぇ、ってなって勢いで辞めて、俺今完全に無職だよ」
「明日からカズのばあちゃん家はオフィスになるさ」
取り替えた豚玉を頬張って、輝彦は突飛なことを言う。
「はあ?」
意味が解らずに、持丸は鉄板の焦げをヘラでこそぎ落としながら間抜けな声をあげた。
「株式会社テルリウムの工房兼オフィスになるって言ったんだよ」
「テルリウム?」
「そう、輝彦のテラリウムで、テルリウムってわけ」
「はっはっは、それもいいかもな」
持丸が適当に合わせて笑うと、眼の前に小さな厚紙のカードが差し出された。
それは名刺だった。
株式会社テルリウム 代表取締役社長 岩田輝彦
「その下の会社住所が、明日からカズのばあちゃん家に変わるってわけ」
「……本気か? え、なに、起業したってこと?」
「ああ、まあ、細々とな。もう立ち上げて三年になる。業績は限りなく平行に近い右肩上がり。社員は俺ともう一人、カズが三人目だ」
「製薬会社の研究員だったよな?」
「とっくに辞めてる。自分で会社やるための初期費用集めみたいなもんだ」
「知らなかった」
「まあ、聞かれてもないしな」
輝彦のあっけらかんとした声に、三十代中盤で無職になり鬱々としていた半年間の調子が一気に狂わされる。
「社員二人って言ったか?」
持丸は気になっていたことを質問する。いつしか身を乗り出していた。
「ああ、ボインじゃねぇが鬼美人の爬虫類マニアのねぇちゃんが一人。二十代で超大手総合商社の総務部長一歩手前ってところだったんだが、年収一千万越えの約束された安定を蹴っ飛ばして放浪してたところをおれが捕まえた。敏腕すぎて会社乗っ取られそうで正直怖ぇが、欲がなさすぎるがゆえに基本的にオフィスでぐぅたらしてる、ある種の天才だ。明日カズのばあちゃん家に諸々の荷物運び込むから、そのときに紹介するよ」
次々と明かされる衝撃的な展開に愕然とする間もなく、持丸の脳は雪崩れ込んできた情報の濁流を処理するのに必死だった。
「え、なに、明日?」
「ああ、光熱費とか水道代とか、諸々経費で落とせるように社宅化の手続きもやっちまおう」
「そんなことできるのか?」
「知らねぇけど、家の一部を会社に貸すことだってできる。さっき言った変な相棒に頼めばやってくれるさ」
冗談っぽく笑おうとしたが、輝彦の目つきは本気で、一世一代の賭けに打ち出たようなその剣幕に持丸は思わず口を噤んだ。その間を引き取ってグラスの水を一息に呷った輝彦が続ける。
「親が死んだらもう人生終了でいい―――」
その言葉に、持丸はハッとした。
「五、六年前だったか、二十代最後の勇姿だ、とかなんとか言って学生みたいにオールでボウリングしてたときに、カズ言ったよな」
そこまでの鮮明な場面は記憶がないが、どこかでふと呟いていても何も不思議ではない。
「ああ、そうだったかな」
結婚や子育てをしている自分など想像もできないまま、家や車に惹かれることもなく、特別な趣味も物欲もなく、自然と口座に溜まっていくだけの給料とともに三十代中盤まで生き長らえてきた。孤独が淋しいわけではないが、笑ってしまうぐらい本当に何もない平凡な毎日に嫌気は募るばかりで、せめて親より先には死なないようにということだけを考えている。その絶望した黒い思いは常に持丸の脳内をドロドロと渦巻いて、思考の巡りを滞らせる栓になっていた。
「なんの話の流れだったかまではおれも忘れたが、その一言だけな、少し引っかかってんだ」
お好み焼きを食べ終え、水も飲み干し、輝彦は手持ち無沙汰を紛らわすようにおしぼりを丸めては広げてを繰り返して言う。
「そんなん冗談だっつうの」
「解ってるよ……、ああ、解ってる」
困ったように項垂れて笑う輝彦を見て、持丸は嬉しい気持ちと面倒くさい気持ちに襲われ、座り心地を直そうと身動ぎした。
辛気臭い沈黙が降り、周りの喧騒が遠くなる。自分が今どんな顔をしているのか、上手く茶化せているか、不安だった。
「……この話、カズにしたっけ」
輝彦が椅子の背にぐったりと凭れかかって口を開く。
「なに?」
「……ああ、やっぱいいや」
「なんだよ」
「いや、大した話じゃなかったわ」
「はあ」
持丸が苦笑して顔を顰めると、うんざりした表情を浮かべた輝彦はひとつ舌打ちをして席を立った。
「じゃあ、新社員歓迎会はもう一人も合わせて別でやるってことで、今日はカズのおごりで頼むわ」
「社長が無職にたかるなよ」
文句を垂らしながらも持丸は後ろポケットから財布を抜き取る。
「三十分後にゃあ正社員だろうが。さっさと雇用契約結びに一旦おれん家戻るぞー」
じれったいやり取りはもう終わりだと言わんばかりに、輝彦は肩を揺らしながらレジへ向かって大股に歩き出す。差し出された名刺を財布にしまい込んでひとつ息を呑み、伝票を掴んだ持丸は彼の背中を追いかけた。
*この物語はフィクションです。登場する固有名詞は実際の人物や団体とは一切関係ありません。