【短編小説】三百光年先の、その昨日の約束
二十歳。
十六年に亘って施されてきた義務教育がやっと終わった。卒業証書を受け取ると、市民証の色が青から緑に変わって、安楽死チップの使用制限が解かれた。
これからどうするのか、とナラに訊ねると、高等学校へ進んでスポーツ科学を学ぶつもり、と彼女は言った。幼いころからハードル走をやっていて、プロを目指すのも視野に入れているらしい。あわよくば近い将来、世界記録を更新できそうなんだとか。
頭の出来が異次元に飛び抜けているサニは、すでに大学からスカウトを受けているようだ。数学の研究を突き詰めて、未だ解決に至っていないリーマン予想とやらに挑むのだそう。彼の頭脳をもってすれば、百年ぐらいあれば余裕かもしれない。
キースはとりあえずベーシックインカムで食い繋いで、二十五歳ぐらいまで生き延びる予定だって。それまでにいろいろと体験を買い漁って、そのうえで何もやりたいことが見つからなかったら、さっさと安楽死するつもりみたいだ。
歌とハープが上手くて、すでに音楽制作会社から作曲の才能を買われていたカナンは、そのまま音楽家の道を進むんだと勝手に思っていたけれど、もう民生局に安楽死の手続きを申請していたらしい。「人類にだけはなりたくなかった」っていうのが彼女の口癖だったから、二十歳を迎えたらすぐさま永眠に就くという選択は、彼女らしいと言えば彼女らしいとも思えた。
人生二百年時代。戦争も飢餓も犯罪も、あらゆる格差もなくなった。その代わりに、平和も幸福も希望も絶望も見えなくなった。消え失せたわけではないんだと信じたいけど、でも、まったく見えないし、感じない。
衣食住の供給が安定し、医療が飛躍的に進歩したことで、人間の寿命は延びに延びてしまった。義務教育が終わったあとは、働いても遊んでも休んでも有り余る長い長い虚しい時間が、あと百八十年も続くのだ。
健康長寿になればなるほど、死への恐怖はみるみる膨らんでいった。死のハードルを下げる研究開発が進むのは必然だったんだと思う。呆れたことに、それに必要な知識と技術は大昔からおおかた揃っていた。
倫理的な問題という曖昧な感情論でタブー視されていただけで、安楽死制度は待ちくたびれたと言わんばかりに、瞬く間に世間に遍く受け入れられた。轟々と非難を浴びせていた一部のお気楽な幸福論者たちも社会の津波に淘汰されて、今では誰もが自分の死のタイミングを自分で決められるという素晴らしい時代になった。それも、ナイフで胸を突き刺したり、ロープで首を括ったり、高い場所から飛び降りたりなんて惨たらしい方法をとらなくてよくなったのだ。
ただ民生局に安楽死の申請を出して、家のベッドで眠りに就くだけ。そうすれば安楽死チップが起動して、脳と呼吸の機能が停止して、心臓の鼓動が緩やかに鎮まっていく。そのまま寝ていれば身体が眼を覚ますことはもう二度となく、自動で死亡届が発行されて、速やかに火葬が執行される。
信じられない話だ。でも、信じる信じないの話ではないんだと思う。
ただ、そういうふうにできているというだけ。
無表情のまま目を瞑るナラ。俯いて咽び泣いているサニ。手の爪をしきりに気にしているキース。誰もが、温かくも冷たくもなく、それでいて、ちょうどよくもない。カナンの遺体は硬く冷たく、それを燃やす焔はひどく熱いというのに、葬儀会場には温度がなかった。
ここに集まっている全員の延髄に、洩れなく、安楽死チップが埋め込まれている。みんなは何歳まで生きるつもりなのだろう。
自分はいつ人生を辞めようか。誰かの訃報を知るたびに、残された者たちは誰しもが、切り札の使いどころについて思いを巡らせる。決して表情には出さないけど、自分さえ踏み込めない絶対的な孤独の檻の隅で、わたしも。
カナンの亡骸が、1000℃の熱に喰い尽くされていく。
軸椎を除く遺骨は細かく砕かれたのち骨壺に収められ、喪主を買って出たサニの手に渡った。
「『遺骨は食べてほしいけど、嫌なら川に撒いて、海へ還して』だってさ」
葬儀会場を出ると、サニは困ったように眉尻を下げて、カナンから託されていたという遺書の一部を読み上げた。
「食べてほしい、って? 遺骨を?」
わたしが口角を吊り上げて訝しげに問うと、サニも理解に苦しむと言った様子で首を傾げつつ、それでも「うん」とぎこちなく頷いた。
「でも、あいつらしいつったら、らしいわな」
キースが銜えた煙草に火をつけながら、何でもないように言う。
「ええ? そう? そんなこと言う子だったかなぁ」
わたしがカナンの人間像を思い出していると、サニはメガネを押し上げ、泣き腫らした目を指先で拭った。
「で、でも、『海へ還して』っていうのもカナンらしいよね。人間に足りないのは鰓と鰭だ、って常々言ってたし」
「ああ・・・・・・そういえば、海に憧れてたよね、カナンはずっと」
「直接おれたちの手で海に撒きゃいいものを、川に運んでもらうってのもあいつらしいな。とことん自然原理主義っつうか・・・・・・」
キースの上げた言葉は誰の元にも落ちることなく溜息と紫煙に溶け、背後から吹き抜けた何も知らない風にふっと攫われていった。
今日は天気が良い。空が高く澄んでいて、風もそよそよと穏やかだ。刷毛でさっと撫で上げたような雲が奥底に薄く広がっていて、ギラギラと降りかかる陽の光をしなやかに翻して流れている。
人の往来はなく、飛空タクシーだけが音もなく頭上をふわふわと行き交っていて、虫の声も鳥の羽音も聞こえてこない。どこかから運ばれてくる金木犀の甘く芳しい匂いだけが、ちゃんと季節どおりに生きているみたいだった。
靴音がポコポコと、泡のように弾ける。わたしたちはしばらく黙り合ったまま、がらんどうな街の空気をなるべく吸い込まないよう息を潜めた。そうする必要なんてどこにもないのに、なんとなく、そうしたほうが良いと思わされるような、名づけようのない感情の圧力が沈黙に張り詰めていた。全員の躰が、もうすこしだけ、かつてカナンだった灰や煙を、熱を、その内側に抱いて留めておきたいと、そう訴えているのかもしれなかった。
飛空タクシーはどこからでも呼び下ろせる。家に帰るには四人乗りのを一台手配して、各々の部屋へ送り届けてもらうのが時間的にも距離的にも得策だろう。でも、そんなことは解りきっているサニも、無意味な行動を毛嫌いする質のナラも、何も言わずにタクシー乗り場までの道のりをわざわざ歩いた。
「ねぇ、サニ」
タクシーに乗り込んで四肢が安全装置に通されると、葬儀会場をあとにしてから一言も発していなかったナラが沈黙を破った。
「ん?」
「誰に食べてほしいのか、カナンは言い残してるの?」
「ああ・・・・・・いや、とくに明記はされてないね」
「そう・・・・・・」
再び沈黙に没したナラの心境を汲み取って、わたしは口を開いた。
「その、食べるとしたらだけど、サニだけに食べてほしいのか、わたしたちも食べていいのかどうか、カナンの願いはどうだったんだろう、ってことだよね」
ナラが瞬きで頷き、サニのほうを見遣った。
「なんでぼくだけなのさ」
眉を顰めて苦笑するサニの肩を、キースが拳でぽんと小突く。
「遺書を託されたのはおまえだろ」
「・・・・・・うーん、どうなんだろう。書いてない以上、なんとも言えないな」
不確定の空白を憶測で埋め合わせようとはしない数学者に、わたしとキースは揃って肩を落とした。
”運転手”に各々の家を伝えると、それらを効率よく経由する最短ルートがすぐさま算出された。ナラが発進するよう指示すると、タクシーは緩やかに方向転換し、深海の生き物みたいな高く冷たい駆動音を発して前進しつつ、滑らかに上昇し始めた。
「すこしぐらいなら、食べてあげてもいいわね。良き隣人として」
上空四十メートルに達して水平飛行に入ったとき、ナラがふっと表情を和らげて言った。ついさっきお別れをしたばかりだというのに、カナンの存在はもう、季節が巡るたびに懐かしむような、思い出のコンテンツになりつつあった。
「これ、カナンが自分の手で作ったものなんだ、造形も絵柄も含めて」
サニはそう言うと、太腿に載せていた骨壺を両手で掲げてみせた。
「ほぇ・・・・・・すご、めっちゃ綺麗じゃん」
わたしは前のめりに驚嘆し、骨壺に視線を寄せた。
柔い丸みを帯びた円筒形のそれは、全体が青みがかった淡い翡翠色に染められている。その艶やかな側面には、まるで五線譜の上でステップを踏むように、大小さまざまに波立つ水紋がぽたぽたと連なって描かれている。それは音楽家が鼻唄を口遊みながら散歩しているようにも、少女が静かに泣いているようにも見えた。
「音楽できるうえに、絵も陶芸もできちまうのかよ」
キースが目を見張って言うと、サニは身動ぎをしつつ骨壺を抱きしめ、伏し目がちに微笑んだ。
「初等部のころ、工作の授業で磁器の工房に行ったことがあったでしょう」
埋もれて色褪せていたそのころの記憶を、わたしは曖昧な糸を掴んで手繰り寄せた。移動なんてほとんどすることのない義務教育生活の中でも珍しく、それは外に出て行われる実体験型学習の一環だった。陶磁器の歴史を追体験するような講義を受け、機械が量産する皿や花瓶の製造工程を見学して、最後に自分の手で器をひとつ作ってみるというような内容だった憶えがある。
「え、まさかあのときに?」
工房の風景がぼんやりと思い出される。左隣にはナラが座っていて、器用に大きな花瓶を作っていた。右隣のキースは無難なマグカップを作ろうとしていたけれど持ち手が奇麗に成型できなくて、たしか時間ギリギリで作る物を変えて、最終的にお猪口みたいなものが出来上がったんじゃなかったっけ。わたしとてキースの不器用さをからかう余裕もなくて、必死な思いをしてろくろを回し、不格好な底の浅いプレートを一枚作るのがやっとだった。
キースの右側にサニがいて、そのさらに右隣にカナンがいたはずだ。自分の手元に集中するだけで精一杯だったというのもあるけれど、わたしの位置からはカナンが何を作っていたのか見えなかった。
「うん、ぼくの隣で黙々とこれを作っててね、何作ってるの、って訊ねても教えてくれなかったんだ。まさか自分の骨壺を作ってただなんて、思いもしなかったよ」
「まだチップもらう前じゃない」
ナラが口角を引き攣らせる。
「ファクトリー見学もしてねぇよな」
キースの言葉に、全員が息を洩らした。
ファクトリー。体外受精から保育、知育までを一貫して担っている施設である。人間はここで量産されていて、ニ十歳から四十歳までの人は年に一度、病院での健康診断を通じて、性別に応じてもっている精子か卵子を提供しなければならない。
今時、異性同士でセックスして子供を産み育てている人間なんて超がつくほどのマイノリティで、もはや都市伝説と化している。たいていの子供たちは誰かの精子と卵子がファクトリーで交配させられて産み落とされ、四歳までそこで暮らし、義務教育が始まる際に知能や性格を遺伝子レベルで解析してもらう。わたしも例に洩れず乳児期をそのように過ごし、カナンを含めたわたしたち五人は「一生涯をかけて良好な交友関係を築ける間柄にある」と判定され、同じ教室に集められた。すこし古臭い言い方をするならば、いわば”友達”とか”クラスメイト”とかいう関係にあたると思うけど、学習に加えて初等部までは寝食も共にしてきたから家族的な絆もなくはない。座学はおおかたコンピュータとの一対一で進められ、中等部に入ると一人暮らしが始まるけれど、運動の時間や課外学習で外に出る際は、最後まで決まってこの五人で行動を共にしてきた。
人間がどのようにつくられているのか。それを知る機会がファクトリー見学であり、脳機能がおおかた成熟する十五歳でカリキュラムが組まれている。安楽死チップを延髄に埋め込まれるのは中等部を折り返す十八歳のころだから、人生や死のことについて哲学し始めるのもそのぐらいからだろう。
「カナンには何が見えていたのかしらね」
ナラがぽつりと呟いた。
初等部の段階で死ぬことを悟れる子はいなくはない。でも、火葬したら骨だけが残るということだったり、死後の自我の行方について想像できる子は少ないだろう。ましてや、自分の骨を入れる容れ物を工作の授業で作っておこうと思い至る子なんて、カナン以外にはいないかもしれない。
「何でもかんでも、自分の手で作らないと満足しない人だったからね。唯一無二の物を、こういう絵柄の骨壺にしても、音楽にしてもさ」
サニは笑って言いながら壺に手を添えると、そっと撫でるように蓋を持ち上げて開けた。中には、粉々に砕かれたカナンの白い骨が半分ほどの高さまで敷き詰められていて、その上に仏様のような見た目の軸椎がぽつねんと鎮座している。
「じゃあ、お望みどおり、すこし食ってやるか」
キースがスーツのポケットから灰皿を取り出して、短くなった煙草の火をもみ消した。美しい骨壺を各々の手に回して、わたしたちはカナンの遺骨の粉をほんの一口分だけ掬い取っていった。
「ぼくさ、カナンの骨を川に撒くっていう使命もあって、すこしの間だけ郊外に出ようと思うんだけど、どう? 一緒に行かない?」
タクシーが研究開発特区に入り、サニが暮らす学生遼までもう間もなくというころになって、彼が提案した。
「良いんじゃない? 卒業旅行がてら」
ナラがこちらに目配せをして言うので、わたしも頷いた。
「おれはいつでもいいぜ。基本は暇だからな」
キースが言う。
「わたしもかな。ナラとサニはどう? これから忙しくなるよね?」
わたしが訊くと、ナラは頭上を見上げて考える素振りを見せたが、サニはすぐさまかぶりを振った。
「ぼくも暇だよ。解けるまで考えるだけだからね。ナラは?」
「うーん・・・・・・、身体と食事は多少拘束されるかもしれないけど、あたしだって、一日たりもカナンの弔いに割けなくなるというわけじゃないわ。高等部の授業が始まるまで、まだしばらくあるし」
飛空タクシーが緩やかに高度を落とし始める。
「そっか、じゃあ明日にでも行こうか」
「いいわ」
「賛成」
「他人のいないとこが良いな。カナンのやつも、他の連中の見世物にゃあなりたかねぇだろうし」
キースの一言に、みんなが頷く。
「どこか、山奥のコテージをとるよ。一泊二日でバーベキュー。夜は星を見るんだ」
サニは嬉々として言いながら、通信端末で宿泊施設を調べ始めた。
「川で魚釣って焼くのもありだよな」
「河原でバドミントンでもしましょうか」
「そのあとは滝壺でサウナだよ!」
キースとナラの提案に、わたしも続く。
「うわぁ、盛りだくさんだね。一泊じゃ足りない気がしてきた」
「いいねいいね、二泊にしちゃおう」
「あんたベーシックインカム暮らしでしょう。そんな二泊も旅行できる余裕あるの?」
ナラに核心を突かれ、わたしは言葉に詰まった。
「ないな」
キースが何てことないように断言する。
「お金ならぼくが出すよ。せっかくなんだし、こうして顔を合わせる機会なんて減っていく一方だと思うからさ」
サニが取り繕うように笑って言う。
「持たざる者には世知辛い世の中だよね、ほんと」
わたしが言うと、キースは心底どうでもよさそうに肩を竦めた。
「持っていても、そんな良いものじゃないわ」
カナンの骨壺を優しく眺めながら、ナラが言う。
「食って寝て、煙草が吸えりゃあオールオッケーだろ」
タクシーが寮の二階に横付けされる。ドアが開くと、サニの安全装置が解除された。
「詳細はすぐ送れると思うから」
サニが寮の外廊下に降り立つ。
「おう」
「はいよー」
「よろしくね」
三人がサニを見送ると、ドアがゆっくりと閉まり、タクシーは再び空高く浮かび上がっていった。
それじゃあ、また明日ね。
遠のいていく三人を見送りながら、サニは心の中で呟いた。
この一言が、良き隣人たちを現世に繋ぎ止める呪いとならぬように。