【連作掌編】爬虫類女子ムヨクさん 第3話
3 ガマ子、名付け親になる
人間の言葉が通じない動物に嫌われるということは、案外、人間に嫌われることよりもショックだ。
しかも、相手は哺乳類でもなく、さらに種として縁遠い爬虫類。より万種共通の、根源的な生理的嫌悪を向けられたような気がしてならない。コハクちゃんは重たそうな甲羅をものともせず、ムヨクさんを追って庭を走り回っている。
「ほんとに、ムヨクさんによく懐いてるんですね」
私は縁側で膝を抱えて、その光景を悄然と眺めていた。
「そんなしょげないでよ」
「はぁ……、いいなぁ」
「あたしだって、餌くれる人としか思われてないって」
ムヨクさんは後ろで手を組んで鼻で笑うが、とてもそんなふうには見えない。
「……いいないいなぁ!」
ムヨクさんとコハクちゃんの間には、明らかに主従関係を越えた家族の絆があるように思える。露骨に嫌われたからこそ、芽生えた卑屈な気持ちも相まって、私が余計にそう感じるだけなのかもしれないが。
「はーい、本日のお散歩タイムは終了です」
しばらくすると、ムヨクさんはコハクちゃんが途方に暮れないよう、ちゃんとスロープを使って縁側に帰ってきた。
どうやら、生き物たちの飼育環境をメンテナンスしている間は、リクガメたちをケージから解き放って、部屋や庭を散歩させているらしい。ムヨクさんが会社員だった頃もこれを毎日欠かさずやっていたと考えると、生き物を飼育することに対する彼女の愛情と熱意は尋常ではない。小さいほうの子も、私がこの家に来るまでは庭を駆け回っていたようだ。
生まれたての、小さいほうの子。そういえば、まだあの子の名前を聞いていなかった。
「小さいほうの子は、お名前なんて言うんですか?」
こっちの大きい子はコハクちゃんだけど、と思いながらスロープを上ってきたその甲羅に手を伸ばすと、やはりガブリと噛まれそうになる。私の手は、ニンジンか何かにでも見えているのだろうか。
コハクちゃんが背後を優雅に通り過ぎてから、私は死んだふりをして捕食の危機を凌いだ蛙のように、そろりと立ち上がった。
「それがねぇ、あっちの子はまだお迎えしたばっかりで、名前ないんだよね」
「ああ、そうなんですね」
「ガマ子、なんかいい名前考えてよ」
ムヨクさん、コハクちゃん、少し離れて私、の順で居間に戻った時、ムヨクさんが背後の私を一瞥して言った。
「えぇ、そうですねぇ……」
コハクちゃんに噛みつかれそうになったショックが大きすぎたのか、小さいほうの子にも威嚇されたことなどすっかり忘れて、何か可愛らしい名前はないかと思考を巡らせるガマ子。
琥珀色の甲羅だからコハクちゃん、みたいな、何か、あの子らしい特徴はないだろうか。
砂地のケージの前に立ち、ガラス越しに小さなリクガメを観察してみる。
甲羅はコハクちゃんみたいに綺麗な琥珀色ではなく、若干くすんでいて、黄土色っぽい、煤竹色っぽい感じ。携帯で画像を検索すると、ざっと見た限り、どうやらこの色がノーマルのようだ。
「ちなみに、男の子だよ」
「なるほど……」
男の子。
丸っこいボディがハンドボールみたいだから、ハンボくん……。
パンケーキみたいな甲羅だから、パンくん……。
つぶらな瞳だから、つぶらくん……。
難しい。どれも、とってつけたような無理やり感が否めない。
「センスあるのにしてよー?」
「い、今考えてますから!」
コハクちゃん、みたいな、一目見ただけでしっくりくるような名前が、どうにもパッと思いつかなかった。生後間もない赤ちゃんだからなのか、それとも、私のケヅメリクガメに関する知識が乏しいだけなのか、これと言って特徴的な個性があるようには見えないのだ。
それに、視界の端にあるムヨクさんのニマニマとした視線が気になる。熟考し過ぎると、変に期待が高まって、余計に焦ってしまう。
「な、何か、特徴とかあります? その、見た目以外で」
このまま突っ立っていても永遠に思いつかないことを悟った私は、何気なくムヨクさんに訊ねた。
「えー、結構個性的な見た目してるけどなぁ」
「そ、それもそうですけど……、ア、アイデアをもっと掘り下げたいなぁ、なんて」
「おぉ、割と熱心に考えてくれてたんだね。これは期待大だなぁ」
ムヨクさんの口元がヘラリと綻ぶ。
ああ、と私は思った。これは……、これは非常に良くない流れだ。
「特徴ではないんだけど、ちょっと心配なとこがあってねぇ……」
そう言ってムヨクさんはふわふわとキッチンへ向かい、冷蔵庫からタッパーを取り出して戻ってきた。
タッパーの中には細かく刻まれた葉物やパプリカのようなカラフルな野菜が綯い交ぜに入っていた。その一欠片の大きさを見るに、それは小さなリクガメのために作られた餌の野菜ミックスのようだ。
ムヨクさんはケージのガラス戸を開けると、その野菜ミックスを種類が偏らないよう適当に摘み、ほんの少しの量だけこんもりとエサ皿に盛る。そしてそこに、タコ焼きソースのようなハチミツのような容器に入った白い粉末をパパッと振りかけて加えた。
「なんですか、それ」
「カルシウムパウダーだね。カメも丈夫な甲羅作るのに、カルシウム必須がなんだよ」
「ああ、そうか。カメの甲羅って、骨でしたね」
私は、幼い頃に生き物図鑑で見た、カメのレントゲン写真を思い浮かべた。この芸術作品のような綺麗な丸い鎧がカルシウムで形成されているのか、と考えると、改めて、進化の奥深さは測り知れないと感心してしまう。
「そう、あたしらが骨強くするためかなんかで、学校で嫌々牛乳飲まされてたみたいな感覚じゃない?」
「私、牛乳はおかわりじゃんけん常連でした」
「……ああ、そう」
そんな話を交わしていると、紫外線ライトの当たる石板の上でぬくぬくと丸くなっていた小さなリクガメはご飯の匂いを嗅ぎつけたのか、トコトコトコと餌皿のほうへと走ってきた。
「かぁいい……!」
こんなにも嬉々として餌に駆け寄る姿を見てしまうと、思わず手を伸ばしたくなってしまう。その衝動に駆られたところで、ようやく私は、ついさっきこの子にシューシューと威嚇されまくったことを思い出した。
「よく見ててねー」
ムヨクさんの言葉を耳に、私はゆっくりとケージに顔を寄せ、大好物の野菜に喰いつかんとするリクガメに目を凝らした。
……食べた、と思った。
「……ん?」
また、食べた、ような動きをした。口を大きく開けて、首を前に突き出して、野菜の欠片に齧り付く。しかし、その首は欠片から少し横へズレた方向へ飛ぶ。その口は欠片の手前で閉じられる。目の前の餌に、全く狙いが定まらない。
「食べるの、へったくそなんだよなぁ」
ムヨクさんは慈しむように目元を綻ばせて、それでもどこかがっかりしたような、憐れみを滲ませた声で嚙み締めて言った。
「目が悪いんですかね?」
「んー、それがねぇ……」
そう言いながら、ムヨクさんは餌皿からパプリカの欠片を指先でひとつ摘んで、その子の前に差し出した。
すると、食べた。今度はちゃんと、外さずに。
「ムヨクさんの手からは食べられるんですか……」
「そう、パプリカの赤なら分かるのかな、って思ったけど、そうでもないらしいのよ」
ムヨクさんは野草の欠片を摘んで、再び差し出す。
すると、それもちゃんと食べられる。
「……変ですね」
「でしょう? 遠近感が狂ってる感じ」
ムヨクさんが指先を引っ込めると、小さなリクガメは再び餌皿に盛られた野菜の山に視線を戻して、これでもかと口を大きく開けてガッと齧り付く。しかし、その口には葉物の一欠片の一粒も入らない。
「……決めました」
私はケージから顔を上げて、グッと胸を張って伸びをした。
「え?」
「この子の名前、決めました」
それは、ふと降りてきた。まさに、天の啓示である。
腰に手を当てて、私は大きく息を吸う。この子は……。
「おー?」
餌を食べるのが下手っぴな……。
「タッピーです!」
「……おぉ?」
ポカーン、と頭上にはてなを浮かべるムヨクさん。その反応は、随分と期待外れなものだった。
「……え? あ、いや、だからその、食べるのが下手っぴな……」
「タッピー?」
「……はい」
居間に流れていた空気が、ふっと消えた。
凍ったとかの次元ではなく、虚無。時間も温度も音も、何もかもが消えてなくなった。
餌に喰らいついていたタッピーの動きが止まり、部屋を歩き回っていたコハクちゃんの動きが止まり、ムヨクさんも首を傾げたまま固まってしまった。
……静寂。視界の端、風に揺れるカーテンが、遥か地平線の彼方に浮かぶ遠い夏雲かと錯覚するほどの、果てしない静寂が空間を包んだ。
その間は、実際は五秒ぐらいだったと思うが、体感では五分ぐらいに思えた。
「……タッピー」
私はムヨクさんから視線を逸らすことなく、ボソッと沈黙を破った。
「……ックク……ったっはっはっはっは!」
次の瞬間、ムヨクさんは突然吹き出し、腹を抱えて爆笑した。
「えぇ!? ダサいですか?」
「いやいや、いい。すごくいい……タッピー……ックク、あっはっはっはっは!」
「……やっぱり、なんか馬鹿にしてませんか?」
「してないよ! してないしてない! センスあるって! ねぇ、タッピー? ……ックク」
ムヨクさんは目尻に涙を浮かべながら、タッピーに指を伸ばす。
「んー、結構いい感じだと思ったんだけどなぁ……」
タッピー。下手っぴのタッピー。可愛いと思うんだけど。やっぱ私、命名のセンスないのかな。
「これがガマ子クオリティだ……赦せ、タッピー……」
「やっぱちょっと馬鹿にしてるじゃないですかぁ!」
「あっはっはっはっはっは!」
そんな私とムヨクさんのやり取りなど気にも留めていない様子で、ムヨクさんの指先に乗った野草の欠片を狂ったように頬張るタッピーなのであった。