女三宮の母女御はどう紹介されるか(若菜上)
山本淳子「『后』たちと女房文学」によれば、「女御は天皇の私的な妻でいわば側室だが、中宮(皇后)は嫡妻であり、少なくとも円融朝までは一帝に一人」(シリーズ古代史をひらく:摂関政治、144)ながら、「平安時代には『后』の第一段階である中宮(皇后)を経て転上[皇太后に就位]することが常となっていた」(147)。
さらに太皇太后・皇太后・中宮と「三后の座は満ち」ると「中宮の位を中宮と皇后に分け……中宮と皇后が別々に立つ(二后冊立)」(148)。
一条天皇には「史上初めて一人の天皇が二人の『后』を持」ち「法的に重婚の状態となった。『正妻は一人とする律令制後宮制度を完全に骨抜きにした……』」(149)ことになろう。
天皇の一夫一妻が道徳規範というより、婚姻によって天皇と有力貴族との関係を規定するものになっていった、つまり単純な解体でなく、新たな制度化の一環。とも見える。
后をめぐるせめぎあいとして、たとえば「円融天皇の女御媓子の立后は、父関白・藤原兼通が強引に行った」(145)「詮子は懐仁親王を連れて里に戻り円融天皇に会わせなかった。兼家も政務をボイコットした」(146)などがあげてある。
「『源氏物語』には弘徽殿女御という登場人物がおり、桐壺帝の東宮を産んでいる。しかし桐壺帝は彼女をさしおいて藤壺女御を中宮とする。『源氏物語』は史実に取材することが多く、この場面の弘徽殿も…利用されていることが明らかである」(146)という。
改めて女三宮の母についてどのような記述か見ておこう。
「御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなん四所おはしましける。その中に、藤壺と聞こえしは、先帝の源氏にぞおはしましける、まだ坊と聞こえさせし時まゐり給ひて、高き位にも定まり給ふべかりし人の、取り立てたる御後見もおはせず、母方もその筋となく物はかなき更衣腹にてものし給ひければ……大后の、尚侍督をまゐらせたてまつり給ひて、かたはらに並ぶ人なくもてなしきこえなどせし程に、けおされて、みかども御心の中にいとおしき物には思ひきこえさせ給ひながら、下りさせ給ひにしかば」(岩波文庫版源氏物語5、132‐134)
母女御の臣籍降下(「内親王とならず源姓を賜った」133注10)は、トラブルの事前回避のための処分である(源氏がそうであったと最初の巻で明記されてある以上、類似として読まねばならない)。
史実でいえば、「道長は定子の母の出自を疵と見、血統で定子を凌ぐ娘を作ろうと計画して、貴顕の妻[「源雅信を父とし、宇多天皇を曽祖父とする高貴な血筋」摂関政治、158]を選んだ」(159)と表裏になる。
「平安貴族社会は、父系・母系双方の血統が同じ重みを持つ〈双系制〉であったことが既に認められている」(160)とは、たとえば母系の重みの目減りが軽く扱われなかったといってよいのかも知れない。
女三宮の母は「皇后にもおきまりになるはずであった」(源氏物語5、133注10)ものの、「それと指して言えるほどの家筋ではなく、頼りない(身分の軽い)更衣腹」(「『更衣腹』は軽蔑を含んだ俗称」源氏物語注釈7、9注2)であり、「弘徽殿大后が…朧月夜内侍を参内させ」(源氏物語5、注13)、朱雀院も中宮候補から外したと説明すれば、たとえば御子であろうと最上と思いづらくなる(源氏物語注釈7は「『おりさせ給ひにしかば』は、朱雀帝譲位のこと。源氏が明石から帰還した翌年で、東宮元服後のこと(澪標三)」9-10注2)。
「『べし』の意味の根本は、物事の動作・状態を『必然・当然の理として納得する外はない状態である』と判断を下す点にある。個人の好き嫌い・希望などを超えた必然的な状態と判断することであるから、道理から当然であることを示すこともある」(岩波古語辞典「基本助動詞解説」べし)とまでいうなら、なぜ覆ることになる事態に使うのであろう。
この疑問はある意味で現代の用法に由来する。たとえば「〜すべし」と命令しても、それに従わない者は出てくる(めったにないとしても)。これは「べし」が、その実現の確定以前に使われるからと思われる。
だからこそ「自己の意志を表現するときは、極めて強い意志であり、相手に対しては、拒否を許さない命令を示す。第三人称の動作についた推量の場合にも、『まさに…しそうである『必ずそうなる、に相違ない』という極めて強い確信を表わす」(基本助動詞解説「べし」)という未実現のニュアンスを含むようになっても道理なるべし。
源氏の認識によれば、「故院の御時に、大后の、坊のはじめの女御にて、いきまき給ひしかど、むげの末にまゐり給へりし入道の宮に、しばしはおされ給ひにきかし。この御子の御母女御こそは、かの宮の御はらからにものしたまひけめ。かたちも、さしつぎにはいとよしと言はれ給ひし人なりしかば、いづ方につけても、この姫宮、おしなべての際にはよもおはせじを」(174)である。
ほぼ同じながら微妙な違いがある。
藤壺女御に取って代ったのが、朧月夜から藤壺宮となる。
女三宮降嫁という主筋のかたわらには源氏の朧月夜再接近の実行(「年月を中に隔てて逢坂のさもせきがたく落つる涙か」244)があるので、(特に朱雀院を含む三角関係への)言及を忌避しているのかも知れない。
「物はかなき更衣腹にてものし給ひければ」(あえて現代語にすれば「系譜のさだかでないような更衣ごときから生れたとやらだもの」)などと源氏がいったりはしない、と読んで問題はなさそうだ。源氏の母は桐壺更衣であった。
このように理解すれば、女三宮の母に関する紹介が二度なされる理由もはっきりしてくる。
(1)位階秩序からすれば、最上位から格下げさせるマイナス点がいくつかある、とほのめかす。
(2)源氏の認識を明らかにすることで、物語の微妙な彩(源氏とて超然たりえない)を示している。
(3)位階の移行を示唆する(最上であればどの程度かという関心は本来なら意味をなさない。しかし関心が生ずるのだから、何らかの変化が生じたらしい。つまり最上をめぐる位置づけに変化が生じていると推測できることになる。