タイトルがつけられない!
to._to._to._ってへんてこりんな名前だなあ。
はじめまして。to._to._to._といいます。
へんてこりんな名前だなあ、
だけど意味あってつけました。
名前で思いましたが、みなさんそれぞれ思い入れのある名前ってありますよね。
私は、人はもちろんお店やペット、この名前はどんな思いでつけられたのかな?と考えるのが好きです。思いつきだとしても、絶対にその人の心に意味のあったことばのはずなので。
先日、とあるラーメン屋でドイツ人観光客の父娘とおしゃべりをしたことがありました。キョロキョロ、ドキドキしてるみたいで、思わず話しかけたくなりました。
私は大学受験まで一通り、それなりに英語を勉強してきた人間ですが、
恥ずかしながら全然実用的なレベルではありません。
「あなたはどこからきたのですか」
ただそれを聞きたいだけなのに、えー、なんだっけ。ウェアアーユーフロム?で合ってる?むしろそんな簡単でいいんだっけ。これ、現役中学生の方がよっぽど答えられるよね。あー、どうしよう。話しかけたいのに。
私が答えを出す前に、google翻訳が答えを出してくれました。
今の時代はほんとうにすごい。とりあえず、聞き取りは何となくできたので、話したい言葉だけをgoogleに伝えてもらって簡単な質問と答えを繰り返しながらおしゃべりを進めていくことができました。
ある程度会話も盛り上がったところで、ふと父親の名前を聞いてみました。そういえば、名前も知らなかった。
「ワッツヨアネーム?」
これはすぐ言えました。
“me?”
「イエス」
“Stefan”
「オー、ステファン」
ポチポチ。
−−–“What does it mean?”(どういう意味がありますか)
ステファンはしばらく考えた後、
“No.”(と多分言ったはず)
ちなみに、娘の名前も聞きましたが、音のみで意味はないそう。
“You?”
「あ、ミー?あ、ミ・ユ」
“?…mi?”
…ポチポチ。−−–“ MIYU”「ミ・ユ」
“Yeah!MIYU!”
「イエス」
…ポチポチ。
−−–“It means there is a future.”(未来があるという意味です。)
“Wow…nice!”(みたいなことを言ってたと思う)
そんなこんなで閉店時間が来て、ステファンは娘と一緒に植物園と向かっていきました。
名前に意味がないのなら、どうしてステファンはStefanなんだろう。
日本には漢字があるから、そのものに意味を持たせることも、音を単語として成り立たせて、意味を持たせることもできる。
だから、たくさんの種類の名前があって、それぞれ意味や思いが込められていることは想像しやすい。
あー、
うん、
あ、そっかあ、
そこが日本人と海外の方の違いでもあるのかな。
存在意義なんかなくても、あなたがそこにいるだけで価値があるのよ的な?
変に自分の生きている意味とか、こうあるべき姿みたいなのは、考えても考えなくてもいいってことなんでしょうか。
と、まあ、どうでも良いことを考えながら、良い出会いだったなあ、と家に帰りました。
…長くなりましたが、改めましてto._to._to._です。
どうぞ、よろしくお願いします。
お好きな席どうぞ
“お好きな席どうぞ”
飲食店に入るとよくかけられることば。
ファミレスとかラーメン屋とかだと、きっちり店員さんの思い通りに案内されることが多いかもしれないけど、私はよく小さな喫茶店に入るのでお好きな席を選ばされることが多い。
“お好きな席どうぞ”
私はこのことばに、よくドキッとピリッと緊張する。
何度も通った席なら、そりゃ“お好きな席”もあるだろうけど、初めての店なんかどうよ。そんなのあるわけない。
ただでさえ初めてで緊張してるのに、(店に入った瞬間の雰囲気、目があった瞬間の店主の表情・ことば、店内の席のレイアウト——どこに何人席がどう配置されているか、席それぞれの特徴、他客は何人でどこに座っているか——などなど、一瞬で把握しないといけないから)
“お好きな席どうぞ”
このことばをかけられた途端、一気に脳内パニックになる。※だけど私はこれが全然表情に出ない。
はー、言われた通り好きに選べばいいのに、
「1人なのに4人席(もしくは広めの2人席)座ってもいいのかな…。いや、空いてそうだしいっか??うん、いきなり店主ととカウンターで向かい合わせもなー。ん、やっぱ先客があそこに座ってるしこっち??うわ、あのテーブルの色好きだな!」…とか。
いらない気遣い、いらない心配、だけどどこでもいいわけでもなく…。
そして、この脳内パニックは長くても3秒しかかけちゃだめ。だって初対面の店主さんとの間に、変な「間」がうまれるから。どうしても決めきれない時は、足を一歩、二歩、と動かしはじめる時間でかせぐ。
こんなに大変な気持ちになってるのに、結局は直感で選んだ席に流れで何となく座ってしまうのが大半。それが私。ああ、今のパニックは何の意味があったのか…。
座ってホッと一息つく。
…のもつかのまで、今度は店主にメニューを渡される。
そして次のことば、
“お好きなものどうぞ”
だって1人で帰れるじゃん。
私のめいっこは今小学生。
ピカピカの1年生である。
めいっこの両親は共働きなので、めいっこは毎日学童に通っているらしい。
毎日楽しい、学童であれで遊んでね、これやったよ、など嬉しそうに話してくれた。
「そういえばさ、すーちゃんとこの学童は何年生までいるのー?」と私。
「えー、3年生!あのねー、3年生は2年生とへやが(うんたらかんたら)」とめいっこ。
「へえ〜、3年生までいるんだね〜。4年生で来てる子はいないの?」
「いないよ」
「へえ〜、なんでだろうね〜」
「だって、4年生はひとりで帰れるじゃん!」
…そりゃそうですよね。
ちなみに、
「私は今28年生なんだけど、28年生は学童にいっちゃだめー??(笑)」
ときいたら、
「だめ」
と即答された。
だってひとりで帰れるもんね。
そう返したけど、スルーされた。
じいちゃんの形見やね
今年の冬、あけましておめでとうを言い合うのが落ち着いてきたころ、じいちゃんが死んだ。
最近米寿のお祝いもできていたし、最後の1週間弱は毎日お見舞いにも行けてたから、私自身、気持ち的にも意外とあっさりしていた。
私の祖父は、昭和一色の、いわゆる亭主関白自分勝手豪快無謀おとこだったらしく、妻である祖母、実子である母・叔母たちはずっと
「あのひとはねえ、ほんとに大変なひとやった」
と、仕方なさそうに笑いながらも、よく嘆いていた。
そんな祖父でも、孫の私には豪快な明るいじいちゃん、だった。
幼少期はよくお世話に来てくれ、もっと食べんと大きくならんよ!と、大盛りを強要される時以外は、基本的に好きだった。
そんなそんな亭主関白自分勝手豪快無謀じいちゃんは、ものづくりが大好きなひとだった。
昔のことはよく知らないけど、私が物心ついてからは皮細工にハマったり、70代あたり?で、“自動トイレットペーパー機”なるものを発明して、特許を取得するために家族がずいぶん苦労していた。
周りからは全然賛同されてなかったけど、いち個人、いち孫的には、
いや、よく作るわ、普通にすごいわ、
と感心する気持ちも少しあった。
そういうことなので、昔から祖父の家には祖父の作業場(しかも結構本格的)があり、夫婦2人で引っ越した小さな平屋の一軒家も、一部屋丸々作業場になり、庭の一角は機材やら工具やら、とにかくそこはごちゃごちゃもので溢れていた。
そういえば、
と、最近そのことを思い出していた。
実は私も小さいころから作業が好きで、すっかり大人になった今、簡単な手仕事をしたいと考えていたところで。
じいちゃんの部屋に残ってるもので、何か使えそうな道具があれば持って帰ろうかなー。
そう思い、ばあちゃんに断りを入れて、部屋を少し捜索させてもらった。
もう何年も入っていなかった祖父の部屋は、想像以上に工具や部品であふれていた。
今の私からすると、結構宝の山にも見えるんだけど、興味のない家族からしたらことば通り“ごみの山”だ。
崩れないように山を漁っていると、刷毛が何本か見つかった。
「ねーばあちゃん、刷毛、1本もらって帰っていい?」
祖母に声をかけると、すぐに、「いいよいいよ!どうせ業者さんに片付けお願いせんといかんちゃから」とokしてくれた。
私の祖母は、何でも、すぐいいよって言ってくれる。
おばあちゃん、ほんと大好き。
「なんに使うとね?」と、祖母。
「んー、最近古い棚を買ったかいよ、木材用の油塗ろうと思ってて」
「あ、そうね」
よくわかっていないのか、あっさり会話は終わり、そのあと支度をして祖母とお弁当をテイクアウトして帰り、父を加えた3人で昼食を食べた。
父に、祖父の部屋から刷毛をもらった話をした。
父自身も、以前祖父の電気ドリルをもらった話をしていたので、
私が刷毛をもらった話をしても嫌な顔はされなかった。
よかった。
話を隣で聞いていた祖母が、私のもらった刷毛を見ながらうんうん、と頷きはじめ、
「じいちゃんの形見やねえ」
そう言われた。
…いやいや、(笑)
なんか、すごくいい話っぽいけど、
ばあちゃん自身、普段じいちゃんの工具の話とか嫌そうに話してるやん!
いらんいらんていつも言ってるやん!
しかも私、そんなにこの刷毛にじいちゃんとの思い出があるわけでもないし、思い入れもないし、
たぶんじいちゃんも、ずっとつけてた時計とか、自分の作った皮の財布とか、そっちの方を形見にして欲しいんじゃない?
そう思ったけど、
「そうやねえ」
そう返しといた。
はじめて記念日
これを目に留めてくださったあなたは、自分が初めて歩いた日を覚えているでしょうか?
初めて「ありがとう」って言った日は?
初めて自転車に乗った日、初めて自分のおこづかいでおやつを買った日、初めてお風呂に1人で入った日、初めて家の壁にらくがきしてみた日、初めてダンゴムシをポケットに入れて帰ってお母さんに絶叫された日、初めてともだちの悪口を言ってみた日、初めてゴキブリが飛ぶ瞬間を見てこれ以上の恐怖映像はないと思った日、「ああ、自分って意外となんにもできないんだな」と初めて家族と離れてみて感じたあの日…。
きっとたくさんの「初めて」が、今もこの瞬間にも、世界中のいろんな人の中に生まれては、消えていってることでしょう。
いつだったかともだちが、「人生初めての瞬間は、あ、これが初めての時だってその時わかるけど、人生最後の瞬間は、これが人生最後になるんだなあ…ってその時はわからないもんだよね。もしかしたら、今こうやって会ってるのがさ、死ぬ間際にようやく、あの時が最後だったんだなってなるかもしれないもんね」
なんてことを、セミがジリジリ鳴いてる長谷寺で言っていた。その頃のともだちは、何かにつけて文学的だったので、
「文学的だねえ」って返事したのを覚えてる。
今日の私にも、「初めて」の瞬間があった。
目的の場所があって、住宅街をとぼとぼ1人で歩いてた。
梅雨入りもしてないのに、今日は30℃超えるだろうってヤフー天気が言ってて。たしかに今日は、あっついなーって思いながら歩いてた。
ふと、右を見た。
家があった。
玄関が見えた。
おじさんが出てきた。
おじさんが出てきて、
おじさん、玄関のドアを閉めながら、
「ぐえーーーーーーーー」
めっちゃでかいゲップして、
ちらってこっち向きながら目があって、
目が合いながらおじさん、
ゲップした瞬間私が見てたのに気づいて、
たぶんおじさん、私が見てたの気づかずにゲップしたんだろうなって
そのことに気づいた自分に気づいて、
何でもないようにお互い前向いて、
「たぶんこれ、『初めて、ゲップした瞬間のおじさんと目があって気まずくて可笑しな気持ちになった瞬間』だ」って。
私はだれにもわかんないようにくすっ、て笑って。
勝手に今日を、
「はじめてゲップした瞬間のおじさんと目があって気まずくて可笑しな気持ちになった記念日」
に制定した。
走るこども、走らないおとな
喫茶店へ向かう途中、道路の反対側に両手を広げて立っている女性がいた。
何をしているのか気になった。
見ていると、女性の数メートル先に、走ってくるこどもの姿が。
なるほど、自分のこどもが小学校から家へ帰ってきたところかあ。
学校から帰ってきた我が子を、お母さんが抱きしめて迎えてあげるなんて、
なーんてすてきな親子だろって思ってたら。
なんとこども、走って帰ってきて、
お母さんの前を、
そのままスルーして玄関へ。
お母さん、「…え?」
みたいな顔して、
両手をスッとおろして、
自分もそのまま玄関へ。
すてきな場面を見られると思ったのに、
私も、「え?」
と思いながら、
そのまま歩きつづけた。
そういえば、小学生ってなんかやたら登下校中走ってるよなあ。
別に急ぎの用事があるわけでもないだろうに。
でも、たしかに自分も登下校中よく走ってたかも。
朝から友だちを追いかけて、追われて、
蜜をすえる花のスポットでは立ち止まるけど、
すったらまた走りはじめて。
別に急いで帰らなきゃいけないわけじゃないのに、
1本早いバスにどうしても乗りたくて、
「さようなら」と同時に下校班の友だちとスタートダッシュを切っていた。
たまたまなのか?
いや、私の20年後輩のこどもたちも、
やっぱりよく走っている。
なんでなんだろう。
そして、いつから走らなくなったんだろう。
ん、待てよ、中学生の時はどうだったか?
自分は中学生の時から自転車通学だったので、
登下校で走ることはなくなったけど。
あ、でも、中学も高校も運動部に入っていたから、その分よく走ってたか。
(しかもやたら走らされる部だった。)
大学生になると、一人暮らしで体たらくな生活をしていたので、
遅刻しそう!と走る場面は多々あった。
…もしかしたら、人間、
どこかしらで走る時間を確保するように、
DNAにプログラミングされてるのかも…。
いやでも待てよ、社会人7年目の自分は、走るタイミングが全然ない。
というより、走るほどの運動をしたり、
走るほど急がなくなってるのかも。
走りたくないから、前もって行動するようになったり、
食事に気をつけたり、
寝る前にストレッチを始めてみたり、
ほんとはバスに乗りたいけど、がまんして目的地まで歩いてみたり。
そんな生活に変わっている気がする。
…わかったぞ。
おとなになったら、走らなくなったんでなく、
もう走れないんだと。
それなら納得。うん。
そういえば、つい3日前、久っっしぶりに走る父を見た。
空港で、ポケットからチケットを落とした人がいたのだ。
たまたま気づいた父が、あわててその人を追いかけていて、
…たしかにヒヤヒヤした。
コープでいいよ〜♪
今年6月の帰省一日目。
姉とめいっこおいっこ3人が、
迎えがてら実家に遊びにきてくれた。
2歳半になったおいっこは、ことばの爆発期のまっただなか。
ひょうきんな性格もあって、
ニコニコ、ケラケラ、マシンガンのようにおちゃらけていた。
ママの太ももの上に乗り、
「おでかけ〜。おでかけいってくださ〜い」
と、楽しそうにしている。
ママも、「おでかけ〜」のタイミングに合わせ、
足を曲げたり伸ばしたり。
ママの上で、鳩時計みたいになってるおいっこが、
ほんとうにかわいい。
おとなが、みんな笑っていた。
だけど、弟がちやほやされるとおもしろくないのはめいっこ。
おいっこの「おでかけ〜」に、
「おでかけどこがいいのー?」とまた、笑いが起きる。
すると、
「えー、すーちゃんだったらコープ!!」
不機嫌そうにめいっこが返答。
弟から、おとなを取り返そうとする。
え、コープでいいんかい!!(笑)
どうせなら、もっとふだん行けないようなところ言いなよ〜。
と思っていたら、
再び、
「コープ行きたーーい!!」
と不機嫌そうにめいっこ。
「すーちゃん、コープでいいの?」
と私。可笑しくて口元がゆるむが、ばかにしたように聞いてはいけない。
めいっこは6歳にして、すでにプライドが高いのだ。
…そこでなぜかおいっこが動きを見せ始めた。
両手を高く上げ、少し上を向き、
ニヤニヤして、
「コープでいいよ〜♪ コープでいいよ〜〜♪♪」
と、おどった。
一同、爆笑。
なんて、安上がりでかわいいこどもたちだろうか。
おいっこのチャイルドシートが外れるころ、
私がこのこたちを最初に連れて行くのは、
きっとコープなんだろうなあ。
あげる
めいっこが、“雪の宿”をくれた。
私も、小さいころよく食べた、大好きなおせんべい。
めいっこも、おせんべいの中で1番好きらしい。
以前に何度か、
「すーちゃんのおやつ、私も食べたいなあ」
とおねだりしたことはあるが、
いつもめいっこはお菓子をゆずってくれるそぶりは全く見せず。
「やだー!!」
と言っては1人で全部食べていた。
そんなめいっこが、
「あげる」
初めて、“雪の宿”をくれた。
私も、小さいころよく食べた、大好きなおせんべい。
お父さんと、半分こして食べた。
びょうびょうかいごの話
最近、短編集をよく読んでいる。
加齢とともにどんどん集中力が落ちてきて、
長い話は(あんまりむずかしい話は元々読めない、というのもあるけど)
よっぽどおもしろそうなサスペンスくらいしか読めなくなってきた。
だから、もっぱら短編のフィクション、
つまりエッセイを手に取ることが増えていて、
それでも集中がつづかないときは
星新一さんの「ショート・ショートシリーズ」を読んでいる。
それもだめなときは、絵本をよんでいる。
あ、もう短編集じゃないときついかも、
そう思い始めたころ、安野光雅さん編集の「思いがけない話」を読み始めた。
大好きな絵本、「押絵と旅する男」が入っていたし、
大好きな安野さんが編集した本であり、
装丁にもひとめぼれしたということもあって、メルカリで見つけたときには即ポチった。
「思いがけない話」では、「夜までは」という作品に始まり、「改心」「くびかざり」…と各ものがたりがつづいていく。
「夜までは」は見開き2ページで終わり、
また、自分にとっては想定外の内容だったので、
え?
…あ、ああ。
ええ(笑)
くらいの反応だったので、
そこまで深く考えず次の「改心」へ。
面白い話だった。
序盤、どんどん引き込まれ、どんどん読みすすめる。
…も、私の集中力では話半分くらいのところでふと我に帰ってしまう。
…まてよ。
この本のタイトル、「思いがけない話」だったよね?
ってことは?
この流れからしてさいごはこうなるとか?
いや、こっちのパターン??
えーーーー…。
と、頭の中でいつものおしゃべりパニックが始まってしまった。
タイトルが「思いがけない話」なんだから、
結末が“思いがけない”もののはずだよね?
この話のタイトルが改心ってことは…
もう、だめだった。
よっぽど“文字”を読もうとしないかぎり、
頭の中で素人探偵があーだこーだ言ってうるさかった。
話に集中できなくなった。
あるとき、星新一さんの「悪魔のいる天国」のある短編を読んでいたとき。
実は、そのときタイトルを読みとばして内容を終えてしまった。
いい意味でタイトルの印刷が本文とうまくなじんでいたので、
前の話が終わり、ページをめくって、そのまま自然と次の話の内容を読み始められたのである。
最後まで読み終わり、ふと
この話のタイトルなんだっけ?
とページをめくり戻った。
この話のタイトルは、
「殺人者さま」
…あっ。
これだ、と思った。
過ぎた人生の出来事を、後から振り返ったとき、
ようやく過去に意味をつけられたような、
そんな感覚だった。
これだ、これだ。
次からは、できるだけタイトルは読まずにいこう。
最後まで読み終えて、答え合わせするのだ。
——ただ、ここでふたつ問題が。
そもそも、
①本自体のタイトルを知らずに本を買うことはありえない。
タイトル買いをした本も、たくさん持っている。
(そして積読になっている)
②私は、帯に書いてあるキャッチコピーを読むのが大好き。
話の前提が入っていないと、(長い話はとくに)読んでいてワケがわからなくなっておもしろくない。
②は百歩譲ってがまんするにしても、
①はむりです。
そんなこんなで、
今回はみなさんがもうきっと忘れてしまっているかもしれないこの話のタイトルについて。
最近、よくこのことについて考えているんです。
私の両親は2人ともそれぞれ進行生の難病もち(母親は完全寝たきり。父は自立はしているけど、すでにたくさん転んでるみたい)です。
少子高齢化が叫ばれ始めて久しくなり、“老老介護”なんてことばも当たり前になってきたように感じますが、
うちの両親は“老老介護”どころか、
“病病介護”してます。
これについては、またおいおい。
本が生まれた日
本を買う前に、あなたは何を見るでしょうか。
エッセイに興味をもつくらいですから、
タイトルはもちろん、目次を見たり、
帯のキャッチコピーにおっ?、となったり、
装丁をじっくり眺めたり、初めの数ページをペラペラ読みすすめる、
そんな方々がたくさんだと思います。
私の場合、出版日を必ず見るようにしています。
【〇〇年〇〇月〇〇日初版発行】ってやつです。
もしかしたら、これって大半の人がたしかめてることかもしれないけど、
私は他の人に「ねえ、本買うときに発行日みてる?」
なんて聞いたことがないのでわかりませんが、
少なくとも昔の自分はそんなところ気にもしてなかったので、
おそらく見ないで本を買う人もいるだろうということで。
きっと、お肉や魚の消費期限をたしかめて買うのと同じくらいの常識ではないと思っています。
自分の持っている本、手に取ってみた本、なんでもいいので一度確認してみると、案外楽しいです。
あ、これ、彼氏の誕生日といっしょだ、とか、
自分の生まれた年に発行されてるやん、とか、
一気に親近感がわきます。
何より、自分と同じ誕生日の本に偶然出会えたときは、なんとも言えない不思議な気持ちになりますよ。(西暦までぴったり一緒だとなおよしです)
自分が、オギャアオギャア言い始めた日に、この本も世に出てきたんだなーって。
私がこの本に出会う前から、
この本はこの世界のどこかでだれかに読まれていたんだなあって。
本のワンフレーズが、まるで自分に向けてのメッセージのようにも感じてきます。
ちなみに、私と同じ誕生日の本についてですが、
実をいうと、
どれが同じ誕生日の本だったか忘れました。
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