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#66 遊びを無くすことのジレンマ

さあ、66本目書いていこう。よく言われる、やらないことを実践するというやつを生産性という観点から考える。

生産性を求めた結果

今の自分の生活で、無駄に時間を使っているもの、非生産的なものはどれだけあるだろうか。正直誰しも一つぐらいは非生産的な習慣をしている場合はあると思う。理由としては、仕事ならまだしも、プライベートの空間でも生産性を常に求める生活をしているようでは疲弊すると思うからだ。仕事終わりの平日はまだ分かるが、休日も自分で自分をコントロールして、遊びの中にも生産性を取り入れて、例えばお金にならないような趣味はしないとか徹底した生活を送っている人は少なからずいると思うが、大抵は疲弊して挫折する。最初はなんとか続けているが次第に疲れてきて面倒くさくなってやらなくなる。

なぜオフがあるか

じゃあ、なぜ、人間は常に動き続けることはできないのか?なんでもオンとオフの仕組みがあるように、オンで動き続けることは生物としては難しい。眠るという行動があるように、休まないと生き物は死ぬ。休むは休憩をとる、寝るというような行為を指すとしたら、プライベートな空間までも休まずに生産性を求め動き続けることを自分に強要すれば、それはオンの状態がずっと続いているので、いつかは疲れて死ぬ。だからこその、非生産的な行動なのではないか。非生産的な行動には何があるだろうか。だらだらとゲームをする、ゴロゴロ横になる、長時間寝ている、ぼーっとテレビを観る。そういった行動が非生産的な行動だと思うが、確かに、これ自体を非生産的だからこの無駄を削ってより効率的な生活を送ろうという意識は悪くないが、実際にそれを行動に移してしまうと、実に味気のない、機械のようにただ働き続ける生活をがあるだけになる。我々人間は生き物だ。感情がある。時に、休みたいという衝動に駆られるのは実に感情に正直だと思う。でも、感情に左右されるのは良くない、コントロールしなければならないというような話がある。確かにその考えはごもっともだと思うが、気を張りすぎてしまうと、繰り返しになるが、いつか疲れて死ぬ。経験則も入っているが、これも既知の事実だと思う。だからこそ余暇があり、余暇を楽しむための遊びが大人社会にもあるのだ。

生産性と完璧を求めだしたら

自分自身に生産性と完璧を求めだそうとしたら、一旦立ち止まって考える。例えば、軌道に乗っている活動を継続するときに、「今日はこのコンテンツにしよう」と考えて、結局その間にやろうと思った仕事で潰れてしまい、折角これまで継続してきたことが途絶えるというようなことがあれば、とにかく内容はさておき、まずは継続をメインに考えるのか、それともちょっと遅れても良いから質を重視させていくためにも、少しの遅れは止むを得ないと考えられるのか、その辺りは柔軟に考えてみてほしい。

遊びへの思考の転換

毎日継続することでも、質が伴わない結果、結局大した成果に結びついていないのであれば、変化しなければならないので、無理矢理それを続けていても、それこそ非生産的な行動となってしまう。生産性を求めるあまり行動した結果が非生産的な行動となっては元も子もないので、質を上げていくには、遊びも必要だと考えられるようになるのではないか。
今自分の生活の中で「これ無駄だよな?」と思っている行動が少なからずあると思うが、一見無駄と思えるようなものでも、何かしらの意味がそこには存在している。一旦立ち止まってみて、そこにある意味がなんなのかを考えたい。そして、それを変えたいのであれば、他に代用できそうなものは何かないかを考える。仕事に疲れた心に刺激を与えようとするがためにやっている遊びならば、それに代わる遊びを用意してやる。より無駄に思えないような行動に。でも、それが今の自分にマッチしていたから、その行動をとっているわけで現在進行形で考えるなら、それだということなのだが、未来志向でも考えるなら、やはり新しいものもどんどん取り入れようとしていかなければならないと思う。結局、今やっていることも、過去の行動の結果だと思うので。新しい情報は常に入ってくるので、その中で自分を制御して行動に移していこう。

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