『二人の記憶』第52回 親が通る道
四つん這いからの前進まではあっと言う間だった。まるで匍匐前進のように、しかし素早く動く様は日に日に勢いを増し、突進しては止まり何故か笑顔を振りまいて、また突進する。
たくましい腕と脚が何かを予感させる。
「この調子だとこいつはプロスポーツ選手になれるかもだな」
「出た、親バカしょーたろー」アコがからかうのを聞いてか聞かずか、昇太郎は続ける。
「だってさ、見てこの脚。ガッシリしてるよ。そしてこの速さ。赤ちゃんオリンピックがあったとしたら金メダル候補だろ、きっと」
「うーん、でも赤ちゃんの脚ってみんなこんなだよ」
「こんな?」昇太郎は碧のムチムチした太ももを触りながらアコを振り返る。
「みんなそうだよ。速さは確かに早いかもだけど」
「な、そうだろ。ただ太くてしっかりしているだけじゃなくて、肝心なのはその速さだよ。アオくんはさ、速いよこれは」
最近はアコにつられて昇太郎も碧のことをアオくんと呼ぶようになっていた。自分の子供を君付けはおかしいと力説しアオイと呼び捨てにしていたのが、いつの間にか「アオく〜ん、こっちおいで〜」なんて言っている。
その代わりと言っては何だが、これまでラグちゃ〜んと猫なで声を出していたのが、最近ではラグと呼び捨てになっていた。碧のおでこを引っ掻いたあの日がきっかけで。
そういえばあの日は帰宅するなり昇太郎が血相を変えてアコに食って掛かってきた。
「アコ! 碧に何した? ちゃんと見ててあげたのか。目を離して無かった? 何が起きた?」と矢継ぎ早にまくし立てた。
その時にはラグが引っ掻いたことを忘れていたから、アコが要領を得ない返事をすると、
「見てよこれ。このおでこ。血が出たんじゃない?」と昇太郎が指をさす。
碧を見てアコも思い出したが、いきなり言われて腹が立ったので、
「何よ、帰って来るなり文句ばっかり言って。人間なんだから血くらい出るでしょ。男の子なんだからそのくらいのことでわーわー言わないでくれる?」と応戦した。
アコの勢いに昇太郎は少し押されて、
「じゃあ、何なのこれは、この傷は」と聞いた。
昇太郎は日中の顛末を聞くと今度は、
「ラグーッ!」と吠えて怒りの矛先を飼い猫に向けた。当然こんな時にラグは出てくるわけがない。どこかでじっと息を潜めているのか、昇太郎が家中を大声で探し回っても見つからない。
「しょーたろー、近所迷惑だからやめてくれない?」とアコに言われて我に返り、昇太郎は
「後で見つけたらとっちめてやるからな」と誰に言うでもなく独り言ちた。
後でとっちめられたのは昇太郎の方だったが。鋭い牙と爪で。
つづく