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スピノザ推しがマルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」を読んで感じたこと

「なぜ世界は存在しないのか」

今回読んだのはこちらの本。
タイトルにあるとおり、著者は「世界は存在しない」と主張しており、その考えに至る理由と、その視点からみたときの自然科学、宗教、芸術(絵画やテレビドラマ)について語っている本である。

マルクス・ガブリエルの考え方

「存在」についての新しい定義

マルクス・ガブリエル(著者)は、「新しい実在論」を説く哲学者である。「新しい実在論」に基づくと、「世界は存在しない」という結論に至る。

そもそも新しい実在論では、「存在」を以下のように定義している。

存在すること=何らかの意味の場に現象すること

なぜ世界は存在しないのか

例えば、「こたつ」の存在について考えてみると、「こたつ」は「居間」にあることが多いので、「居間」というまとまりを考える時に「こたつ」が現れる。居間には他にも、テレビやゴミ箱などがあるかもしれない。

一方で、「宇宙」について考えているとき、「こたつ」というものはなかなか現れない。むしろ、銀河や太陽や相対性理論などが現れる。(逆にそれらは「居間」について考えている時には現れない)

この「居間」や「宇宙」などがそれぞれ「意味の場」で、その場に現れていることを「存在する」と定義するのだ。

もっといえば、「夢の世界」という意味の場に現象する「ユニコーン」や「不死鳥」も存在するし、「機械が接続された人間」も存在するし、「火星人」も存在する。意味の場は、「個別的・唯一・相対的」という特性をもつものの、無限に存在することができるので、そこに現れるすべてのものが存在すると考えることができる。

(✍️)
でもこの存在の定義って、ちょっと普段の「存在」の感覚と違うよね。そういう定義ならしょうがないし、間違ってないと思うけど、感覚とは違うなと思った。

では、世界はどう「存在」するのか?(しない)

さて、そんな著者の視点から考えると、「世界」とは一体なんなのか?

私たちが想像する世界はすべてを包括する一つのものなので、それを新しい実在論的に考えると、「世界」とは「すべての意味の場を包摂するもの」ということになる。

しかし、私たちが「世界」について考えているということは、「世界」が現れる意味の場が存在しているということである。つまり、「世界」より大きな意味の場があることになってしまうので、「世界」の定義と矛盾する。そもそも、無限に広がる意味の場を一つの言葉で定義して扱うことができない。

よって、「世界は存在しない」ということになるわけである。

一元論といえばこの人!スピノザの考え方(私はこちらが好き)

著者が本の中で否定している従来の考え方がいくつかあるが、そのなかの一つが一元論である。また、その一元論の代表者としてスピノザの名を挙げている。(と思う、もしかしたら私の勘違いの可能性もある)

スピノザで有名なのは「神即自然」であるが、スピノザの神の定義は以下の通り。

(ざっくり言うと)無限の属性を持つ唯一の実体こそ神である

エチカ

「無限の属性を持つ唯一の実体」。これが、著者が存在しないとしていた「世界」そのものではないだろうか?スピノザはそれこそが神であり、存在するとしている。

著者がもっともスピノザに対して辛辣であった箇所(私調べ)

著者は、本の中で一元論を否定しているが、それをなぜ否定するかといえば、フェティシズムに陥っているとするからである。

フェティシズム:自らの作った対象に超自然的な力を投影すること

フェティシズムの定義を踏まえた上で、もっとも辛辣にそれを批判していたのが以下の箇所である。

そのような投影によって人は合理的な全体に自らの同一性を統合しようとするわけです。何らかの仕方で理解することのできる全体の一部分として自身を捉えることができれば、自分は孤立せずに守られていると感じられて安心できるからです。それに、物事それ自体で既に規則に従っていると考える方が、物事が崩壊しないように私たち自身が社会的協働の中で配慮し続けなければならないと考えるよりも、ずっと生きやすいに決まっています。そこで人が自らを組み込んでいく大きな全体は、大抵は社会それ自体ですが、私たちには当の社会それ自体の細分化の全貌を見通すことができません。

スピノザは、神を唯一の実体と定義しているので、それ以外のものは実体の一部分が形を変えて現れているだけ、と考えている。つまり、私たち自身も神の一部であり、一つのまとまりの中に納まっていると捉えることができるのだ。

これは、引用した文章で著者が否定している考え方そのものではないだろうか…?

マルクス・ガブリエルとスピノザ、どちらの考え方を選ぶか?(正しいかどうかではなく)

著者とスピノザ、二人の主張は真っ向から対立している。私はスピノザ推しなので、なぜ著者がスピノザと対立しているのか、なぜ私はスピノザが正しいと思ったのかを考えながら読んだ。そして、以下の2つの問いにどう答えるかが、著者とスピノザの違いなのではないかと考えた。

私たちは、無限であるものを1つの塊として捉えることができるのか?

著者は、無限なものを意味の場に減少させることができないので、存在しないとした。一方スピノザは、無限の実体を神と定義した。

わたしたちは、無限の広がりのある何かを1つの塊として捉え、理解することができるのだろうか?「神は無限である」「世界は無限である」と言葉で表現するのは簡単だが、それは本当に「存在している」と言えるのだろうか?

この世界は混沌とした無限の広がりなのか、秩序ある無限なのか?

これは言い換えれば、この世界を説明する唯一の法則が存在するのかどうか、ということである。

スピノザの場合、原因と結果の法則があり、この世界の全ては必然であると考える。

一方、マルクスガブリエルの場合、この世界を説明できる唯一の法則は存在せず、無限の広がりがあると考える。

今のところ、個人的に思っていること

今回読んだ本はわかりやすかったし、著者の主張も正しいと思った。ただ、「ユニコーンが存在する」と言われても、やっぱりピンとこないのは事実だし、慣れないな〜と感じた。「新しい実在論」というぐらいだから、やっぱり存在の定義が新しい。従来の定義に浸りきっている者としては、違和感があるのは当然なので、この点についてはじっくり考えたい。

世界は1つの塊で、なんらかの法則があり、秩序があると考えた方が生きやすいし、安心。私は、そういう世界で生きていたいと思った。本当は全て必然で、私たちが全ての原因が捉えられないから、自由意志があると勘違いしてしまっている、と言われても、そちらの方がいい。


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