高等学校の国語の授業 論説文編⑦ 『水の東西』の推論指導の意義=表現1
今までの国語の授業は教材を読んで終わりということも多かったことでしょう。国語科教育では「教材を読んで終わり」ということは絶対にありません。「読んだ後」に指導にこそ意義があるのです。
文学的な文章でしたら読書活動に結び付けなければ意味はありません。論理的な文章でしたら自己の論理的な表現に結び付けなければ意味はないのです。
「推論の仕方」についての解説には、
これらの推論の仕方は決して特別なものではなく、日常的な思考の中でもよく使われているものである。そのことを踏まえた上で、高校生として、これらを意識的に使うことが求められる。
とあります。『水の東西』で高校生としての「推論の仕方」について理解を深めたならば、その理解を自己の表現に生かす必要があるのです。
では、「高校生として、これらを意識的に使う」ことができるようにするための指導はどうあるべきなのでしょうか。まずはじめにやるべきことは、同じ国語科教育の「国語表現」等の授業において表現してきた自己の論証を振り返らせることになるでしょう。具体的には、その自己の論証の中に組み込まれたひとつひとつの推論の妥当性を検討させていくことになります。そして、蓋然性が低い要素があったなら、必要に応じて裏づけとなるさらなる推論を構築させていくことが必要となってくるのです。
「国語表現」の教科書教材には、本の推薦に係る推薦文の作成やスピーチの実施などの単元が多くあります。例えば、この単元において『羅生門』を推薦するために下段のような「演繹的な推論」を基盤とした推薦文を書いた生徒がいたとしましょう。
データ:『羅生門』は人間のエゴイズムが表現されている
↓ ← 理由づけ:人間のエゴイズムは高校生として知っておくべき
↓ ものである(=読むべき価値がある)
主 張:『羅生門』は読むべき作品である
この生徒は、まず自分の「データ」「理由づけ」の蓋然性について検討することが必要になってくるのです。