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3.11をツイートで振り返る ー 親を我が家に連れ帰るまで

2011年3月20日〜24日のツイート

10年後の振り返り

当時はPHS利用者だった。そして石巻に行く前にiPhoneを購入。その理由は、PHSだと特に移動中だと切れてしまうことが多かったため。記憶では親と連絡が取れる前に買っていたと思うが、いよいよ行く直前になり、アプリインストールなどの準備をしたのだろう。しかし、『PHSのスマートフォン』と言っているのが謎。

また、一番最後のツイートも痛々しい。被災地のあれこれに私が怒っても仕方がないのに。おそらく私が私自身に感じる出来なさ振りがこのような形で表れたのかもしれない。

親と連絡が取れた3月19日は土曜日。この日から21日春分の日まで三連休で、すぐにはバスの予約がとれなくて、連休明けの22日の便の予約がとれたのだった。新幹線は運休、東北道も一般車両は通れず、緊急車両以外はバスのみの通行が可能になったのが19日とか20日とかだったような気が。予約がとれた仙台行きバス便の到着予定(たぶん15時台)を考えると、その日の内に石巻には行くのは無理だし、仙台で一泊してから石巻に向かうには車の方が便利そうだった。東京に居る間に、泊まるところの手配とタクシーの手配をすることにした。仙台のホテルで当時予約ができるところが見つからず、ネットで得た情報(東横インはにホテルに直接来た時点で空室があれば泊まれる、但し16時以降)で、当日東横インに行ってみることに。また仙台のタクシー会社に事情を話したところ、ドライバーはすぐに見つかった。

ということや、両親の避難については、肝心のところをツイートしていない(石巻に着いて両親と会い東京に向かう直前、そして東京に着いてから家に帰宅後のみ)。そんな暇はなかったしと思ったのだが、書いている内に思い出した。前回の、親と連絡がとれるまでの最後に書いたが、被災地に行って色々出来たことを投稿するのはやめようと思ったのだった。そのような投稿で、私自身が自分の出来なさを痛感していたから。

とはいえ、10年経つと記憶が曖昧になってきている。これ以上記憶が薄れていく前に曖昧な記憶でもいいから埋めておきたい、と今は思う。

3月22日、東京を出発する。そんなに早い便ではなかった。バスは満席でもなかったような気がするが、何度かバスで行ったのでゴッチャになっているのかもしれない。一番後ろに座った。後ろまで来る人はいないだろうと思ったから。私にはバスの中で何箇所かに電話をかけなければならなかったから。というのも、その前日まで休日が続き、病院などと連絡が取れなかったからだ。バスの中で、父の透析関連に連絡し東京にに避難することを伝えると受け入れ先が決まってからかけ直して欲しいというので、事前に調べておいた近所で透析をしているところに電話して受け入れ先を決めた。母は緑内障の手術を受けたばかりだったので、手術をした仙台の病院に電話をして事情を話し、紹介状を東京の病院宛に送ってもらうようお願いした。

東北道は被災で発生したひび割れなどを埋める保守がなされていたとはいえ場所によってでこぼこが激しいところがあった。福島県?のどこかで一旦高速を降りて入り直すという行程だった。

仙台着は15時台だったと思う。西口広瀬通の方の東横インに急ぎ、無事泊まれた。この時仙台は電気、水道は大丈夫だったが、ガスが通じてなかったはず。ホテルでは有難いことにお湯は出ていて、縮小されていたとはいえ朝の朝食サービスでおにぎりなどいただいた。泊まっているのは作業服を着た人が多く、一般客はあまり見かけなかった。

頼んでいたタクシーで石巻へ向かう。途中、ガソリンスタンドには長蛇の列、海沿いの(と言っても車で通れるところだが)被災状況に驚いた。母が見たら驚くに違いないと言ったら、ドライバーは帰りは別な道を通るから大丈夫とのこと(実際、沿岸部を避けて走ってくれた)。

そういえば、19日に母と連絡がとれた際に、母に携帯電話を貸していただいた隣人の方(Iさん)とも話をしたのだった。Iさんは、石巻に来る日時がわかったら教えてほしい、そうしたらその日に母を連れてアパートの前で待っているから、とまで言ってくださり、そうさせてもらった。だから、石巻の親が住んでいたアパートにまず向かってもらった。

アパートは陸前山下駅の近く、築年数が浅いファミリー向けのアパートが何棟もあるところにあった。浸水がここまで来たという泥のラインが外壁についているものの、その時点では浸水もなく、道路の両側に冷蔵庫、洗濯機、タンスなど使えなくなったもので壁ができていた。

Iさんご夫妻とお子さん、母と会う。Iさんにお礼を言い、東京から持参したわずかな物資を差し上げた。母とIさんの奥さんは別れ際辛そうだった。また、被災後初めて自宅に入り、母が持って行きたい(といってもバスなので手に持てる範囲のものだが)ものを選んだ。そして、避難していた場所に行き、両親の荷物をタクシーに乗せ、親戚の家に向かう。被災後初めて会うので互いにホッとしていた。石巻ではこのくらいだったと思う。話をした時間が長かったので二時間くらいはいただろうか。その後仙台の父が透析している病院へ向かった。

透析の病院で受け入れ先の病院への手続きなど聞いて、東京へのバスの時間まで両親は病院の好意で待合室で休ませてもらう。何か食べに行こうと誘ったような気もするが、ここに居たいと言うので、食べ物と飲み物を買って渡して、私と夫は外に出た。思えば、両親は避難所を転々としており(アパートの二階の踊り場で隣人家族と過ごして翌日救出され、近所の高校へ、水が出て別なところへ、別な病院、また別な病院など、私の知る限り4箇所)、落ち着けなかったはずだ。

父はかなり混乱していたようで、自分の妻はわかっていても、私や夫のことを認識できていなかった。ただ落ち着いていた。夜10時にバスに乗る際に、これはどこに行くバスなのかと聞くので、東京と言うと、そうですか、ありがとうございます、と言った。バスは途中パーキングエリアで止まるものの、運転手の交代?休憩?のためで、利用者はバスを降りてはいけなかった。バスが止まるたびに、前の座席に座る父に降りないようにと後ろから伝えると、ご親切にありがとうございます、と言われた(東京に来た後、人の認識は戻ったが)。

バスが到着したのは朝5時半、新宿西口のヨドバシカメラ前。タクシーで家に向かう。途中桜のトンネルのような道を通った。ここが今年は一番綺麗なんです、とのことだった。早朝に坂道を登るタクシーから見る桜のトンネルは妖しい美しさがあった。

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Toshiko Nomura | SEIZE THE DAY
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