港区のタワマンに住むのが「幸せ」か、田舎のボロ家に住むのが「幸せ」か
はじめに
いつも冒頭でいきなり結論を書くスタイルなのだが、今回は最後に持っていく。いつもなるべく簡潔に書くように心がけているが今回はちょっと簡潔に書くのが難しかったので、目次つけたりして工夫してみた。
僕の個人的なレイヤーの浅い「幸せ」の物差しでは田舎暮らしなのだが、「幸せの形は人それぞれ」と言っちゃえばそこで思考が止まるので言わないことにする。
幸せの定義
まず、幸せとは何かを定義しないといけない。より普遍的な「幸せ」とは、エントロピー増大の法則に逆らうことに見える。
エントロピー増大の法則とは
エントロピー増大の法則を簡単に説明すると、「必ず世界は乱雑な状態から均一な状態に向かっていく」というものである。
例えば、水に氷が入っている状態は、時間が経つとぬるい水になる。この時、ぬるい水から水と氷に分かれることはない。必ず、乱雑な状態から均一な状態に向かっていく。
これがエントロピー増大の法則だ。
(※熱力学より広義に捉えてお届けする)
量子の世界でもない限り僕たちの住むマクロな世界はこの法則に従って動いている。
「幸せ」とはエントロピー増大の法則にあらがうこと
生物ももれなくこのエントロピー増大の法則に従う。
僕たち人間はとても「乱雑」だ。心臓や肝臓など多岐にわたる機能部を持ち、言葉を喋り、脳味噌で複雑な思考ができたりする。
だが、それも少しずつ衰え、最後は死んで土に還り、周りの世界と溶け込んで「均一」になる。
基本的にこの「死」に対して抗うことはできないのだが、各機能部を新品に取っ替える機能でなんとか死なないようにしている。それが代謝だ。
古くなって「均一」に向かおうとしている皮膚は捨て、新しい皮膚を作り出す。そういうようなことをして、なんとかこのエントロピー増大の法則に逆らっている。
代謝が死への抵抗である。強いてはエントロピー増大の法則に逆らうことが幸せである。
いやまて、死んだら不幸なのか?
それは分からないが、生命たるもの生きていることが幸せという機能を持つはずだ。死後の世界は観測不能だ。人間を作った例外の連鎖は、観測不能であるものを目指して機能を構築することはないはずだ。
(※この部分の論理の飛躍の解決は後回し。どなたか「生きる事」=「幸せ」を証明してみてほしい)
自己の拡張
人間は死から遠い位置にいることが幸せだということになった。
さらに人間は自己を拡張する。例えば、自分の持っている服やアクセサリーなども自分の一部とみなすようなことだ。そう、「家」も自分の一部として捉えることができる。
つまり、家も死から遠い位置にあるようにしたがるはずだ。
家の死とは、朽ちて土に還ることだろう。
ということは、大自然の森の中のあばら家より、作りこまれた都会のタワマンの方が死から遠い「乱雑」な状態だ。
結論
つまり、港区のタワマンに住むほうが幸せだ。