理屈と屁理屈の境目
ない。
理屈とえば全部理屈だし、屁理屈と言えば全部屁理屈になりえる。
例えば、
母:「片づけなさい!」
子:「片づけたってまたどうせ散らかるんだからいいでしょ!」
母:「屁理屈はよしなさい!」
みたいなときに「屁理屈」って使われる感じでいいと思うが、これ、ちゃんと理論的に正しい”理屈”でもある。
確かに、また散らかるのになぜ片づける必要があるのか。かなり合理的な判断である。
ただ、屁理屈だと言われれば確かに屁理屈っぽくも感じる。なぜ屁理屈扱いできてしまうのか。それを許す何かが潜んでいる。
それはきっと主観的な何かで、道徳的な何かに違いない。犯人像はうっすら見えている。コナンばりにその犯人を追おう。
まず、手始めに屁理屈の定義を調べよう。
みたいだ。今回は論理的に矛盾はないことから、理屈にはかなっているので1個目は除外できる。2個目だ。この"道理的"というところが怪しい。
よし、道理とは何か調べよう。
という意味があった。いた!この"正しい"が犯人だ。
「正しい」とか「正しくない」とかは主観が混ざる。
ロシアはウクライナ侵攻を「正しい」と思っているし、ウクライナは「正しくない」と思っている。
トランプは銃所持は当然の権利だと思っているが、バイデンは銃規制が当然だと思っている。
どちらも違う「道理」を訴えているのだ。つまり道理というのは人や立場、考え方によってどうとでもなるのだ。強いては、道理が内包されている「屁理屈」という言葉の用法は扱う者に依存する。
つまり、こんなこともあるわけだ。
母:「片づけなさい!」
子:「片づけたってまたどうせ散らかるんだからいいでしょ!」
母:「ぉおお、確かに…」
さあ、ここまできて「屁理屈」という言葉って、人によって違うんだからあんまり本質的な意味はないなぁと思ってきた。
なので、「屁理屈はやめなさい!」と言われても、人によって違うんだから、気にしないのが一番だ。
え?ちょっと反撃しないと気が済まない??じゃあこうだ。
母:「片づけなさい!」
子:「片づけたってまたどうせ散らかるんだからいいでしょ!」
母:「屁理屈はよしなさい!」
子:「今回僕のロジックには矛盾がない。つまり道理的に間違っているということをママは言いたいのだろうが、道理というのは主観であり、それを押し付けることは、ママの道理から外れてるのでは?」
母:「うるさいわバカタレ!夕飯抜き!」
子どもは夕飯と引き換えに自分の道理を守ったのだ。めでたしめでたし。