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「井の中の蛙」は世界が狭いのか
別に狭くはない。境界線が少ないだけである。
まず、「分かる」とか「知る」とかって、何かを考える。「分かる」とは、「区別することができる」ということだろう。
例えば、机の上にリンゴがある。「なんでリンゴがあるって分からないの!?」と言われたとき、この「リンゴ」を知っていないと、「なんかへんな赤い飾りがある机」くらいにしか思えないためだ。
リンゴっていう赤い果物があるんだよ、と誰かに教えてもらって初めて、リンゴと机の間に境界線が引かれ、「机とリンゴ」があると認識できる。
このように、「分かる」というのは「境界線をひける」ということになる。
この宇宙の中にある神羅万象全てのものの量は一定である。
もしかしたら、他の宇宙から入ってきたり、出て行ったりするインターフェースがどこかにあるかもしれないが、今のところ観測できていないので、ないと仮定する。
そうすると、井の中の蛙だろうが、大海の蛙だろうが、世界の情報量は一定である。
もしも、井の中どころか、世の中のなんにも分かっていない人がいたとしたら、以下のように世界のすべてはただ一つの物体に映っている。世界を見渡すと、凹凸が激しく、いろんなものが浮いたり沈んだり落ちたり割れたりしているが、それらすべてひっくるめてただ一つの物体に映っている。
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そこで、まずその人に「リンゴ」を教えてあげるとする。そうすると、世界は「リンゴ」と「リンゴ以外」の二つに分かれる。
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さらに、「机」を教えてあげるとすると、以下のようになる。
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この調子で、物知りになってくると、以下のように線がいっぱいになっていく。
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つまり、「井の中の蛙」は世界が狭いのではなく、境界線が少ないだけということになる。その蛙が、海にいようが川にいようが、世界の広さは同じだ。
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この時、大海の蛙と井の中の蛙は、境界線の数が違うだけで、情報の体積は一緒である。区切られた一つ一つに「リンゴ」や「机」と"名前"が付いているので、その名前分情報量が多いような気もするが、微々たるものだ。目に映る画像データや、鼻で感じるにおいデータなどに比べれば、テキストデータなんぞ微々たるデータ量だろう。
誰かを「井の中の蛙大海を知らず」とディスったとき、この境界線が少ないなぁとディスっていることになる。世界の広さや、情報量の少なさをディスれているわけではない。
まぁでも、リンゴや机といった言葉を持つと、人に伝えられたり、コピーできたり、色々便利になるので、境界線が多いに越したことはない。
なんだか境界線なんか多かろうが少なかろうが、”便利”なだけで、情報量は同じだ。ディスるほどのことではない気もする。
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