「今を生きる」は可能か
「彼女にフラれたよ~死にたいよ~」
「いつまで言ってんだ!今を生きろ!」
みたいなお言葉はよくある。
僕たちの人生を構成する時間軸を分割すると、過去、現在、未来と3つ、言葉がラインナップされている。「過去にしがみつくな」とか「今を生きろ」とか「未来は誰にもわからない」だとか巷では使われてるので間違いないだろう。
図にするとこんな感じだ。
でも、図を見てると「現在」ってこんなに幅を持ってるんだっけ?って思う。現在とは、過去と未来の境界線に他ならないので、ほとんど「点」に近いのではないか。ということで「現在」の幅を知りたい。
「現在」の幅はほとんどなさそうだが、それでも幅があるか調べたいので、「現在」を表す一点を顕微鏡で見ていくとどうなるだろうか。
どんどんどんどん拡大して拡大して、時間の一粒一粒が見えるところまで拡大していけば、少なくとも時間一粒分は幅を持っているだろう。
だが顕微鏡の倍率をあげていっても一向に時間のツブツブは見えてこない。どうやら時間はツブツブを持つような離散的なものではないみたいだ。
時間を一番小さく区切った単位(これ以上区切れない一番小さい単位)を1プランク時間と言ったりする。5.39× 10の-44乗秒だ。(0.0000000000000000000000000000000000000000539秒だ。)これが一粒と思いがちだが、これは観測できる最小の時間ってだけで、それより小さい時間も存在するかもしれないのだ。
時間は粒粒で構成されていないということで、改めて「現在」の話に戻ると、「現在」の幅はゼロだ。全く幅を持たない。
つまり、「今」や「現在」というのは無いことになる。
さて、現在を生きているわけではなくなったということで、僕達は過去と未来、どちらにいるのだろうか。
きっと過去の方にいそうだ。
人間が何か光を見た時、その光源が発光したのは過去である。
一番わかりやすいのは星だ。1万光年離れた星の姿は1万年前の姿である。
すぐ近くにいる母ちゃんの姿も、若干だが過去の姿なのだ。
おならが臭かった時も、おならは過去に発せられたものだし、カレーを食べた時の味ですら、そのカレーの味はベロから脳みそへの伝達に時間がかかる分過去になるはずだ。
つまり僕達は感じているものすべてが過去のものである。
さらに、僕達は観測対象があってはじめて自分を認識する。全く何も見たり感じたりしなければ自分も無い。
自分を観測しているのも自分、と考えれば分かりやすいだろうか。もっと言えば、観測対象の自分も過去の自分だろう。
以上より、僕達は過去に生きていることになる。なので冒頭の会話の続きはこうなる。
「彼女にフラれたよ~死にたいよ~」
「いつまで言ってんだ!今を生きろ!」
「今って、、、お前が声を発したのはもう過去だけど、100歩譲って僕がその声を受け取って脳内処理した過去を現在とする?ちなみにプランク時間が最小単位ってことでいい?」
「…こいつ頭イっちまった」
確かに、イっちまっている。