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自分は何のために生まれてきたか分かるか
分からない。分かる時が来ることはない。
以前、「生きる価値」というのは絶対分からないと言ったが、同じロジックで、生まれてきた理由も分からない。
たまに、ロマンティックな僕達は
「あなたに会うために生まれてきた」
とか
「この仕事をするために生まれてきた」
とかいう表現をする。
それほど素晴らしいものに出会えたという誇張表現だろうが、この表現が横行すると、それほど素晴らしい「あなた」に出会えなかった人はなんのために生まれてきたか分からないことになり、強いては生きていてもしょうがない、となる。
同じく、それほど素晴らしい「仕事」に出会えなかった人は何のために生まれてきたか分からないことになり、強いてはいきていてもしょうがない、となる。
このように、「存在意義が無いから生きていてもしょうがないな」と思って悩んでいる人は結構見かける。
このように、「生まれてきたこと」に意味を与える行為はなぜ行われるかというと、意味がないと存在意義が揺らぐことになるからだ。
廃校が壊されるのは、「あっても意味がない」からだ。イボが取られるのは、「あっても意味がない」からだ。どうしても人間は存在意義がないと存在してはいけないというバイアスがかかってしまう。
そのバイアスを自分にも適用してしまうので、存在意義を見つけ出したくなってしまうのだ。
だが見つけ出す必要はない。僕達の存在意義は有るのか無いのか、観測不能だ。
廃校の存在意義は「ない」だろう。これは、省略された意味も付け加えると、「廃校を作り出したのは人間で、その人間には必要ない」だ。そういう時に、存在意義がないとするのだ。
つまり、人間の存在意義とは、「人間を作り出した者にとって必要かどうか」となる。ということはつまり、人間を作り出した者にしか存在意義はわからないということになる。
この"人間を作り出した者"というのはだれかわからない。自然の摂理がその"何者"にあたるかもしれないし、高次元に住む何者かがシミュレーション空間に人間の住む世界を作ったのかもしれない。いわゆる神様が人間を作ったのかもしれない。
この人間を作り出した者にはメールも出来ないしLINE電話も友達追加できない。なので、僕達の存在意義は分かりようがない。つまり"観測不能"なのだ。
強いては、存在意義に悩むだけ意味がないことになる。絶対に分からないのだから。
周りに「私って何のために生まれてきたんだろ」ってうなだれてる人がいたら、「絶対に分からないから気にするな」と言ってあげよう。
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