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「定性的な利害関係者」と言える。ここで、「定性的」と「定量的」の言葉について定義を示す。

定量的
 「物事を数値化できるさま」

定性的
 「物事で数値化できないさま」

「友達とは何か」はいろいろな定義が存在している。
「一緒にいて楽しい人」とか、「飾らずにいられる人」とかだ。

だが、どれもこれも友達の定義としては不十分に感じる。
「一緒にいて楽しい人」なら家族だってそうだし、「飾らずにいられる人」なら恋人もそうだ。

なぜどの定義もピンとこないかと言うと、「友達」とは他の利害関係と違って、数値化できない、つまり「定性的」な利害関係だからだ。

例えば、「同僚」とは、会社から相対評価を受ける相手なので、同僚Aの評価が上がれば、同僚Bの評価が下がる。つまり、同僚というのは「評価」という定量的な利害関係を持っている。

「家族」はどうだろうか。家族とは、「法的に結びついている存在」なので、財産を共有している。母が新しいバックを買えば、お父さんの車は諦めるといった具合で、財産という定量的な利害関係を持っている。

恋人は、お互いが肉体関係を持てるか持てないかという定量的な利害関係を持っている。

さて、では「友達」はどうだろうか。定量的に測れるものがあるかというと、全く思い当たらない。

金銭で結びついているわけでもない。「お金をあげるから友達になって」といってなった友達は友達とは言えないというのが社会通念だろう。また、「友達には金を貸さないと決めている。友達関係が壊れるからな」といったセリフはよく聞く。

法律による拘束力もなく、肉体関係という結びつきもない。なんの定量的な利害関係も持ち合わせていないのだ。

だが、利害関係がないわけではない。「なんか一緒にいると楽しい」とか、「笑顔になれる」とか、そういう数値化できないような定性的な利害関係は持っているのだ。

まとめると、「定性的な利害関係であれば友達で、定量的な利害関係だと友達ではない」ということになる。

友達という状態は怖い

さて、人間と言うのは「情報がない」ということに恐怖を感じる。真夜中のトイレが怖かったり、暗い海が怖いと思ったりするのは、そこに情報がないからだ。

情報がないと、偏桃体が僕達に身構えるよう命令をする。これは人間が昔から備えている機能で、「物陰から急に猛獣が飛び出てくることに即座に反応する」機能だ。

友達というのは「定性的」であり、数値化できないということは、「観測できない」ということになる。これは情報がないということと同義だ。

つまり、友達関係というのは怖いのだ。なので人間はなんとか観測できるように「定量化」するようにバイアスをかける。例えば、肉体関係を持って恋人に遷移させてみたり、一緒にビジネスを始めて「同僚」になってみたりする。

なので、友達というのは現状維持が難しく、必ずなにか定量的な利害関係の形態に遷移していくのだ。友達とは、何か定量的な利害関係者への「入口」になっているのかもしれない。



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のろさとし | 実業家 | 製造業 | システムエンジニア
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