席を譲る方が優しいか、譲らない方が優しいか
電車内で席を譲ると、「いやいや大丈夫だよ」と、お断りされるときがある。このようなパターンがあるので席ってとっても譲りにくい。なので、自分が傷つかないように譲らない方に倒す。ということが往々にしてある。
これは、「多様性を認めるパラダイムの弊害」というふうに一般化できそうだ。
多様性とは、簡単に言うと、人種や性別、宗教、価値観などが異なるさまざまな属性の人を尊重することだ。
「多様性を認めない!」ということは、例えば、「白人の方が優れている」とか「キリスト教の方が正解」とか言うことである。つまり、「多様性を認める」という考え方は、「人を優劣で見ないで、個性として見る」という考え方だ。
さらに、優劣の判断材料は、"強さ"だ。白人の方が多い場合は、数の論理で白人が強いので優れるし、キリスト教の人数が多ければキリスト教が正解になる感じだ。(あくまで例え)
ところで、人間は弱者を「かわいそう」と思う「優しさ機能」も持っている。弱者というのは「かわいそう」なので、色々な補償で守るという力が働く。そうやって、弱者も快適に過ごせるようになっている。
しかし、多様性を適用すると優劣で見なくなるので、「かわいそう」と思わなくなり、しいては「守る」という行為も禁止しかねない。
例えば性転換したいマイノリティの人がいたとして、この人を守るために「多様性を大事にしよう」と訴求したとしよう。そうするとこの人の尊厳は守られそうだが、弊害もある。
性転換費用に保険適用されれば嬉しいのだが、多様性を認めたばっかりに「多様性最高!あなたをリスペクトしています。なのでとくにかわいそうと思いませんから自費でお願いしまーす」となる側面があるのだ。ドライな個人主義的な考え方に近い。
電車で席をゆずらない行為も上記に似ている。
「多様性最高!おじいちゃんを一人の人間としてリスペクトしています!なので"かわいそう"と思いません!しいては席譲りませーん!」
といった感じか。
このように多様性を認めることと「優しさ」はトレードオフの面を持つ。
さてここまできて、「相手を尊重するがゆえ席をゆずらない」という行為は、相手が席に座れる特典を奪って相手の尊厳を守っていることになる。
言い換えると、「自分の手を全く汚さず、相手の努力によって相手の尊厳を守らせる」という行為ととれる。いささか卑怯である。
卑怯なのが嫌なのであれば、自分が犠牲になるしかない。席を譲ることによって「多様性は認めています。だけど可哀そうと思うときもあるんです。ごめんなさい。可哀そうと思う差別的な人間と思われてもいいから手伝わせてください」と表明するしかないのだ。
人に優しくするにも、いいカッコできない時代だ。