日米開戦と日劇ダンシングチーム・ベトナム(仏印)公演
昭和16(1941)年12月7日、ちょうど真珠湾に日本軍が奇襲をかけ、太平洋戦争がはじまった日の前日、おりしもベトナムを訪れていた日劇ダンシングチームが、ここベトナムのハイフォンの劇場でレビューショーを演じていた。この日招かれていたのは、「英米仏系官民指導層の有力者」たちであったと当時三菱商事の駐在員は回想録に記している。
当時のベトナムはフランスの植民地であり、日本では仏蘭西領印度支那、仏印と称していた時代だ。日本軍は仏印の海と陸の国境に兵をすすめた上で、昭和15(1940)年仏印植民地政府に条約による日本軍の北部仏印への「平和進駐」をもとめ、条約の締結を迫った。当時フランス本国は独伊の保障占領を受けており親独的な政権であったこと、また「平和進駐」を認めなければ、軍事的に自国の植民地が日本軍に蹂躙されるであろう危惧から、仏印植民地政府は日本軍の進駐を認めたのであった。
昭和16(1941)年には、南部仏印へも兵を駐留させることを認めさせたが、このことがアメリカを刺激し、アメリカが石油の対日禁輸などの制裁を決めたことで、日本がアメリカとの戦争を決意することになる。だからベトナムは日本がアメリカに戦いを挑んだ歴史に深くかかわっている。
「東寶」昭和17年3月号の記事
日劇ダンシングチームは総勢30名、軍隊の慰問を主目的として昭和16(1941)年11月26日から12月19日の約3週間仏印訪れ、途中立ち寄った広東や海南島での公演を含め、5、60回の慰問公演が行われた。
当初、ハノイ、ハイフォン、サイゴン(現ホーチミン市)の三都市で公演が予定されていたようだが、滞在途中に日本がアメリカと開戦したため、サイゴンでの公演は中止され、ハノイとハイフォンのみで計9回の有料一般公演も行われた。12月7日には「昼間は皇軍慰問、夜はハイフォン市立劇場にて一般公開公演を行ふ。在住外人二百名招待。好評を受く」(月刊「東寶」・昭和17年3月号)とある。
プログラムをみると、演目として、「1、日本の四季、2、歌舞伎、3、雅楽、4、神楽、5、日本古典舞踏三種、6、日本民謡集、7、踊る東京(グラン・ギャラ・ド・トウキョー・タカラヅカ)」と日本ものが中心だったようだ。公演時間が4時間とかなり長い。この中で、「支那の夜」「人の気も知らないで」などの当時の歌謡曲も披露された。
日劇ダンシングチーム(昭和15年から20年までは東宝舞踏隊と称していた)は、昭和11年に日本劇場(日劇)で最初の公演が行われている。東宝の秦豊吉が、ニューヨークでみてきたラジオシティミュージックホールのショーを日本に移植しようと考えて創設した。当初は親会社の阪急電鉄が経営する宝塚少女歌劇団があるのにとの反対もあったが、日劇ダンシングチームは、レビューを中心としたステージショーとして日劇での映画上映と共に上演された。
公演仏語パンフレット(同「東寶」より)
当時の日劇ダンシングチームは、ソ連からバレエの教師を招聘し、本格的なバレエの練習を行うと同時に、世界でも上演できる日本のレビューとして育てるため、琉球、八重山、タイ、バリ、印度など国内外の民族舞踊に取材し、レビューの踊りに取り込むなど、意欲的だった。私は、日劇ダンシングチームがラインダンスなどの単なるお色気路線のショーを展開していたに過ぎないと思っていたが、文化の香り高いショーが展開されていたことが、当時の演目からわかる。
昭和16年から20年にかけて、日劇ダンシングチームは仏印のみならず、満洲、朝鮮、上海、南京などを何度も慰問に訪れている。当時は、戦時下での船舶での移動であったからその苦労がしのばれる。
事実、日劇ダンシングチームの仏印からの帰国にあたり、日本の外務省と仏印ハノイの領事館との間で、開戦後のハイフォンからの帰国がままならず、また、帰国途中でも安否を気遣う電文のやりとりがなされている。
またこの当時、宝塚歌劇団の仏印公演も計画されていたが、おそらくは戦局の変化から中止されたものと思われる。ベトナムとのかかわりとしては、金子光晴の夫人で森三千代が仏印に取材して書き上げた安南伝説「コーロア物語」が昭和17年に宝塚歌劇団で公演されている。
太平洋戦争が勃発する最中、このベトナムで日劇ダンシングチームの公演があったなどとは、敗戦と同時に後世に伝わることなく今に至っているが、私は戦中の日本とベトナムとのかかわりを文化交流という点から今後も解明していきたいと思っている。
新妻東一 2008/12/15
<参考文献・ウェブサイト>
1、Hoi dap Lich su Viet Nam 2008/01 Nhat xuat ban tre P.281
2、Viet Nam Nhung Su Kien Lich Su (1919-1945) 2005/02 Nha Xuat Ban Dao Duc P.369
3、「ハノイ・ハイフォン回想」(昭和52年発行)小津英蔵・「河内・海防時代の想出」、松村茂・「ハイフォン赴任当時のことども-開戦当時を思い出す儘-」
4、外務省外交資料館「文学、美術及演劇関係雑件/演劇関係 36.仏印東宝慰問隊ノ件」(昭和16年10月23日~昭和17年2月5日)「文学、美術及演劇関係雑件/演劇関係 38.宝塚歌劇団劇作者及作曲家仏印及タイ視察旅行関係」(昭和16年11月25日)
5、月刊「東寶」(昭和17年3月号)「東寶舞踏隊佛印へ行く」「東寶舞踏隊・佛印進駐座談会」
6、雑誌「歌劇」(昭和17年12月30日発行)「佛印から帰って」森三千代
※見出し画像は元日劇ダンシングチームの枝野房枝氏所蔵のものです。