2020年4月26日 シスターダンニェム法話「つま先が一つ、小刻みに動く」
親愛なるタイ、ブラザーシスター、友人のみなさん、お話の機会をいただきありがとございます。4月を通してシスターとブラザーは分かれてプラクティスをしています。ブラザーフリーダムが提案してくれたことは、シスター達がここに来てダルマトークをお届けするということでした。最初その話を聴いた時に、シスターはそれに賛成しないかと思いました。なぜかというとこの隔離期間のプラクティスに関してシスターたちは一貫していたいだろうと思ったからです。でもブラザーフリーダムが強く主張して、二度目の手紙を書いてきたので、先週の水曜日シスターたちの会議で取り上げました。
彼の手紙は上手に書かれていましたので、それによってダルマティーチャーであるシスターたちもここに来ることになりました。その手紙にはこうあります。「シスター達の心に平和と微笑みがあることを願っています。ブラザーたちは日曜日にオンラインの気づきの日を始めました。それを録画してユーチューブにあげています。ブッダの時代のように、ダルマティーチャーのシスターからの教えも受け取りたいと願っています。ブッダの時代にも比丘尼(尼僧)が比丘(僧)のサンガに来た時には教えを提供してくれていました。お一人シスターをお招きして、ソリディティ・ハムレットの小さなホールで法話をお願いしたいです。健康面やその他必要な準備は何でもします。考慮いただいてありがとうございます。ブラザーフリーダムより。」
シスター達はこのお誘いにとても心動かされました。そしてシスターたちはこのお誘いに賛成したんです。そして私が一番最初に手を挙げた勇気のある人間です。他のシスターも同じようにしてくれることを願っています。でも、これは大きな意味のあることでした。
ブラザーフリーダムがこの手紙で言っていたのは、ブッダの時代に出家した尼僧=比丘尼が出家した僧=比丘のサンガを訪れ教えを届けていたということ。ブッダの時代にはジャイナ教のような他の伝統では、僧たちの美学というものがあって、彼らはブラフマンで男性の僧しかいませんでした。ブッダのお母さんはブッダが生まれて7日後に亡くなりましたので、お母さんの妹がブッダのお母さんとなり彼を育てました。そしてそのお母さんがブッダに自分が尼僧となれるかどうかを尋ねました。
ブッダはそれを受け入れませんでした。彼女は3回頼んだけれど、ブッダはすぐには受け入れなかったのです。それは納得のいくことです。なぜかというと、その時代には女の子が生まれると、その子はお父さんに属していました。お父さんの所有物のようなものだと考えられていました。その子が若い女性となった時にはお父さんが誰でも好きな人とその子を結婚させることができました。優しいお父さんは同じ社会的地位とカーストの若者を見つけてくれましたが、それが歳を取ったお金持ちの王様や王子様である可能性もありました。その国や地域の平和のためなら誰でも結婚させることができました。彼女の人生について自由に決める権利がありました。そして、その女性が歳を取って、夫が死んだときには、その女性は息子に属していました。女性は声をあげることができませんでした。ブッダの時代にもその前何百年もの間そうでした。ブッダが最初に受け入れたのはお姫様や、高級娼婦、僧たちの妻たちで、夫が僧となって家をでたので、彼女たちもまた自由への道を求めてついてきたのです。
それはとても勇敢な行動でした。なぜなら、社会的、文化的、宗教的な規範に反していたからです。だからブッダはそのリクエストを最初受け入れませんでした。1回、2回と。そして仏教の伝統ではサンガで重要な決定をする時には、みんなが賛成する前に深く考えられるように、3回その質問を問いかける必要があります。最終的にはブッダは女性たちが尼僧となること、そして尼僧のコミュニティを発展させることを受け入れました。ブッダは八敬法を考えだしました。ある人はそれは女性たちを元の場所に戻すようなものだと言いました。でも、私たちの先生が説明したことでもありますし、私自身も経験したのは、ブッダの時代に八敬法という尼僧の適切なふるまいが、僧たちに多くを教えることになりました。ブッダは僧たちにも尼僧に対して責任を持ってほしいと思っていましたし、プラクティスを助けて支援してほしいと考えていました。
8つのプラクティスのうちの一つは、2週間に一回年配の僧が尼僧のサンガに行って教えを提供するというものです。3か月の雨安吾においても僧たちが来て教えを提供することになっていました。尼僧が出家して式叉摩那と6つの戒律を授かる時には、正式に認められるためには僧たちのサンガが尼僧たちのサンガとならんで必要でした。僧と尼僧たちが並んでプラクティスをするだけでなく、お互いにサポートすることはブッダが求めていたことでした。それは非常に重要なことでした。そうでないと、女性たちがその当時置き去りにされてしまうことになったからです。夫もしくは面倒を見てくれる子どもがいない女性たちに対しての信頼というものがありませんでした。そのような社会的な文脈を理解すると、ブッダがとても革新的な人だったということが分かります。勇気がある人でした。
今でも、2000年以降の21世紀になっても、そのような種類の平等性というのは欠けているでしょう。2012年私は西側で出家と在家のダルマティーチャーたちの会議に参加しました。ある晩女性のプラクティショナーたちで集まりました。ある女性たちが話してくれました。彼女たちは教育がある白人女性で、在家の人も出家の人もいましたが、彼女たちの話では、演台に上がるとすぐに、何人かの男性が話すのが女性であることを見るやいなや部屋から出て行ってしまうということでした。これは21世紀のアメリカでの話です。仏教やカトリック、イスラム教を含めた様々な宗派で、女性たちは会合で教えるということをしません。プラムヴィレッジの伝統でだけ、タイが可能にしてくれたのです。ブラザーとシスターが横に並んでプラクティスをして、横に並んで働き、奉仕して、教えることやガイドを横に並んで届けるということを。それが私たちの先生がブッダから継続したことです。
そして私はブラザーたちがこの尊い努力を継続してくれていることに深く心が動かされました。だからこの手紙を読んだ時に私はとても感動しました。もちろんタイグォハン(ブラザーフリーダム)は上手に手紙を書いて、ブッダの時代の話をして「ブッダの時代のように」と言っていましたが、実際にはそのようなことはあまりなく、多くの場合話をするのはブッダや年長の男性の僧でした。しかし、ここに招待されているということは、非常に光栄なことで、ブッダとタイと、非常に優しく助けてくれて開かれた心を持ったブラザーたちに感謝しています。ありがとうございます。
ここでののシェアをする準備をしている時、何がシェアする意味のあることか考えていました。気づいてみたら、最近になって出家した僧の皆さんは、タイと過ごす時間があまりなかったのではないかと思いました。直接会ったことがない人や話したことがない人もいると思います。だから私が敬愛する先生から教わったことをいくつかシェアしたいと思います。
まず最初に言いたいことは、タイに会ったことがないからと言って悲しい気持ちや喪失感を持ってほしくないということです。なぜなら私たちの先生は彼の教えや私たちが授かっている教えの中に存在しているからです。ちょうどブッダのように。ブッダは歴史的には2600年前にいましたが、今ここにもどこにでも存在していますよね。とてもクリアな教えとプラクティスがあります。それは時間や場所に限定されていません。与えられたものはいつでもそこにありますし、心を開いていれば受け取ることができます。直接受け取ります。プラクティスをしていけばその真実を深く理解して、経験することになります。
私が出家してプラムヴィレッジに来た時、それは2000年の1月18日でしたが、私の心は非常に重かったです。私は医学部を卒業したばかりで、サンフランシスコで研修医をしていました。私のパートナーは事故で亡くなっていました。彼はハーフムーン海岸に泳ぎに行っていて、波にさらわれてしまいました。病院から夜2時に電話がかかって来ました。その日は私の誕生日の早朝の9月26日で、私の心は壊れてしまいました。幸運なことにその3週間前の8月にタイと出会っていました。タイと一緒に5日間のリトリートに参加していました。研修医として働いている時気づいたのですが、深い痛みを感じていましたが、また同時に私のパートナーはとてもスピリチュアルな人で、もし天国があるなら彼は天国にいるだろうと思いました。
そして自分自身に尋ねました。もし、自分が今日死ぬとしたら、私は自分の人生を生きたと言えるだろうか、と。私は平和だったと言えるだろうかと。私は、そうだ、その通りだと言うことができませんでした。自分の一部では死にたいと思っていましたが、希望を持っている自分もいました。タイと3週間前に出会っていたからです。私がただ望んでいたのは平和です。平和だけです。本当の平和です。他には何もいりませんでした。そしてすぐに医学の道を手放すことができました。そのために何年も努力を重ねてきたことでした。
私は17歳の時にこの国に来て、英語を一言も話すことができませんでした。大学を終えて、医学部を卒業して、研修医になるまでどれぐらい大変だったか想像できると思います。だからそれまではそんなことを考えることはできませんでした。でも、彼の死がそのことを可能にしてくれました。
そして1月に私はプラムビレッジに行きました。タイはそこにいました。私は名うての泣き虫でした。どこででも泣くことができました。みんなの前でも、一人の時にも、どこででも私は泣いていました。だれかがタイに文句を言ったのだと思います。彼女は泣きすぎていると。出家してからも私は泣き続けていました。タイが言ったのは、「彼女が泣いているのは、苦しみがあるからですよ。苦しみがなくなれば、もう泣かなくなるでしょう。」ということでした。
ある日タイがニューハムレットに来て、私たちを訪問してくれました。私はタイに「防音室は作らないんですか?私みたいにすぐに泣く人がそこで泣くことができて、誰の邪魔もしないように。」と言いました。私は少し傷ついていましたので、タイにそのように言いました。
タイは非常に優しくて、タイが言ったのは「そうですね。それは可能です。でも、そのように泣いていたが自分の中の苦しみに繰り返して水を与えることになりますよ。他の方法もありますよ。」とタイは言いました。タイの話はそこで終わりでしたが、私は自分が泣いている時に呼吸をすることと微笑むことを学びました。その時から自分が泣いている時に、自分の身体をリラックスさせることを学びました。感情と一緒にいるために。
自分の人生で鬱を経験してきた人、3000万人のアメリカ人が抗うつ剤を使っていると言いますが、うつ病の性質について知っている人やどのように機能しているのかを知っている人はごくわずかしかいません。その人にとって鬱状態を何が和らげてくれて、何が引き金となるのかも分かっていません。その前で無力で簡単に吹き飛ばされてしまいます。それと一つとなってしまいますが、そのことについてよく理解していません。
でも、呼吸と微笑むことを学んで、心を静かにして身体をゆるめることは、私自身の悲しみについて教えてくれました。私の人生について。自分が本当にその痛みを経験することを助けてくれました。なおかつ、その痛みと一つになってしまわない形で。その痛みに溺れてしまわないようにしながら。そのことが私を癒し、変容させることを大きく助けてくれました。
だから今コロナウィルスの感染が拡大する中でも、それがただの風邪やインフルエンザよりも深刻だと知った時、すぐに自分の呼吸と一緒にいて、自分の身体と一緒にいて、心を穏やかにして安定させるようにしました。今この瞬間に自分自身とコミュニティのみんなのためにいられるように。不安や怖れが自分の中や周りの人の中に起こってきた時には、それを抱きしめて、吹き飛ばされてしまわないように。プラクティスの道にいるということが私にとって必要不可欠なことです。それが何であっても、過去も今も未来もそこに平静さと共にいられるように。タイがくれた安定や平和、穏やかさと共にいることができるように。それがタイが彼の教えと共にくれた素晴らしい贈り物です。言葉を通してもそうですが、彼の行動やシンプルなあり方を通してそのことを教えてくれました。マインドフルであること、平和であること、そこにいること。共に呼吸を楽しみましょう。(鐘の音)
出家して最初の4年は泣いてばかりいました。今でも覚えているのは2001年、出家して1年もたっていない時ですが、タイがアメリカにツアーのために行きました。3か月のツアーです。私はタイがチェックインするより前にすでにチェックインしていて、彼の後ろに立っていました。荷物がベルトコンベアに乗せられて、セキュリティを通過していく時にタイが言ったのが、「ここから入っていって、あちからから出ていく。失われるものは何もないのだよ、わが子よ。」ということです。それはタイがとてもシンプルな言葉でした。「それはこちらかは入っていって、あちらから出ていく。何も失うものはない。」私はタイが不生不滅について教えているのだと分かりました。タイがチェックインをした後、私はタイについていくには若すぎたので、タイとは離れていました。ガラスのパネルがあって、その間に隙間がありました。タイは私を呼んでそのパネルの隙間から私に話しかけてくれました。「歩く瞑想をしなさい。家でも歩く瞑想を楽しむんですよ。」とタイは言いました。
私が最初に尼僧になった時、1日がたっても一回の呼吸にも気づかないことがありました。1日がたっても、一つの歩みにも気がつかないこともありました。タイがそれを言った時に、私は本当に本当にそれをやってみようと心がけました。私は自分自身と契約を結びました。自分の部屋からダイニングホールまで行く時にマインドフルに歩こうと。でも、時には数歩は気づいていられることもありましたが、後は忘れてしまうこともありました。時にはやり直しましたが、そうしているとアクティビティに参加できなくなってしまいます。なので「ここまではマインドフルではなかったけれど、ここからはマインドフルに歩いて前に進もう。」というようにしました。でも、何歩か歩くとまた忘れているということがよくありました。でも何度も何度もプラクティスを続けました。
そんなでしたが、それでもプラクティスは私を助けてくれました。タイを見ると、タイはいつもマインドフルで、それが私がマインドフルであることを思い出すのを助けてくれました。周りのブラザーシスターを見ると、マインドフルに歩いています。ブラザータイファップウンはどこにいくにもとてもとてもゆっくりと歩きます。彼を見ると、自分はまるで全速力で走っている車のようだと思ってブレーキを踏むことができました。だから自分の周りにブラザーやシスターがいてくれるということは恩恵だと思います。誠実にプラクティスをしているということは、それだけで周りのブラザーやシスターを非常に助けることになります。
それが私が学んだことです。自分自身の身体に戻ってくることを学びました。呼吸と歩みに戻り、それらを錨として意識がどこかへ行ってしまわないように。
このパンデミックの中で様々なことが起こっているのを見ました。これまでの人生の中でトラウマを経験してきた人は、何かこのようなことが起こった時には怖れが起こってきます。そして古い傷やかつての恐怖を呼び起こします。ストレス反応が起こり、闘うか、逃げるか、固まるかという反応がすぐに起こります。それらの反応が自分の中に蹴り込まれます。マインドがそれらと関連付けられてしまいます。
隔離期間には、私の心の中に引き起こされたのは、1975年に共産主義者がベトナムを支配下において最後のアメリカ兵がサイゴンを去らなければならなかった時のことです。他の街からはすでに去らなくてはいけない状況になっていて、サイゴンが最後の場所でした。そして、母が耳にしたのは共産主義者がやってきた時には彼らはアメラジアンの子どもたち、即ちアメリカ人GIを父とする子どもたちを連れて行ってしまうという話でした。私と弟はそのような子どもでした。噂では共産主義者たちはアメラジアンの子どもたちを探していて、殺すか女の子だったら虐待して暴行を加えるという話でした。
なので、母は弟はたった4歳で私は7、8歳だったのでとても怖れていました。子どもがその話を聞いたらどう思うか想像してみてください。彼女は私達をサイゴンの外のビンホアへと連れて行って、軍の駐在地の近くに滞在しました。そこは安全でしたが、でもそこに長くいることはできませんでした。なので、1週間後にまた母は私達をサイゴンに連れて戻りました。
すべてのアメリカ軍が去らなくてはいけない日、母は私達を狭くて汚いトイレに座らせましたので、外に出ることができずそこに身を隠さなければなりませんでした。今でも弟と一緒に狭い部屋に閉じこもらなくてはならなかったことを覚えています。何時間もして、母が動いている音が聞こえなくて、彼女がどこにいるのか分からなかったのでこっそり外に出ました。そのイメージは今でも私の中にはっきりとあります。外に出ると、警察が近くにあったのですが、彼らは制服を脱ぎ捨てて、下着のような姿で逃げていました。全てを脱ぎ捨てて行ったのです。通りには彼らの服や制服で覆われていました。誰も外に出ていませんでした。そのイメージは今も私の中に生き生きとあります。
だから、この感染爆発と隔離生活が始まった時、そのイメージがすぐに私の頭にやってきました。でも、尼僧になって20年がたちますから、僧院にいることにも慣れましたし、外に行く必要もありません。お医者さんに行くのと水泳のためにジムに行く以外には外に行く必要は普段からありません。それでも、トラウマは私の中に起こってきました。
トラウマを抱えている人の多くは、子どもでも若者でも大人でも、そのトラウマに対処して癒すことがなければ何度も何度でも、怖ろしい状況に現在なった時には過去のトラウマが誘発されてしまいます。それは私達を子どものようにしてしまいますし、被害者にしてしまいます。
恐怖は私たちを非常に非合理的で非論理的にしてしまいます。私たちを無力な存在にしてしまいます。私たちは差別的になります。非情になります。そのウィルスを中国ウィルスと呼んでアジア人を差別しました。それは怖れを抱いて誰かを責めたいからです。大きな怖れを感じているからです。すると人を裁いて、孤立して、扉を閉めます。トラウマや怖れが私たちを最悪の状況に連れて行ってしまいます。
でも同時に、もし私たちがトラウマを抱きしめて癒すことができたら、マインドフルな呼吸や歩みによって自分自身をケアする方法について知っていたら、マインドフルに痛みを抱きしめることができれば、例え何がやってきても、私たちは犠牲者になる必要がなくなります。
平静さや穏やかさと共に、そのまま受け止めることができます。最近シスターたちが1999年に話されたタイの法話を聞いていました。タイは2つの漢字を紹介しました。私はそれは素晴らしいことだと思いました。見えますか?この字は2つとも似ていますね。(閙と閒)両方とも門があります。これは「扉」という意味です。こちら側の字(閒)には「月」という字が入っています。こちらの字(閙)には「市」という字が入っています。市場という意味です。
二つの扉の間あるいは前に、これらがあった時、それが「市場」であると、これは「混沌」という意味になります。騒がしくて、混沌として様子です。こちらでは二つの扉の前に月があると、それが意味することは「安らぎ」と「自由」です。
これが私たちのプラクティスです。私たちには6つの扉があります。目は、門であり扉ですよね。そして耳、鼻、口、身体、意識、それが6つの門です。もし私たちが今市場をその門に持ってきたら、私たちの中は怖れと混沌でいっぱいになります。騒がしさでいっぱいになります。でも、もし月をこの門に持ってくることができたら、私たちは安らぎを自由を得ることができます。
そうではありませんか?私たちは6つの感覚を守るための「選択的水やり」ということプラクティスとして行います。6つの感覚器官です。なのでこの期間、私はボランティアでコロナウィルス・フォースの中に加わりました。その中には、タイ・アウトェやタイ・ファップライ、シスターレイニェムと私がいます。私たちはサンガに選ばれてコロナウィルスについて学び、サンガにおススメを作成することになっています。どのように自分たちを守るためにプラクティスをすることができるのか、自分達だけでなくより大きなコミュニティを守るためです。
だから私は(コロナウィルスに関する記事やニュースを)読んでいますが、自分の目を守る方法も学びました。ポジティブな記事とネガティブのものの両方を読むこと。死者数などの単なる数字や怖ろしい話だけを見るのではなく、人々がステップアップしていることやこのような時に人々が勇気を持って自分を犠牲にしながら働いている事も見るようにします。このような時には、旅行をすることもできませんし、森の動物たちが道路に出てきています。イタリアやヨーロッパのどこかの国でお店の近くまで野生動物が出てきているのを見ました。人が通りにいないので街を歩き回っているのです。人々は家でもっと料理をするようになりました。愛する人との時間を楽しんでいます。もちろん家の中に閉じこもっていることに耐えられないと思っている人もいますが。愛する人と非常に近い距離でいること、それに慣れていないので、困難を感じている人もいます。
自分の6つの感覚器官を守るためには自分の中に入れるもののバランスを取ることが大切です。私たちには選択をすることができます。プラクティショナーとして、私たちには選択することができます。もし市場を持ってくれば、きっと私たちは混沌として状態になります。でも、私たちが賢くて月を持ってくることができれば、平和で、真実で、愛のある状態になり、安らぎと自由を得ることができます。
それは困難がないということではありません。私の人生について考えてみると、私が自分の人生で経験してきたことといういのは、自分が失ったものについてもう苦しまなくても大丈夫になりました。私はまだ認知症ではないので、今でも全てを鮮明に覚えています。でも、それらの経験はもう私を引きずり降ろしたりしません。今でも、困難を経験することはあります。あるシスターに冗談で話していたのは、私はまだ上手く話せなくて、時々シスターやブラザーが私が話したことに対して動揺していることがあります。ある時、会議で私に対してきついことを言われました。私たちのコミュニティでは二つの言語を使いますが、私は大抵通訳者の役割をしていて、私について語った言葉を一語一語翻訳して伝えました。はっきりと、大きな声で、その人が話しているかのように。
それで後からシスターに「あなた、痛みを感じないの?」と聞かれました(笑)「どうして通訳を続けることができるの?」と。「彼、または彼女はあなたについて語ってたのに」って。私が「私は牛のような肌を持っている訳ではないので、もちろん感じますよ。」と言いました。その時には私はただ呼吸に帰って、心を静かにして、きちんと伝達をします。そのことについては何も考えません。話されたことをそのまま通訳をするだけです。
私達は染みわたっていくようにプラクティスをします。牛でも、尻尾を振ってハエを追い払っていますよね。牛だって感じているんですよ。ハエがうっとおしいということを。でも、私たちがプラクティスをする時には、呼吸が私たちに染みこんでいくことを助けてくれます。無我とつながること。全てを自分の心の中に持ってこなくても良いように。
ひどいことも、それがそうであるのは、あれがああであるから、と理解することができます。そして個人的なものとして取りすぎないことが可能になります。それはあなたのことかもしれませんが、誰か他の人のことかもしれません。たまたま間違った場所に間違った場所にいたのかもしれません。だからただ呼吸をして、心のわだかまりがもっと大きくならないようにします。ネガティブな思考がふくらめば、ネガティブな感情がどんどん大きくなっていきます。
私たちにはいつも選択肢があります。タイが私たちみんなに教えてくれたことです。私たちがプラクティスをする時には、もっと我慢ができるようになることが分かりますし、我慢をするだけでなく、それを手放すことができます。それをただ手放して自由になることが可能なのです。自由になって平和になることができます。この瞬間を生きて、今または過去にあった誰かの言葉や不器用な行動によって吹き飛ばされてしまわないように。それでは呼吸を一緒に楽しみましょう。(鐘の音)
尼僧になって2年目にあることに気がついてタイにもシェアしました。「親愛なるタイ、もし私が尼僧としての生活を去るとしたらそれはお金や名声のためではなく、それは私の望みと感傷のためです。それが人生最大の過ちであるとは知っています。」と言いました。タイはそれに対して何も言わなかったと思います。タイはとても優れた聞き手です。タイに何かをシェアした時何度も、タイはただ聞いていました。彼は私が自分自身を癒すことを許してくれたのです。そして私はもっともっと他の人のためにそこにいるということを学びました。
ブラザーやシスター、あるいは在家のみなさんがリトリートの際に私のところにやってきて個人面談などを頼まれた時、最初の1時間ぐらいは私はただ聴いています。相手が自分の声を聴いてもらっていると感じることができるように。聴いてもらっていると感じられることは特別なことです。時として自分自身を癒すためにただそれだけを必要としていることもあります。そこにただ誰かがいてくれることが大事です。
今も覚えているのがある日タイの小屋を訪問した時に、夕飯のためにダイニングテーブルに座っていたら、小さなネズミがいました。私は医療の研修から出てきたばかりで、私はプラムヴィレッジの衛生環境についてとても心配していました。その時私は作業コーディネーターだったので、キャビネットのようなものを作ってタイのためにお皿が清潔に保たれるようにしました。
でも、私はタイに手紙も書きました。小さなネズミを見た時に、そこにいるだけではなくて、食べ物を出していてフタを空けていたら、それは誘っていることになるのです。私がロマンチックな感傷を弱さとして持っていて、自分自身を守ることができなければ、私はもっと誘われやすくなりますし、人を誘ってもいます。もし自分自身を守ることができたら、そうはならないはずです。タイはその話を聴いてとても喜んでいました。私がその状況から似たような状況を導きだせたことを。
今も覚えているのが、ある時リトリートに参加するためにドイツに行ったのですが、私はある若い男性を見て、彼に惹かれていました。彼はタイに会うために定期的にそこを訪れていました。最後の日に私たちが去る前に、彼はタイと話すためにそこにいました。タイがそこに座っている前で彼は私に話しかけてくれました。その一週間の間、彼はよく微笑みかけてくれて、私に親切にしてくれました。「僕のためにあなたの名前を書いてくれませんか?」と彼に言われました。その瞬間私は自分達のエネルギーに気がつきました。それでも、彼のために自分の名前を書きました(笑)彼は去って、タイはそれにただ気がついていましたが、彼が去る時には何も言いませんでした(笑)
タイが部屋にいてロッキングチェアーに座っていた時に、タイの足元に私は座っていて、タイに向かって言いました。「タイがそこにいたにも関わらず、私は自分自身を守ることができませんでした。」そして私はとても泣いていました。自分を恥ずかしいと思ったからです。それはささやかなことでしたが、自分自身がいかに簡単に引っ張られてしまうのかということがよく分かりました。タイはただ、静かにそこにいました。私は自分の涙や鼻水を拭うものが何もなかったので、タイは白いジャケットを来ていたのですが、私はただタイの白いジャケットを引っ張って自分の涙と鼻水をふいていました(笑)彼は長い間ただそうさせてくれたのです。私が落ち着いた時にタイが言ったのは、「あの若い男性は、ハンサムで、お金持ちだけど、でもそれはあなたが欲しいものではないのではありませんか?それはあなたが望んでいるものではない。」それがタイが言ったことの全てです。
そして何度も何度も、自分に思い出させて来ました。これをシェアしているのは、何人もの若いブラザーが私の隣に座った時に誘惑が起こってくるのを感じるからです。でも私達自身に何度も何度も聞く必要があります。これが私が望んでいることなんだろうか?
2011年のアメリカツアーの間、私たちはコロラドにいました。その時の私のエルダーシスターだったのはシスタージュエルでしたが、タイに言ったのは「シスタージュエルと私はとても幸運です。私たちはプラクティスに満足していますし、他の人のために奉仕をできることも嬉しく思っています。でも、私の心の中にまだ強く握りしめている空想があるんです。そしてそれを手放すことができません。」私は自分がタイに対してとても正直だったことに感謝しています。
タイは私を見て言いました。「ダンニェム、2つの手で魚を掴むことはできないよ。医者でありながら同時に芸術家になることはできない。」それがタイの言ったことの全てです。「2つの手で魚を捕まえることができない」というのは、こちらの手で魚を捕まえながら、あちらの手でも魚を捕まえるとういことです。ベトナムの諺なんです。それがタイが言ったことの全てでした。
でも実際に分かるのはタイが脳梗塞で倒れるまでかかりました。タイが脳梗塞で倒れて、その後自分の中にそのような気持ちが起こる度に、誘惑が起こる度に、私は呼吸をして、祈りました。それには長い時間がかかりました。なぜかというと、私はその気持ちをなくしたいと実際には思っていなかったからです。それは私をわくわくさせてくれました。私は文字通り自分の人生で何年にも渡って「誰かに惹きつけられることがなかったら、自分の人生は非常につまらないものになる」信じていたのです(笑)なぜか、そのことをずっと信じていました。それがなければ世界から色と味を奪ってしまうと思っていました。
でも、タイが病気になった時に、もっと深くそのことを見つめました。そして私は祈り始めました。「どうか私にこの欲深さを手放させてください」と。なぜなら、それは私を決して幸せにはしなかったからです。
私のパートナーが亡くなった時、私は自分が死ぬとただ思っていました。私はそれぐらい自暴自棄になっていました。それはもちろん彼を愛していたからですし、彼を私のソウルメイトだと思っていたからでした。でもそれだけではなく、その出来事が私の人生における全ての希望を奪っていったからでもありました。
私はもし自分が成功して、愛するパートナーがいてくれたら、私の過去の苦しみは全て清算されると思っていました。でも、それを保証するものは何もありません。私は医者になっても幸せではありませんでしたし、私には愛する信頼できる素晴らしいパートナーがいましたが、彼はただいなくなってしまいました。そのようなことが起こるのです。何度も何度も思い知らされました。「他の誰か」というのは私の幸せの答えではないのだと。私が自分のソウルメイトになることを学ぶ必要があるのだと。
中国語ではソウルメイトという言葉は「知己」と言います。「知」は知っている、覚えている、マスターしているという意味で、「己」は自分自身という意味です。ソウルメイトというのは、外にいる誰かを見つけることではありません。ソウルメイトというのは、自分自身を知り、覚えていて、マスターする人のことです。
だから、私たちにはスピリチュアルプラクティショナーになった時には、自分のソウルメイトになることを学ぶチャンスがあります。自分が過去、現在、未来と、どんな人間であったとしても。そして自分自身にそれができた時に、同時に私たちは親しい人のソウルメイトとなることができます。友人がやってきた時に、相手を貪欲さを持たずに深く愛することができます。私たちは愛すると同時に自由と安らぎを感じることができます。愛するときに、そこにあるのが市場で、誰かに対して極端な考えを持っていたら、私たちの心の中や私達自身がカオスになります。
皆さんがどれぐらい自分の意識を見ているか分かりませんが、私は自分で意識できたことがありました。ある時私は車の中でタイと一緒にいて、車を運転しているブラザーがいて、後ろにシスターチャンコンともう一人のシスターもそこにはいました。私はその時(そのブラザーに)空想を抱いていました。その人について考えると、それはとても素敵で、私がもし僧侶の生活を辞めたら、どんな服を着ようか考えていました。そうしたらお金をかせぐためにまたお医者さんにならなくてはいけません。生活していくためには成功する必要があります。そのような考えがただ起こってきました。どんな食べ物を食べて、どんな食事をしようか考えていました。どんなベッドがいいだろうか。それで気がついたのですが、それは五つの感覚的な快楽でした。セックス、お金、名声、食べ物、睡眠です。その5つの欲望が私の中に自動的に湧き上がってきたんです。ほんの何秒かの間に。
その時気がついたのは、今までそんなことを光を当てて考えたことはなかったけれど、でもこういうことが自然と自動的に起こるということです。例え誰かへの愛がどんなに高貴で、純粋で、素晴らしいものだと思っていたとしても、誰かに心を惹かれるということは、この五つの感覚的な快楽が私たちの意識の中に浮かび上がってくることを保証します。ただそのことを認識したことを語るためには、正直で、オープンである必要があります。すると気がつくのです。「これが私が望んでいることだろうか?」と。両手でそれぞれ魚を捕まえることができるでしょうか?私は自由を望んでいます。平和を手に入れたいと思っている。自分の存在の全てを生きたいと思っています。それと同時に、自分のものである誰かを望んでいます。特に私のためだけにいてくれる誰かを。それが本当に私の望んでいることでしょうか?それでは共に鐘の音を楽しみましょう。(鐘の音)
この5月で私は出家して20年になります。そして私はとてもとても、我々の敬愛する先生に感謝しています。そして私たちの愛しいコミュニティに。20年間はとてもとても長い時間のように見えます。私の人生のほぼ半分です。半分よりはちょっと短いですが。でも、それと同時に、あっという間に過ぎていきました。私の友人で医学の道を続けた人は、多くのストレスと責任そして幻滅を抱えながら働いています。
一部の人はスピリチュアルライフを見つけることができて、バランスを取ることができている人もいます。でも、私に関して言えば、私は自分の選択を後悔したことは一度もありません。そして願わくば、ここにいるブラザーたちもブッダと私たちの先生が私たちに伝えてくれた教えを深く受け取り、心に留めてください。私からしたら超自然的なものやエキゾチックなものはありません。私たちがしているのはマインドフルな呼吸と、マインドフルな歩みが、立ち止まるプラクティスと、一瞬一瞬で自分の目や耳、鼻、口、身体と心になにを入れるかを選択をするプラクティスです。何を入れたかによって、出てくるものが変わります。何が現れてくるかが変わってくるのです。何が現れたのかを正直に見てみたら、自分で悟ることができます。これが中身か、自分はこれをどうやって育むことができるだろうか、または変容させることができるだろうかと。それに合わせて考えることができます。そうすると自分が取り入れるもの、そして自分が生産するものを選べます。一瞬一瞬、一日一日、でも自分自身そして他の人のための平和や愛、ソウルメイトの感覚に深くふれてください。
私にはタイがそこにいてくれることが分かります。私たちはタイが毎日私たちと一緒にいてくれて幸運です。私が瞑想ホールまで歩く瞑想をしていく時、いつもタイのことを思っています。私はある詩を、タイの詩を基にして書きました。私はその詩と共に歩いています。
「私は歩いている。だから一歩を踏み出して、歩いている。あなたの歩みは伝説的、伝説的、伝説的。ただ、もう二歩歩こう。息を吸って、あなたの息は不思議、不思議、不思議。私は生きている、あなたの命は素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい。幸せとは微笑み。あなたは私の中で生き続ける。あなたはここにいる。ここにいる。ここにいる。」
私はこの詩のプラクティスを一日に何度も何度も何度も行っています。タイに私の中で生きていてもらうために。タイが私となるように。タイがどこかに行ってしまわないように。私たちは愛する先生がいることを肉体的な存在として喜びます、でもそのエッセンスは私たちの中にあります。彼の教えとプラクティスの中に。
みなさんにシェアしたい最後のことは、この本です。この本はとても美しい本で、マグノリアにいるシスターが送ってくれたもので、ブラザーたちへの贈り物です。ここには「タイの手の中の私たちの手」と書かれています。ここにはタイが出家の子どもたちに向けて何年にも渡って書かれた手紙があります。だからこれはタイへ贈り返すプレゼントです。この中には私たちの人生とプラクティスがどうタイに影響されたかのストーリーと人生が詰まっています。
これはベトナム語で書かれているのですが、近い将来に英語を話すブラザーたちやシスターたちが自分の人生を分かち合うために本を書いてくれることを願っています。そしてタイがどのように私たちの人生の一部だったのかを書いてくれることを願っています。よろしいですか?私たちがどのようにタイを継承しているかについてです。これは非常に豪華な本です。
この中に、この書があります。これはタイが書いた最後の書です。一番最後です。これは2014年の10月で、タイは弱りはじめていて、歩くことが上手くできず、片方の足が腫れました。タイは病院に連れていかれたのですが、お医者さんは何もすることができませんでした。でも、皆が心配していました。その日の晩8時に、タイのつま先はかすかに動きました。そこにアテンドしていた人たちはみんな喜んでお互いに知らせました。
タイは翌日、自分の小屋に連れ戻してくれと言いました。なぜかというと、お医者さんは何もすることができなかったからです。不運なことに脳梗塞になるかもしれないと検査をすることはありませんでした。血栓塞栓症だったかもしれません。血管に何かが詰まっていたかもしれません。いくつかのサインがありましたが、それについてその時には調べることをしませんでした。
その翌朝、タイは彼の小屋に戻って、この美しい書を書きました。それは「つま先が一つ、小刻みに動いた」と書かれています(笑)タイが書いたのはつま先が一つ小刻みに動くってことだったんです!ここには同じことがフランス語でも書かれています。中央病院で2014年の10月12日の夜8時に書いたと書かれています。
これが私たちの先生、禅マスターが最後に書いた書です。そしてそれは「つま先の一つが小刻みに動いた」です(笑)これはタイの教えと一貫していますよね。幸せのための条件はいつでもそこにある、ということです。つま先を一つ小刻みに動かせるなら、それは大きな幸せです。もしつま先を二つとも小刻みに動かすことができるなら、幸せは二倍ですね!そうですよね?
そうです。毎日、どこにいても、どのような状況の中にいても、もし私たちが「つま先が一つ動く」ということを思い出すことができれば、あるいは指を一本動かすことができるなら、私たちは微笑むことができます。そして感謝できます。すぐに幸せになります。そして、エネルギーを得ることができて、よりよい道を見出すことができます。自分を愛し、誰かを愛し、戦争をもたらさなくてもいいように。私たちは多くの苦しみをお互いにもたらしています。戦争から生まれた子どもとして私は知っています。どのような結果が起こるのかを。私の人生は戦争でした。だから学ぶのです。
タイが1999年に語ったのは、人間というのは最も危険な種族になりうる、ということです。トラはお腹が空いた時には生き物を一匹殺します。人間は自分の欲望のために殺すことができます。自分の無知や思想のために殺します。何百人、何千人という人を戦争で殺します。人間というのが最も危険なウィルスになりうるのです。私たちは母なる地球とこの地球上の全てにとっての驚異になり得ます。
でも、人間はまた最も優しい生き物にもなりえます。どのようにプラクティスをしたらいいかをもし知っていたら。自分の6つの門のケアの仕方を知っていたら。個人として、また世界のコミュニティとして。
親愛なるブラザーたち、シェアする機会を私にくれてありがとうございます。私は何ページにも渡るタイとの思い出を書きました。今日はすべてをお話する時間はありませんので、ここで終わりにしますが、最後にもう一度兄弟愛に感謝します。みなさんにカードも書いてきました。ここには漢字が書かれていてこれは「閒」自由という意味です。ここに「安らぎ」と「自由」、と書かれています。これをここに置いていきますね。
「ブラザーたち。私たちのブラザーでいてくれてありがとうございます。長期に渡る愛と、支えと、忍耐に感謝します。一緒にプラクティスをして若さと智慧を育んでいくことができますように。敬愛するタイが私たちのために開いてくれたこの美しい道の中で。敬意を込めて、クラリティーハムレットのシスターたちより。」
ありがとうございます(鐘の音)
(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)
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ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
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