心映投射(GL/染められていく感情が)

 私と彼女を隔てる壁は、だからこそ、私と彼女を強く結びつけた。
 (あ…)
 西校舎一階、日の当らない、人の体温を感じないその教室。
 そこが彼女の居場所だった。
 「……御井羽、さん」
 恐る恐る、声をかける。けれど、その声に彼女が反応することはなかった。

 筆とキャンバスが、今までに聞いたことのない激しさでぶつかっている。彼女が持っている筆は生きてるかのように動いた。白いキャンバスが彼女の色で染まる。飛び散る絵の具は彼女を汚し、また彼女もキャンバスを汚していく。世界を作り変えるかのように汚されたキャンバスは、まるで彼女の心を表しているようで、眩しく、遠い。
 そのような状態の彼女に話しかけるのは無意味だといつから分かっていたのだろうか。それだけ私が、その状態の彼女を見てきたということか。

 (…やっぱり気づかない、か)

 その小さな世界しか見えていない彼女を横目に、私はそっと教室へ踏み入った。後ろ手で音を立てないよう、そろそろと木造の扉を閉める。忍び足といった体でじわじわ中に入り、ゆっくりといつもの椅子を出し、そしてまたゆっくりとその場所へ座った。浅く息を吸い、肩にかけていた学生鞄をそっと地面に下ろす。ストラップについた鈴の音で、彼女がこちらへ気付かないようにそっとだ。その一連の作業を終わらせると、私は深く息を吐いた。

 彼女の斜め後ろ、ちょうどキャンバスの半分が彼女で埋まるくらいのその位置。そこは私だけの特等席である。

***

 色が刻まれる。
 筆とキャンパスが直接擦れあう音に耳を傾けながら、彼女になら、いつか無色という色を作り出せそうだ、と私は思った。それほどまでに彼女の色は様々な色で溢れ、しかし他者を尊重しながらも自己を主張する奇特な色を生み出すことができるのだ。そしてその色合いが彼女独特の個性を作り、空間を造り、世界を創る。個性的だからこそ大会などでもひときわ目立つ。出る杭は打たれるというが、それに対して難をつけようにも難しく、彼女の絵を見た誰もが、最初は言葉に詰まり何も言えなくなってしまう。陳腐な言い方をすれば完璧。それが彼女の絵であり、今まで生きていた彼女自身を表す一つでもあった。

 小さいころからやっていると言ってもそれは一種の才能で、その才能を見て絵を止めてきた人も多いという。彼女はいつも「これは他人の夢を奪う、残酷な才能だね」と言うが、けれどその表現も当たっていると言えた。良い面があれば悪い面もある。彼女の絵や色は人をとりこにするが、しかしまた同時に人へ限界を見せてしまっていた。
 そうしてまた、新たな世界を創り続ける。人の夢を潰した分だけ、彼女は世界を創り続けるのだ。

 「…あぁ、いたの、椎名」
 ふと、キャンバスへ注いでいたはずの視線がこちらへと移った。ぼーっと熱を含んだその目は、ようやく私を捕えたようだ。集中して呼吸を忘れていたのか、酸素を取り込もうと大きく二度深い呼吸を行った。そうして落ち着いたのか、今度は焦点があった目でこちらを見る。
 「気づかな、かった。止めてよ、ね、そーいうの」
 見られるの苦手なんだ、と赤い絵の具を頬につけ、小さな子どものように怒る。それはそっと見ていた私に対する怒りなのか、はたまた気づけなかった自分への呆れなのか。

 椅子ごとずりずりと彼女に近づく。筆を片手にくるくる回す彼女は、近づいてくる私に向き合うように、キャンバスに背を向けた。
 「ごめんね。でも御井羽さん、気づかないでしょ」
 「ん、ま、そうだけど」
 んーと軽く伸びをしてキャンバスの世界からこちらへ戻ってきた彼女は、未だ怒り気味な顔をして返事を返す。といっても、さっきよりは怒ってないようだ。にっと笑って、まぁ許したる、となぜか偉そうな口調で言われた。いつの間にか見知ったるお調子者ないつもの彼女に戻っていた。
 明るく、可愛い、いつもの彼女に。

 「だからって勝手に見るのはどうかと思うけど」
 「だって見たかったし」
 「…もし私がうがーってキャンバス割り始めたらどうしたわけさ」
 「う、え、割るの?痛くない?」
 「いやまぁ嘘だけど」

 割るところを想像し顔が無意識に歪む。絶対痛いと心配したというのに、あっさり返ってきたその返事。とっさの反応が出来ない。ちょっとして、軽い冗談に騙されたのか、と気がついた。わざとらしく目を細め睨むと、してやったりといった顔と目線があう。
 「なんでそんなちいさな嘘つくのよ」
 「椎名の騙されたって顔が見たかったからね」
 くす、と笑う彼女からは悪気などみじんも感じず、逆になにかもう許せると思う私は、あぁ、なんだろうか、彼女に毒されているのか。

 彼女が立ち上がった。それによって、隠れていたキャンバスが姿を現す。
 大きい紙と言えばA5の私からするととてつもなく広いそのキャンバスは、まだ彼女の色が乾いておらず、蛍光灯の光を鈍く反射した。どうやらそれは一人の人物らしい。といっても、顔は見えない。その人物は目の前で手を高く交差しており、その両手首を制服のネクタイで拘束されていた。ちょうど顔が隠れる位置だ。乱雑に乱れた髪はちょうど今の私のような長さで、制服は前のボタンがはだけ、少女の白い肌をほんのりと露わにした。危ない、というラインで下着は見えない。しかしその見えない加減が更に卑猥な感じを主張しており、唯一見える顔のパーツ、半開きに濡れ薄く笑った唇が、見ている人を怪しい世界に誘うような、艶めかしい表情。

 この人物が、私だったらいいのに。

 気付けばそう考えている自分に驚き、その考えをすぐ否定した。
 それではまるで、私が彼女に、そうされたいかのよう。
 押し隠していた気持ちが、外に出てきてしまいそう。
 「…椎名?」
 気付けば彼女は帰る支度を整えていた。あとはそのキャンバスをしまい、教室に鍵をかけるだけとなっている。じっと絵を見つめていた私を不思議そうに見つめていた。ふと恥ずかしくなり、顔が赤くなるのが分かった。なんでもないと言って、椅子を戻すため彼女から目を背ける。
 椅子を戻す。鞄を取る。深呼吸、深呼吸。落ち着いて、大丈夫。彼女には、私が絵を見つめているように見えただけで、決して私の考えまでは読めてない、はず。
 くる、と一回転して彼女のほうを見ると、彼女はキャンバスを片づけて鍵を手に立っていた。さっきから行動が素早い。動揺で私の時間感覚がおかしくなっているだけかもしれないけれど。彼女の顔を直視できないあたり、まだ落ち着いていない私がいる。

 「椎名」
 「なんでしょうか」
 「顔赤い。熱でもあるの?」
 「ない、けど」
 その絵が私だったらいいなって考えてました。なんて言えるわけがない。

 なにか責めるような目線に耐えきれなくなり、言い訳でもしてみようかと彼女の顔を見て、私はつい表情が変わるのを抑えきれなかった。というか笑ってしまった。今度は困惑する彼女。そしてそのミスマッチな彼女に、やはり笑いがこらえきれない。
 「急に笑い出して、椎名やっぱり変だよ」
 「御井羽さんより変じゃないと思うけど」
 「ん?」
 私の返答に、「よく分からない」といった表情で見返された。不思議そうにしてれば責める顔、そしてすぐに困惑した顔。くるくる表情が変わる彼女。そんな彼女を見て、落ち着き始めている自分に気付いた。今度はちゃんと落ち着いて、手を伸ばせば届く距離まで近づき、少し背の高い彼女の頬へ指を伸ばして、それについた赤い絵の具を見せる。

 「それともわざと、だったかな」
 「…嫌味か椎名」
 「じゃあ御井羽さん、これついたの気付いてなかったんだ」
 「うるさい」

 失態を侵したと訴えるその口調は面白く、空いている手で口元を押さえくすくす笑う。堪えたくても堪え切れない。ちょっと拗ねたその表情が、笑いを増長さえる。
 すると急に手首を掴まれ、自身の頬に衝撃が走った。意味が分からず相手を見れば、勝ち誇ったような笑み。指の腹を見て、指の赤は頬へと移ってしまったのだ、と気づいた。
 「…なんで付けるの?」
 「いやいや、お揃いにしたいなぁなんて」
 わざとらしいイントネーションに有無を言わさぬ口調で言われれば私の笑いはひっこみ、やり返したと満足げに出口へと向かう彼女を目で追った。がらがらと扉が開かれる。そしてそのまま廊下へ出る彼女。まさかそのまま帰るとかいうの。落とすとか、そういう選択肢、ないの御井羽さん。やっぱ変だよね、さっき否定しなかったしね。っていうか私、お揃いとかちょっと、ダメなんですけど。恥ずかしい。

 心の声が溢れてきて、結局何も言えず、振り返る彼女とばっちり目が合った。頬についた赤はまだ乾いてないのか、きらりと光を反射する。
 「帰ろっか椎名」
 当たり前のように言う彼女。
 彼女の目に、赤く頬を汚した私が写り込む。
 「ん?」
 伸ばされたそれ。こちらへおいでと誘う手。
 仕方ない、お揃いのままにしといてあげる。なんて強がった私の頬を、絵具ではない、なにか別の違う赤が薄く染め上げていった。

 「御井羽さん」
 「なぁに」
 「あの絵、完成させたら真っ先に見せてね」
 「いいよ、椎名にあげる」
 「…いや、貰うのはなんと言いますか…」
 「貰ってよ」
 「だって、あの絵、なんか危ない。いけない感じ」
 「…モデル誰だか知ってる?」
 「知らないよ。誰?」
 「椎名」
 「………ん?」
 「椎名だよ。椎名を好きにしたかった」
 「なにそれ」
 「好きなんじゃない?」
 「………え、ちょっと待って、え、え? す、え?」
 「だって私、椎名のこと好きだし」


ちなみに。
「心映」は私の造語です。

作成日:110425

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