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別所益枝
別所益枝(ベッショ マスエ 1863〜没)
本名別所ます。旧暦 文久3年(グレゴリオ暦 1863年)、山城国(現在の京都府京都市)生まれ。学歴等は不詳。
明治16年以前、関西歌舞伎の女役者・尾上梅昇一座に加入。尾上梅曉を名乗って初舞台を踏み、花形俳優として売り出す。なお、六代目尾上梅幸門下の尾上梅昇(西村辰之助)とは全くの別人。明治25年以前、これまで尾上梅昇、尾上梅花、中村春吉、嵐珏藏らと共に東向座(大黑座)を経て、夷谷座の専属として活動していたが、後に福井座に異動。福井座の竣工と同時に転勤したものと思われる。一方、夷谷座では大谷友吉、中村仲吉、市川由尾、市川花松らが専属として活動。福井座と拮抗していたようだが、夷谷座、大黑座など新京極各座で競演もしている。明治33年、福井座が布袋座と名称変更に伴い、興行が打ち上げとなる。夷谷座専属の中村仲吉、市川花松らの加入に引き換え、尾上梅昇らと共に福榮座に転勤。この間も、大黑座など新京極各座で競演。明治36年、布袋座が朝日座と名称変更。尾上梅昇らと共に朝日座に復帰したとされる。
明治39年以前、牧野省三が経営していた千本座に初出演。関西歌舞伎・片岡市之正一派に加入し、千本座の専属に転じる。明治42年、牧野省三の招聘により、日活の前身である横田商會に入社。牧野省三監督『菅原伝授手習鑑』で映画デビュー。片岡市之正・尾上松之助一派で唯一の女優として売り出す。明治45年、横田商會改め日活を一時退社。この後、関西歌舞伎に戻ったか、一時休業したか否かは不明。大正6年以前、日活法華堂撮影所に復帰したとされ、旧劇映画『鬼丸花太郎』などに出演。
大正12年、日活を退社。牧野省三の招聘により、マキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。芸名も別所益枝と改名し、衣笠貞之助監督『花咲爺』などに出演。特に母親役・老け役を多く務めた。大正13年、東亞キネマと吸収合併し、東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。牧野省三が東亞から独立し、マキノ・プロダクシヨンを創設した後も暫くは残留する。この間、別所笑子、別所ます子、別所ます江を名乗っていた時期が有る。昭和2年、東亞を退社。マキノ・プロダクシヨン(御室撮影所)に移籍。吉野二郎監督『怪談 狐と狸』などに脇役出演した他、勝見庸太郎プロダクシヨンなど提携プロの作品にも積極的に助演する。昭和5年、マキノプロ争議の発生に伴い、中島寳三監督『信州俠客傳』に出演したのを最後にマキノを退社。芸能界を引退した。
晩年の消息は不明だが、元日活太秦撮影所長の池永浩久が大日本映畫大道會を組織した昭和15年12月1日以前には、既に故人とみられる。また、京都府京都市上京区にある法輪寺(達磨寺)には、別所の霊牌が祀られている。享年不詳。