エロスの画家・高橋秀の物語(11)【アートのさんぽ】#22
高橋秀が1970年代前半にたどり着いた、エロティシズムを包含した色彩豊かなエロスの表現とは何か。
エロスの萌芽としての有機的なフォルム
高橋秀は、1971年の第10回現代日本美術展に《ブルーボール》(1971年)を招待出品した。
現代日本美術展は、1954年からはじまる展覧会で、1960年代以降は、現代美術の状況を反映させる展覧会として定着していた。高橋は、これまで1966年の第7回展、1968年の第8回展、1969年の第9回展に出品していて、第8回展ではT氏賞を受賞している。
この第10回展は、コミッショナーに針生一郎と三木多聞が就任して「人間と自然」というテーマをたて、1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」とともに時代を画する展覧会として記録に残っている。
針生一郎は、展覧会図録のなかでその趣旨を述べる。
「人間と自然との関係は、人類史の根本的問題であるとともに、芸術の永遠のテーマだといっていい。だが、公害や環境汚染の問題をきっかけとして、自然への新しい関心が高まっているように、今日の美術のうちにも、あらためて『自然とは何か』という切実な問いが底流している」と。
その上で、展覧会を「風景/イメージとしての自然」、「抽象/構造としての自然」、「状況/物質と行為との対話」、「情報/新しい言葉としての自然」という4セクションに分けた。
針生は続ける。「私自身がいま一番問題にしたいことは、そのなかで自然というものに繋がって、やはりわれわれが何か意味をはぎ取ったり、イメージを越えたり、あるいはことばにならないものを見出せば、そこにいわば人間と世界とが調和するところの自然があるのではないかという、そういう形の予定調和的な幻想、これはやはり再検討してみる必要がある」との問題意識であった。
この「人間と自然」というテーマは、さまざまな反響を呼んだ前年の中原佑介の「人間と物質」に呼応したもので、人間と物質のかかわりの前提として、人間と自然との関係が基礎になるのではないか、ということから着想された。当時の美術作家たちは、加工していない物質、素材そのままの物質との接触により、本質的な世界の構造や人間の生を探ろうという傾向をもっていた。
欧米においては、1969年のベルン美術館での「態度が形式になるとき」展、アムステルダム市立美術館での「ゆるんだ木くぎ 状況と隠された構成」展、ホイットニー美術館での「反イリュージョン」展などで、コンセプチュアル・アート、アルテ・ポーヴェラ、ミニマル・アート、アース・ワークといった傾向を紹介した展覧会が次々と開催されていた。それを受けて、中原の「人間と物質」の開催があり、さらに針生たちの「人間と自然」へとつながっていた。
高橋の《ブルーボール》は、「抽象/構造としての自然」というセクションに展示された。
このセクションは、自らの仮説や方法に基づいてひとつの構造や世界の鋳型のようなものを提示するというセクションであった。
《ブルーボール》は、ゆるやかな曲線による有機的なフォルムのピースが、複数寄せ集められ、全体として統一された楕円状の有機的なフォルムをなしている作品である。内臓のような、ある器官のようなフォルムの集合体であり、全体としては、タイトル通りに、青色で統一されたボール状の作品なのである。
これが「構造としての自然」を表していると捉えられた。高橋独自の自然観、つまり人間の原型的な生命、あるいはエロスの萌芽を表したものでもあった。
針生一郎は、高橋のローマのアトリエを何度も訪ね、その作品傾向を熟知していた。
1965年と1967年、そして1968年に訪ね、作品傾向が変わっていく様子をつぶさにみていた。1967年頃の作品について、針生は次のように述べた。
「一種のシュエイプト・カンヴァスにアクリル絵具の原色を配した作品では、色彩の純度や強度とひろがりが、分割された面やヴォリュームと対立し、あるいは均衡しながら、充実した統合をめざしている」と。
1968-1969年頃の作品については、次のように述べた。
「シュエイプト・カンヴァスやレリーフというより、平面の造形に近づいていった。それはオブジェと空間を統合する空間だ、とかつて批評家アルガンは書いたが、たしかに実体であると同時にイメージのある独特の世界が、その色彩と面の配列と対照のうちにあらわれている」と。
作品が独自の世界、自然を表しているとした。
エロティシズムのフォルム
翌1972年に東京画廊で高橋秀の個展が開催され、《ピンクの中での思考》(1971年)など18点が出品された。イタリアに渡って以来、本格的な日本での個展としては最初のものであった。
東京画廊は、山本孝と志水楠男が1948年に数寄屋橋画廊として開設した画廊で、1950年に銀座に移してから東京画廊と改称した現代美術専門の画廊であった。鳥海青児展から始まり川口軌外、浜口陽三、斎藤義重などの展覧会を開催してきた。
東京画廊での高橋秀の担当者は、1961年に駒井哲郎の紹介で知り合っていた石井利治であった。石井は、ギャラリーキムラの番頭でもあった。
カタログのテキストを書いたのは旧知の美術評論家、中原佑介であった。
中原は、高橋の表現を次のように位置づけた。
高橋は、フォンタナの空間主義の影響のもとに新たな展望を切り開きつつあり、絵画を「吸い口」ではなく、周囲の空間へ向かっての「吐き口」にしようとしている。つまり、求心的ではなく、拡散的なものにしようとしているという。
高橋の変形カンヴァスは、フォルムとフォルムの接触、相互浸透、重なり合いなど空間的関係を基本としていて、その構造は、究極的に2つのフォルムの接触に還元される。画面上の曲線は、あくまでも2つのものの接触を際立たせるためにある。
出品作のエロティシズムを誘発するものは、こうしたフォルムの接触、相互浸透という空間的構造に基づいている。このフォルム同志の接触ということを性的なものとして見るなら、そこには「汎性的思考」というべきものがあるとした。
その思考は根源的に2つのものの存在を前提にするが、これが2つから3つ、4つへとフォルムの増加にともなって空間的に拡張されていく可能性をもっている。それが周囲の空間に対する「吐き口」(拡散的なもの)という意味である。さらに色彩の豊富さにも特徴がある。それは単独では意味をもたないが、色彩とフォルムが接触することにより意味をもつ。
「接触というのは一面からみれば一体ということだが、他面から見れば分離ということ」であり、それは変形カンヴァスというより複合カンヴァスである。「これは一種のきわめて独自の反レリーフだと思う」とした。
たとえば《ピンクの中での思考》を見てみてみよう。
ここには直線が存在せず、全てが曲線からなる8つのフォルムから成り立っている。各パーツは複雑に木組みされた支持体にカンヴァス地を張り、角をアールにして、自動車用の塗料(ラッカー)で塗ったもので、各フォルムは何かの生き物のような、内臓のような有機形態をもち、それぞれが接触し、重なり合って1つのフォルムを形成している。配色は、8つのフォルムのうち、6つがピンク色、1つがオレンジ色、残りがオレンジ色から赤へのグラデーションとなっていて、全体として花心のような、あるいは肉体のようなイメージである。
高橋は、この作品を壁に展示するのではなく、床に置いた台の上に据え置き、絵画でも彫刻でもない、新しい空間を意識的に提示しようとした。
この展覧会は、『芸術新潮』(1972年11月号)の展評でとりあげられた。
「高橋が安井賞をもらったのは1961年で、その時の苦渋に満ちた画面は、アカデミックな具象形態を振り切れないままに純粋な造形構築をしようとした時に生じる危険な鬱血状態を示していたものだった。それからほぼ十年の歳月が経っており、イタリアの簡明な造形思考に影響されながら、外に向かって自己解放をして行った彼の変身の状況は、今度の発表を見ると十分に納得できる。ある有機的なフォルムを前後に圧縮した時に生じる面と面の、はちきれんばかりに怒張した接触の形が、優美な曲線と明快な色面対比で語られるわけだが、再現的要素はギリギリのところで捨てられておらず、奇妙なことに人体のからみ合いや内臓の状態を連想させるところが興味深い」と。
このフォルムが、高橋が日本を離れたころからずっと求めていたものであった。
高橋も次のように述べる。
「-空間に呼応する大らかなヒューマンに根ざした強力なる造形-これがその時点で本能的に摘出した私の仮説であり、日本脱出の目的だった」と。
高橋がこの《ピンクの中での思考》で取り組もうとしたのは、根拠をもった力強い造形である、その根拠というのがエロティシズムであった。そのフォルムといい、色彩といいまさに肉感的なエロティシズムを前面に出した作品だった。
高橋は、当然ながら美術の系譜を念頭に入れつつ、作品の造形性を発想してきたわけであるが、イタリアに暮らしてみると、アートが生活の中にすっかり溶け込んでいて、一般の家庭でも壁という壁に絵画や写真を飾りたてる習慣を持っている現実を知り、鑑賞者を元気づけるアートの重要性を考えるようになった。
その接点としてエロティシズムは有効と思えた。だれもが頬を緩め、目を細める。エロティシズムは、幼いころの体験などをもとにして心の底から自然に浮かび上がってきたもので、生きることの原点といえるものであった。だからこそ力強いフォルムと色彩を持ち得たのである。
カラフルでエロティックな有機形態
1973年、高橋はローマのロンダニーニ画廊で個展を開催した。
カラフルでエロティックな有機形態はこの個展でも主役だった。
ロンダニーニ画廊のオーナーは、マリオ・アポローニだが、高橋の版画の仕事をしていた版画工房の摺り師のフランコ・チョッピも資本参加していた。それまで結んでいたミラノのアリエテ画廊の契約が切れた1972年に、誘いがあった。ロンダニーニ画廊はなにより広い空間を持つ画廊であった。
この展覧会の長文の批評がローマ市の文化広報雑誌『Capitolivm』に掲載された。美術評論家アルトゥーロ・ボーヴィが高橋秀を現代美術の代表的作家としてとりあげたイタリアにおける最初の本格的な評論であった。
ボーヴィが関心をもったのは、高橋のエロティックなフォルムと独自の色彩は、どこから来たのかということであった。
そのフォルムは、ピエト・モンドリアンのような合理的な幾何学的フォルムからではなく、自然を詩的にとりこんでいく日本的な浮世絵版画からきたものだと考えた。
ボーヴィは、高橋が「自らの人生をさらけ出す必要のある画家」の道を選び、芸術的な想像力をもって、人生におけるエロティシズムの抑圧を解き放ち、その自由を得るために、ローマまで来たのだとした。高橋は、フォンタナの空間性に興味を抱きながら、自身の独自のフォルムを探求し、「その原初的なフォルムを見出した」。それは浮世絵版画の美しさを理解して得られたものでもあった。高橋は、そのエロティシズムを色彩とフォルムに置き換え、その平面にヴォリューム感を与えた。
高橋はイタリアに来た当初、禅のような、精神的な方向性を示すようなモノクロームの絵を描いていたが、開かれた世界を目指して、色彩を求めた。そのフォルムはすでに色彩をもっていることに気づき、社会のなかで生活し、生きていく人生に色彩を取り入れればならないと感じた。
海や風、水といったものは生命のダイナミックな要素であり、高橋の芸術の根源である。その自然の感性は、ユーモアや愛といった、萌芽的なエロティシズムのフォルムを生み出す。そのフォルムは、宇宙的な空間のなかで、物質世界から離れ、感覚器官にその根源をもつ具体的でシンプルなものとなった。
ボーヴィは、高橋のフォルムと色彩の価値を、モンドリアンの構造的、分析的な造形と比較しながら理解した。
モンドリアンは、詩情の根源としての知覚を、視覚的に言い換えて、純粋な抽象主義として表現した。高橋は、愛の感情の芽生えや人生に価値を与える表現をつくろうとし、知的な美しさやエロティシズムの萌芽のなかに、清らかな純粋さを見ようとした。
モンドリアンは、社会の合理的な要請を前提として、新造形主義の本質的なフォルムを、個と宇宙の間に追究した。これに対し、高橋は、自然との関係、個と社会との関係の中にフォルムを求めた。
モンドリアンの空間は、合理的な意識のイメージであり、理性的な介入によりつくられたもので、「芸術は、人生に先立つ」とした。高橋にとっては、芸術は人生の中で生まれたものであり、人生が芸術の尺度なのである。また、人生(生命)が生み出すエロスの本質の姿を表すことなのである。
エロティシズムを包含した色彩豊かなエロスの表現
高橋の色彩理論は、ヨーロッパの同時対比法ではなく、東洋独自のより少ない数の色彩による別の法則である。高橋の感情的な要求は、知的な構造、知的なイメージをつくり、そのなかで詩的なものに変貌させていく。このように「エロスから生まれる視覚は、生命の行為」そのものなのであるとボーヴィは主張するのである。
ボーヴィの高橋秀論の特色は、日本的な色彩理論と造形方法をもったものとして位置づけたことであった。
高橋は、イタリアに来た時、東洋的なものを排して空間的なものを求めた。そのなかで有機的でエロティシズムのフォルムと生命感あふれる色彩にたどり着いたのである。
それは、イタリアでの苦闘の日々の末に得たものであった。高橋は次のように述懐する。
「薄っぺらな情緒、情感ムードの拒否作業は、いつしか東洋否定、自己否定にまで発展して居た悶々の年月、当然明日の生活資金にも汲々とした時期でした。そして、東洋的情感を拒否して、己ではやっとふっ切れたとする作品群が、ヨーロッパの人々の目には、まさしく東洋の色であり東洋の造形であると映じ指摘された時、世に言う-ハラリと目のウロコがとりのぞかれた-思いがあったことを記憶して」いると。
高橋は、この時期に画家としてのひとつの独自スタイルを手に入れたのである。
安井賞を受賞したころ、日本的な浪花節ではないリアリティを求めてコンクリートを使った現代的なマチエールを作っていたが、どこか物足りないものを感じていた。そのためにイタリアに渡り、日本で得てきたものを一度捨て去り、新しい空間を求めてもがきはじめた。フォンタナなどの空間主義やイタリアの建築空間などを吸収しながら、新しいフォルムの在り方を研究してきた。
そこでたどり着いたのが、エロティシズムを包含した色彩豊かなエロスの表現であった。しかもそれは、どこか日本的な柔らかさや優しさを備えていたのである。
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社